キスの意味

2006/05/04



 ててて、と後を追った。
 こちらが速度を上げれば向こうも意図的に速度を上げる。
「ユウ、待ってってば」
 引き止める声にも見向きせず、神田は六幻片手にただ前だけを見据えて歩いた。
「ねぇ、ユウ」
 この教団内でただ一人、カンダを名前で呼ぶ少年────ラビは不満というより不安げに眉を寄せ。
 お互い、ところどころ擦り切れた団服を歩く風になびかせ、司令室へと向かっていた。たった今終えてきた、任務の報告のために。
「ハナシくらいさせてよ、ユウ!」
 そっと腕を掴んでも、
「話すことなんかねぇよ、もう任務は終わっただろ」
 やっと口を開いたかと思えばそうやって手を振り払う。
 彼がイライラしている理由は、ラビにはひとつしか思い浮かばなかった。だからこそこうして、話をしようと言っているのに。彼の足は止まらない。
このままでは埒が明かないと、ラビは強く、石の床をつま先で押しやった。
「言いたいことがあるんさ!」
 そうやってやっと、速度を速めた足が彼の行く手に回り込むコトで、神田の歩行をとめることに成功。
 行く手を遮られた神田にしてみれば、急な視界の変化は迷惑極まりないだろう。案の定、眉間には皺が寄っていて。
「……ったく…なんなんだよてめェは!」
 舌を打って睨み上げるのもまた、彼特有の仕種で。
 ラビはコクリと唾を呑み、それからすぅっと息を吸い込んだ。
 そして、勢い良く体を折り曲げ。
「ごめんなさい!!!」
「……────あ゛?」
 前方に折られた身体はほぼ90、度。ラビのクセっ毛は、風と引力に負けて妙な方に傾いた。
「なに、してやがんだ? ウサギ」
 わかりやすいほどに大仰な【謝罪】に、神田は片眉を上げる。
「ごめんなさい! オレが油断なんかしなければ…っ、ユウが怪我するコト、なかったのに…!!」
 ラビは言いながらぎゅっと目を瞑る。そうすることで自分のミスが目蓋の裏に浮かび、今さらながらしまったと思って。


 お互い初めての任務だった。
 教団に入って一年あまり。お互い初任務のエクソシストがコンビを組むなどあまりにも無茶なハナシではないか、と言いたいところだが、人手不足ではそれもいたしかたない。
 シンクロ率の落ちてしまったイノセンスに気を取られ、目の前の障害に油断した。
「ユウがオレのこと庇って……怪我する必要なんて…なかったんさ!」
 前に出たのは親友の。まだ出来上がっていない体躯がしなやかで、目を奪われたその身体は、一瞬後に吹っ飛んだ。
 怒りからなのか別の感情からなのか、下がっていたイノセンスとのシンクロ率が急増する。
 我に返る頃には破壊されたアクマの残骸と、振り向いた時の【大したコトねェ】と切れた口の端を拭う神田の姿と。
 ほっと胸を撫で下ろしたけれど、異変には、気づいてしまった。
「なんでてめェが謝ってる。言っておくがオレはてめェを庇ったつもりなんか、これっぽっちもねェ」
 チッと舌を打った神田に、ラビはガバッと身体を起こす。
「だけどユウがイライラしてる!」
「ハ、【とりあえず謝っておくか】…か? ふざけんな」
「ちょ…っ待って!」
 高く結われた髪が揺れる。追い越す神田を、無理に引き止めた。
「ごめん……だってユウの六幻、傷ついちゃったさ…」
「────」
 神田は目を瞠る。
 確かに今左手に握っている六幻の刀身には、ピキリとひび割れたような小さな傷。AKUMAの攻撃を受け止めた時の、受け切れなかった余波、だろう。
 だが戦闘はアレで終わっていたし、気づかれる要素はなかったはずだ。
 だいたい、こんな小さな傷を。
「隠したって無駄さ? ユウ。気づくよ」
 ともすれば持ち主本人にさえ気づかれないような、小さな小さな綻びをこの男は。
「これからコムイんとこ報告に行って、修理してもらうんさ?」
「……ああ。こんな小さな傷、コムイならすぐに直せるだろう」
 だからその手を離せ、と掴まれた右腕を振る。
 だがラビは離すとユウ逃げるでしょ、と笑い顔。
「コムイはホントすごいさ〜。オレたちは破壊するしか脳がないけど、コムイは壊れたものを直す力がある。ユウはコムイのコトものすごい信頼してるさ…」
「妙なこと言うな、曲がりなりにも上司だろ。信頼しなきゃいけない立場じゃないか」
 嫉妬、と取れる感情を、彼はどこまで気づいているだろうか? ラビは苦笑する。
 その顔があまりにも大人びていて、自分ひとり置いて行かれたような気分になった。
「なに笑ってんだ」
「ユウ、オレさ。もっともっと修行して、もっとちゃんと強くなるんさ。ユウは弱いヤツ、嫌いさ?」
「……ああ、大嫌いだ」
 質問に答えてないと舌を打ちながらも、知り尽くされた好き嫌い。いや、嫌い、嫌い?


