その手をどけて

2017/04/01







「逃げ道なら、ちゃんと確保して――、っ……」
 十座の声が、途中で止まる。
「おーい何度目だぁ?」
 隣を振り向いて、文句の一つでも言ってやろうと、「ルチアーノ」から「摂津万里」へと戻る。次の台詞に合わせて動き出そうとしていた万里は、それを受けて指先を止めた。公演は終わったとは言え、稽古を疎かにはできない。冬組の稽古にかかり切りになっている監督にも、日々の積み重ねは大事だよとくぎを刺されてしまっている。だからというわけではないのだが、ガラの悪い連中がそろっているというのに稽古には熱心に取り組んでいた。
 が、今日はひとり、様子がおかしい男がいる。兵頭十座だ。
「やる気あんのかコラ、あぁん?」
 リーダーである万里の、宿敵とでも言えばいいのだろうか。絶対に負けたくない相手である。芝居にかける情熱はいっそ恥ずかしいほどだが、今は――万里にもその気持ちが分かる。人一倍下手で、おかげで伸びしろは誰よりもある男。喧嘩でも、芝居でも、何一つ負けたくない。そんな相手。
 顔を見ればガンつけあって、単語で貶しあい、時には胸ぐらをつかみ合うのが日常茶飯事。
 だから今回も、そうなると思っていた。
「…………悪い、もう一回頼む」
「はぁ? ……ンだよ、気色悪ィ」
 予想に反して、十座は素直に詫びてくる。好戦的になっていた分出鼻をくじかれて、万里は眉を寄せた。ガシガシと髪をかき混ぜて、口唇を噛んでいる十座が目にとまった。ここで突っかかれば大人気ねぇと檄だが喝だかが飛んでくるのは分かりきっている。万里は仕方なく、じゃあ今のとこもう一回と稽古を続けるのだった。



 しかしそのあとも、十座の芝居がたびたび引っかかる。公演は上手くいっていた。公演中にも力を付け、千秋楽も大成功だったのだ。それなのに今さら、軽い通し稽古でつまずくなんて。
「十座サン、調子悪いっすね。どうしたんだろ?」
「う〜ん……体調でも悪いのかもな。夕飯は消化のいいものにしてやった方がいいな」
 同じ秋組で活動する太一や臣も、十座の様子がおかしいことに気がつく。台詞が抜けたり、立ち位置が違っていたりと、シーンを変えても十座の失敗は目についた。結成当初ならまだしも、どうしたのだろうと心配そうに万里との掛け合いを見守っていた。
 その中でただ一人、腕を組んでじっと睨みつけている男がいた。古市左京――カンパニー最年長クラスの男だ。職業がヤクザというせいか、そこに立っているだけでも威圧感がある。ケンカっ早い万里でさえ、あんまり怒らせたくないと思う人物だった。
 その男が不機嫌さを隠しもせずに、じっと十座を睨みつけている。ぴりぴりとした苛立ちは臣や太一にも伝わっており、しかしどうしたものかと一歩踏み出すのを躊躇っていると、左京の口唇から低い声が発せられた。
「七尾、バケツに水汲んでこい」
「えっ、はっ? 水、っすか?」
 太一が素っ頓狂な声を上げて左京を振り向く。なぜ水。なぜバケツ。あらかた想像はついて、それはさすがにと臣も止めようとするが、ぎろりと睨まれた太一は肩をすくめて稽古室を出ていった。
「さ、左京さん、そんなに怒らなくても。調子の悪いときだってあるでしょう」
 グループ内を宥めるのが臣の役目だったが、いつもは 万里と十座のケンカを止めるのが主だった。またかあいつらはと呆れる左京に同意しつつも、食事の話題や差し入れを出して場を収めていた。
 左京が芝居に対してストイックなのは知っているが、誰にでも調子の出ない時はあると、今回は左京を宥めようとしたのだが、耳に入れてくれているかどうかも分からない。ただじっと、台詞を詰まらせて俯く十座を睨みつけているだけだった。
 そうして、太一が稽古室に戻ってくる。左京に言われたようにバケツに水を汲んで。量が半分ほどだったのは、せめてもの牽制だっただろう。穏便に、と願った太一の望みも虚しく、左京の手がそれを分捕っていく。
「摂津、退いてろ!」
「はァ? うわっ、な、おい!」
 バシャリ。
