Call my name

2005/12/29



「ユウちゃん。ユウ」
何度目になるだろう、と思った。
ベッドの上で読んでいた書物から顔を上げ、短く吐いたため息は、彼に届いただろうか。
「そんな何度も呼ばなくても、聞こえてる。なんだ、さっきから」
脚の間、背後から抱きしめられて、耳元で呼ばれればイヤでも聞こえてくる。
だけど別段呼んだ後に何をするわけでもなく、ただ抱き込んで、肩に顔を埋めるだけ。髪が首筋に当たって、くすぐったさに身を捩る。




最初呼ばれたときは、1度だけ返事をした。けれども首を振って【なんでもない】と返されて。不思議に思いながらも視線を戻したが、10分経つか経たないかの内に再度呼ばれて、視線だけを返してやった。
それを気にする風でもなく、嬉しそうに笑うラビ。
内心で首を傾げながら書物に集中しようと目を戻したのは。3度目まで。
4回目からはもう面倒で、視線を返すことさえしなくなったけれども。
「ユウ」
「だから、何なんだよ。怒るぞ」
何がそんなに楽しいのかと思うほど嬉しそうな彼を、そう言って振り返る。


「ごめん怒んないで。ただユウの名前呼びたかっただけなんさ」


「…はぁ?」
一瞬、何を言われたのかと思った。大体においてラビの言うことは突拍子もなくて、理解するまでに多少の時間を必要としてしまう。
「ユウちゃんの名前、好き。すごく好きなんさ」
抱く腕が強くなる。普段なんでもないようなことのように呼ばれる音が、感情ひとつで受ける印象がまったく違う。
「ユウ、大好き」
本当に愛しそうに声に出されて、言葉に詰まる。
なんと返してやるべきなのか。
礼を言うには照れくさいし、では名を呼び返してやろうか。それとも不意の口づけで。
「ユウ、っていう音が、世界でいちばん好きになった」
だから呼ばせて?と振り向いたこめかみに、ふわりと落ちる口づけ。先を越された様で何故だか酷く悔しいと感じた。
「ユウ、…ユーウー」
「……」
そして、同時に気づく。

スキだ、と手放しで喜んで呼んでやれる名前を知らないことに。

ラビ、という音の名前は知っていた。昔ジュニア、と呼ばれていたことも知っていた。
ただ、本当の名前は知らなかった。
「俺…、は、お前の名を呼べん」
躊躇いがちに呟いたユウに、ラビは首を傾げた。
「どうしてさ? いつも呼んでくれてんじゃん。ラビ、って」
「それはお前の名前じゃねぇだろ!」
この男は今、その名を名乗っている。だがそれはこの世界に生れ落ちたとき、貰い受けたものではない。
「ユウ…」
ブックマンを継ぐと決めたとき、現ブックマンからもらった物だと聞いたことがある。名前も国籍も捨てて、この男はブックマンとなる生を選んだのだ。
「俺は、お前の国も名前も知らないで…っ…お前のことなんか全然、何もわからねぇ…っ」
「ユウ、ユウちゃんごめん、泣かないで」
そう言って強く抱き寄せると、【泣いてねェ】と強がる言葉が返ってくるのは、いくらか想像できたこと。この人は弱みを見せることを潔しとせず、いつもひとりで耐えている。それをどれだけ悔しいと感じているか、知りもせずに。


