ふるさと

2005/08/17



 日本へ行くんさ。
 ラビからそう無線が入ったのはつい、数時間前。
 日本────わたしのふるさと。



 いつか行こうよ。  ユウは顔を上げた。気怠い身体を起こし、そう言って甘えるように引っ付いてくる大きな兎をぐいと押しやる。
 たとえばこんな甘い夜を過ごした後も、眠らずに語り合うことは少なくなくて。
「めんどくせ」
「えー、いいじゃんさぁ〜」
 汗で額に張り付いた黒髪を指で払い、ユウはぼすんと身体をベッドに戻す。激しく求められて、激しく求めて、しゃべることさえも面倒なのはいつものこと。それでも声を聴きたくて、お互い会話を探してしまうのももう、いつものこと。
「どんなとこ? ユウのふるさと」
 シーツの乱れたベッドに突っ伏して、視線だけ上げてくるのは、どうやらこの男の癖らしかった。
「…覚えてねーよ。そこにいたのは随分昔だし…小さかったからな」
 覚えているのは、酷く閉鎖的だった自分の周りと、やけにうるさいセミの鳴き声。
 この教団に連れて来られて、まず驚いたのは、【黒の】と称されているにもかかわらず開放的な空間。人懐っこい人間たち。飛び交うコウモリと、不似合いの鮮やかな木々。
「サクラ、って花、咲くんさ?」
「ああ、春だな。地域によっても違うだろうが…3月とか4月とか…」
「へぇ…ユウに似合いそうさ、サクラ」
 流れた口説き文句に、ユウの頬がサクラ色に染まる。
 慣れたと思ったそんなやり取りも、ベッドの上では一味違う。
「何…言ってやがんだ、バカ」
「えー、そうかな。この前写真で見たけど綺麗だったさー? 本物見てみたい」
「そんな大したモンでもねーけどな」
 ほんのり、ピンクに色づく花びらを、美味しいだろうかと口に含んでみたりした、何も知らなかったあの頃。世界が終焉に向かってひた歩いているなんて知らずに、自分がイノセンスを操るエクソシストだなんて知らずに、生きてきた。
「そんなことしか覚えてねぇ。夏は暑くて、冬は普通に雪が降って」
 だけどその暑さを川原で癒したり、その天からの降下物で遊んでみたり、そんな子供らしいことなどしなかった気がする。遠い遠い、記憶の欠片。必死で手繰り寄せても、厳格な父と気位ばかりが高い母と、虚栄心の強い姉。不幸せだと感じたことはなかった。それが普通だと思ってた。
「…帰りたいとは、思わない?」
「帰ってももう、何もない」
 自分の力に気づいたのは、物心がついてすぐのことだった。両親や姉が自分を畏怖し、縋るように叫んだあの言葉は、今も忘れない。


 バケモノ


 逃げ出した。その世界から逃げ出した。
 必要としてくれる世界に逃げ出した。
「母と歩いたあの道も、姉と眠ったあの部屋も、父と眺めたあの花も、もう遠い夢だ」
「見たいな。ユウの育ったトコ」
 ふたりで行きたい、と笑うラビに苦笑する。きっと気を遣っているに違いなくて、そんな優しさが心臓に痛い。
「無理だな。オレはこの教団に入るときにコムイに言ったんだ。【日本への任務は一切受けない】と」
 だから、任務であの地に行くことはないし、そもそも旅行なんてものができる状況じゃない。
「そうじゃなくてさ。この戦争が終わったら、ふたりで」
 一瞬何を言っているのかと思ってユウの息が止まった。
 考えたこともなかった。この世界戦争が終わる瞬間なんて、自分が生きているうちに来るのだろうか?
 そう思って何も答えずにいたら、見透かしたようにラビがきっと行けるよと笑った。
「ラビ…」
「世界中を旅しよう。ユウのふるさとも、オレのふるさとも」
「……オマエの生まれたとこって、どんな」
 どんなところだ、と言おうとして、ラビの人差し指に阻まれる。
「ナイショ。目隠しして連れてって、ユウを驚かすんさ」
「オイこらっ…」
 そのまま伸び上がって口づけてくるラビを押しやれずに、結局受け入れてしまう。
 逃げてきて、この教団に逃げてきて、初めに笑ってくれたひと。
「んん…」
「一緒に行こうさ…」
 あなたとふたり、ふるさとへ────




「神田? どうしたんだ元気がないな」
 昨日やっと、お目当ての元帥を見つけたっていうのに、とマリが見下ろしてくる。
「…なんでもねぇよ」
 ユウは答えて顔を上向ける。
 今頃どこにいるのでしょうか。
 いつかふたりで行こうといった。自分はそれに何も返さなかったけれど、あの男はきっと何もかも見透かしているだろう。
 そうでなければ無線越しにあんなことを言う必要はない。


【土産はいらんさ?】


 元々、赴いた地の土産をすぐに買いたがる男だ。だけど、今回は買って来ないと言った。
 いつか、ふたりで行くからいいのだと。


「行くとは、言ってねぇぞ…」
 見上げた空は赤い。
 今あなたの見る空は、どんな色ですか。
 いつか見るふるさとの空の色は、いったいどんな色ですか。


 いつか、あなたとふたり。


 それまで、

「生きてやがれ…バカヤロウが……」


 ユウは、見上げた空に、緩く笑った────