 左京の声に万里が振り向くのが早いか、左京の持つバケツから、冷たい水が十座へと放たれる。突然あびせられた冷水に十座は息を飲み、左京を振り向いた。ガコン、と左京の放り投げたバケツが床を転がっていく。後ろの方で、青ざめて慌てふためく太一と、目を瞠ってあんぐりと口を開ける臣。襲ってきた冷水をすんでのところで避けた万里は、いったい何が起きたのかと目を瞬いた。
「な、…………にしてんだアンタ」
「左京さん、いくらなんでもこれは」
「マジでやるとは思ってなかったっスよ左京にぃ〜」
 稽古に文字通り水を差され危うく害をこうむるところだった万里は、事態を察知して左京に向き直る。
 臣は宥めるためよりも諫めるために背後から左京の肩を掴む。
 太一はおろおろしながら十座にタオルを渡す。
 そして十座は――悔しそうに左京を見つめていた。
「兵頭……てめぇ俺が昨日言ったこと忘れたわけじゃねぇよな。あァ?」
 臣の手を払い、左京は十座に詰め寄る。7センチ程度の身長差など、左京のドスの利いた声の前に散っていく。
「…………っす」
 十座の低い声が、メンバーの耳に入る。いつも通りの稽古の中でなら、怒られてやんの、と笑ってやる万里だが、さすがにこれはいつも通りの説教ではないと気づく。
 昨日? と思い起こしてみても、稽古中は何もなかったはずだ。変わったことといえば、いつも部屋で突っかかってくる十座が何も言わずベッドに上がっていったこと、いつまでたってもいびきが聞こえてこなかったっことくらい。寝られなかったのかと思えば今日の不調も頷けたが、人一倍芝居に貪欲な十座を、何がこんな風にしてしまったのか。
「芝居に集中できねぇなら、色恋にうつつ抜かしてんじゃねぇ!!」
 左京の放った言葉に、3人の驚きが重なる。息を飲んだのは、十座だけだった。
「いろこ……、色恋って、……マジかお前」
「十座、お前……」
「えええええマジっすかあ十座さんんんん」
 芝居にしか興味がないのではと思うほどストイックな男が、まさか恋愛方面で左京に説教を食らうなんて、思ってもみなかった。万里はただただ驚き、臣は感心したように息を吐き、太一は頬を赤らめて目を輝かせる。
 だがこの男の性格では、さぞ不器用な恋しかできないだろう。そう思わせるのは、いつも以上に硬い十座の表情。
「……左京さん」
 責めるような声音で、十座は左京の名を呼ぶ。
 あーこりゃマジだなと、万里は心の中でそう呟いた。からかってやれる状況ではない。相手のことが気になって芝居に集中できなかったというのは責めてやりたいところだが、その気持ちは分からなくもないから困る。
 本気の恋なら、茶化せない。
 兵頭が恋ねえ……と感慨深げに肩をすくめたその時。
「俺を好きだなんだとほざく余裕があんなら、殺陣のひとつやふたつこなしてろ!!」
「左京さん!」
 左京の怒鳴る声と、悲鳴にも似た十座の声が重なる。だけど、他の3人にも聞こえてしまった。万里は勢いよく十座を振り向き、臣はゆっくりと目を瞬いて頬を掻く。太一は二人に遅れて意味に気がつき、声を失っていた。
「……なんだよ、野郎に告ってくるからには、それなりの覚悟ってもんはしてたんだろうが」
 青ざめた十座に目を細め、左京は更に声を低くする。苛立ちが増した音に3人ともが気がついて、左京の機嫌が悪かった理由を知った。
「あ、あの……左京さん、それは……左京さんの芝居に惚れているって意味ではないんですか。俺だって引っ張られる時あるんで、分かりますけど」
「そっ、そうっすよ。俺っちも左京にぃのガラの悪い演技……あわわわすごみのある演技ちょー好きっすよ!」
 臣と太一はそうフォローするも、万里だけは違った。
 ――――あれは、違ぇ。マジだ。
 日頃から何かと衝突している万里には、十座の本気が分かる。そんな上っ面だけでぶつかり合えるのなら、万里は今ここにいない。自分をアツくしてくれる相手は、アツい男だと知っている。だからこそ負けたくないし、全力でぶつかっていきたいと思っている。
「演技に惚れてるってだけじゃ、キスなんてしてこねぇだろうが。気色悪い」
 額に筋さえ浮かべる勢いで、左京は十座をまっすぐに睨みつける。え、わ、と声を詰まらせる臣と太一。万里は、すぐ傍にいる十座の口唇が、震えていることに気がついた。その瞬間、腹の底からわき上がってくる怒り。勢いに任せて、万里は左京の胸ぐらを引き掴んだ。