「…ユウ、ごめん。オレの本当の名前、ちっちゃい時に売ったんさ」


ビクリと身体が強張ったのが、密着させたそれから伝わってくる。数瞬後に顔を上げたユウを、優しく見下ろした。
「売っ…た?」
「貧しかったんさ、家。だから、売ったよ。名前とか、……右眼も」
声が出て来なかった。自分の家も裕福な方ではなかったが、それでも。
そんな顔しないで、と苦笑が零れ落ちてくる。なんでもないことのように口にされたことが、思いのほか衝撃だった。
「オレの名前は今、誰かが使ってる。だからオレがそれを名乗ることはできないんさ」
ごめんね?と微笑まれて、湧き上がってくる感情を抑えきれず、思わず顔を逸らした。こんな自分は見られたくない。
「ユウ? ごめんイヤな思い、させちゃったさ?」
「触んなっ…」
引き寄せた腕をパシリと払い、身体を遠く離す。彼が寂しそうな顔をしたのはわかっていたけれど。
「今俺に…触んじゃねぇ…っ」
こんな感情に巻き込むべきではない。こんな感情を持った自分に触れていて欲しくない。
こんな。
「ユウ、どうしたんさ?」
「………っお前の、名を…! 顔も知らない誰かが使っているのかと思うと……っ腸が煮えくり返る……!!」
こんな感情が自分の中にあったのかと思うと、嘔吐感すら沸きあがってくる。
自分が知らない名前を、【そいつ】は知っている。
嫉妬というには激しすぎて、憎しみというには少々幼すぎた。
自分の身体を抱きこんで、せめてこれ以上感情が流出しないようにと息を止める。
「ユウ」
「だ…から、触んなって…!」
尚も抱き寄せようとするラビと、逃れようと身を捩るユウ。ふたりの重みを受けて、古いベッドはぎしりと嘆いた。
「んっ…!?」
力任せに抱き寄せた、彼の口唇がユウのそれを奪っていく。
勢いにのけぞって、苦しさに息を漏らした。
「ん、んむ…っ…ぁ、ふ」
舌を差し入れて奥の方まで貪って、逃げ惑うユウを強く強く抱きしめる。
「ユウ」
口づけの合間に小さく囁いて、愛しそうに吐息を分け与える。
「ユウ、オレの名前、呼んで?」
解放されたユウは荒い息の中ラビを見上げて、人の話を聴いていなかったのかと目を細めてみたけど。彼はそれでも愛しそうに見下ろしてくるだけだった。
「ユウは、オレのことなんて呼びたい?」
「は…?」
そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
なんと呼びたいか。そんなことを考えて名前を呼んだことなど一度もない。ただその【名前】というのが脳の奥にあって、自然と口から出てしまうだけで。
「ユウちゃんの好きなように呼べばいいさ? だいたい名前なんて、自分で好きに決めれるもんじゃないんだし」
それはそうだ。生まれ落ちた時にたいていは親から名づけられるもので、自分で選べるものではない。
「ユウちゃんに呼んでもらえるんなら、なんだって幸せ」
ぎゅうと強く抱きしめられて、黒く渦を巻いていた負の感情がふしゅりと薄れてく。
そっと背中に腕を回し、肩に頬を預けた。
「……うさぎ…?」
小さく呟いたつもりだったが、彼にはやはり届いてしまった様で、くすりと笑う声が耳に入った。
「うん、ユウちゃんにそう呼ばれンの、好き」
では他にどんなものが好きだろうかと口唇を動かす。
「…ジュニア、とか」
「懐かしいさ〜」
普段呼びなれないその音は、自分にも新鮮なもので。ふたりしてくすくすと小さく笑った。
「じゃあ……バカ」
「…………それは、あんまり、嬉しく、ない、けど」
うぅんと唸るラビがなぜだか可愛らしく思えて、だけどこれでは自分の呼びたい名前になってくれない。ユウはゆっくりと身体を離し、正面からラビを見つめなおしてみた。
「ユウちゃん?」
不思議に思って首をかしげたラビの口唇に、ちょんと小さな口づけひとつ。
その口唇の先で、呼んだ。

「……Lavi…」

呼んで口唇を覆うと、強く肩を抱かれて押された。
ベッドの上に僅かに跳ねた身体を、ラビが衝撃をやわらげてくれる。それを知ってもう一度、彼に口づける。合間に呼ぶ【彼の名】が、次第に深くなる口づけの中に消えてった。
「La……vi」
愛しそうに呼んでやったら、吐息と共にユウと囁かれ、嬉しくて抱きしめた。




心に残る、音、あなたの、【名前】────