「おいオッサン。てめーにはデリカシーってもんがねぇのかよ」
「あァ?」
「人の前で言うこっちゃねーだろ。そういうのはてめーら二人でカタぁ付けろや」
 知られたいものではない。相手が普通にオンナだったら話のネタにもなるけれど、同性に告白して、しかも恐らく合意のないままキスまでしたなんて、十座は知られたくなかっただろう。他人の、更にいえばケンカ相手の色恋になんて首を突っ込みたいものではないが、突っ込ませたのは向こうの相手だ。
「ヤクザ相手にメンチ切るとはいい度胸じゃねぇか、摂津。……ガキが生意気言ってんじゃねぇ!」
 胸ぐらを掴んだ手を振り払われて、万里は反射的に身構え反撃の拳を繰り出す。ケンカ慣れしているせいか、本当にとっさだった。だが腹に向かっていった万里の拳は、左京の膝で蹴り上げられ、軌道が逸れる。
「なっ……」
 予想していなかった。何度も殴り合ってきた十座ならいさしらず、左京に拳をガードされるなんて。だけど、すぐに気がつく。万里は笑った。
「ハハッ、そういやアンタ、ガチだったっけ。マジで相当修羅場くぐってきたんだろ――なぁ!」
 万里はガードされたことへの八つ当たりも多めに含んで、再び左京へと、今度は顔に向けて拳を振るう。どう返してくるか、実は少し楽しみだったりもしたのだが、それは左京にガードされる前に止められた。
「やめろ摂津!」
 頬の十数センチ手前、左京の手のひらとぶつかる寸前。無駄にデカい手で万里の拳を覆い止めてきたのは、十座だった。
「……やめろ。役者の顔なんだと思ってんだ、馬鹿が」
「はあぁぁ〜!? おいてめっ……俺はな、てめーが……!」
 お前のためになんて言うつもりもないが、あまりにも腹が立ったのに、なぜ当の本人が止めてくるのか。文句のひとつでも言ってやれよと十座を振り向いたが、万里はそこで言葉を失う。ケンカの中で、芝居の中で、寮生活の中で、それなりにいろんな表情を見てきた気がするけれど、これはない、なかった、泣き出しそうな顔なんて。
「兵、頭……」
 声を呑む万里の横で、十座は左京に向き直る。その時にはもう、いつもの硬い表情に戻っていた。
「すんませんっした、左京さん」
 言って、頭を下げる。濡れた髪から、雫がぽたり、ぽたり。
「……金輪際、ふざけたこと抜かすんじゃねぇぞ」
「…………っす」
 これ以上ないくらいの左京の低い声と、躊躇って詰まる兵頭の声。それをいちばん傍で聞いていた万里の苛立ちが、最高潮に達した。
「あっ、おい万里、どこ行くんだ」
「こんなんで稽古になんかなんねーだろ、やってられっか!」
「万チャン!」
 万里は稽古室のドアを乱暴に開け、左京を振り向く。
「おいオッサン! ガキだってなあ、マジな恋くれーしてんだよ!!」
 そう吐き捨てて、乱暴にドアを閉め出ていった。
 そして、左京の長いため息が聞こえる。壁に取り付けられた手すりにひっかけていた自分のタオルを引き掴み、左京も稽古室を出ていく態勢だ。
「アイツの言う通り、今日は稽古になんねーだろ。リーダーが抜けた上に、腐抜けたままのガキがいるんじゃな」
 左京さん、と臣が止めるのも聞かずに、ドアは左京の手で閉められる。仕方ないかなとは思いつつも、十座のフォローをどうしようか、いい答えが見つからない。
「臣くん、どうしよ……」
「太一、俺はここ片付けておくから、十座と風呂いってこい。あのままじゃ風邪を引いちまうだろう」
「えっ、あっ、そ、そうだよね、十座サン濡れたまんま……」
 大変っス! と太一は慌てて十座に駆け寄り腕を引く。それはまるで、犬が飼い主に散歩をせがんでいるかのような光景だった。
「いや、臣さん、俺がやるんで……」
「いいから、お前は風呂だ。大事な秋組のメンツなんだからな、風邪なんか引いてくれるなよ。まぁ……色々あるだろうが、愚痴くらいならいつでもきくから」
 元気出せ、と臣は十座の背中をぽんぽん叩く。そんなことしか言えないが、早めに立ち直ってほしいものだ。
「……っす」
 ぺこりと頭を下げた十座は、ワンコもとい太一に腕を引っ張られ、稽古室をあとにした――。


エイプリルフールの嘘新刊予告でした。