 弱いものは嫌いだった。それは、自分も含めて。
 強くなりたいと思った。強くなりたいとずっと思ってた。それを考えると黒の教団は自分にとって都合のいい場所だったかもしれない。食べるものには困らないし眠る場所を探すこともない。周り中【強い】大人たちばかりで、悔しさは意欲へと移り変わる。


「だからオレ、強く、なるさ」
 そして何よりも、自分と同じ年に生まれた異国人はその意欲を倍増させる。
 言い換えてしまえば最高のライバルだった。
「だからユウ…嫌いにならないで」
 珍しく寄せられる眉を、嘘みたいに眺めた。
 珍しく惚けたような目を、嘘みたいに眺めた。
 気づいていないんだ、と。
「オレ、頑張るさ。強くなって強くなって、ちゃんとユウの隣りで笑って生きてけるように!」
 おかしくなる。
 いちばん傍にいたようで、実はいちばん遠く。いちばん理解しているようで、お互いいちばん理解しがたい。
「周りの大人にだって絶対負けたりしないさ! ユウが頼るヤツ、オレだけにしてみせる。だから、ユウ」
 おかしくなる。
 親友だと、戦友だと嘯く裏で、水のように滴る想い。
 気づかれてはいけないと思っていた。
「オトシマエ、つけて」


「……落とし前ぇ?」


 にっこりとと笑ったラビに、あからさまに不審げな声を上げる神田。
 セリフと表情が、愉快なほどにミスマッチ。
「そう、オトシマエ。なんでもいいさ」
 呆気に取られた。
 謝られる理由は少しもなかったし、ラビを庇ったという自覚なんかまるでなかったというのに。
 ただ倒すべき敵を倒しに向かったはずで。
 そしてその攻撃を受け止め切れなかった自分の不甲斐なさに目がくらんだり。強く強く六幻を握り締めてもその事実は変わらなくて、あの時噛み締めた唇は血の味がした。
「何発だって殴ってくれていいし、えーと蹴り飛ばしてくれたっていいさ〜」
 自分のミスだ、と認めきれる人間は少ないと心から思う。
 それをこの男はすんなりやってのけていた。
 良く言えば律儀に。悪く言えば馬鹿正直に。
「む、六幻で斬られんのはちょっと痛いかなー。あ、発動させんのちょっと勘弁して。反撃しちゃうさ〜。ジョウケンハンシャ?」
 やっと神田の腕を離し、ラビは顎に手をあて上向く。できる限りの【オトシマエ】方法を浮かべているようだった。
「あ、三日間くらいメシ抜きとか? ん〜一週間オヤツ抜きとか…あー結構ツラそう。ジェリーの作るメシも菓子も、ちょー美味いからな〜」
 軽い口調の割りに、案外必死。
「でも、何でもいい。ユウのしたいようにして。オレにできること、きっといっぱいあるさ?」
「……馬鹿かよ、てめぇ」
 プライドとか、ないのか。
 そう訊ねた神田に、ラビはそれでも、あるよと答える。
「プライドとか意地とか捨てでも、欲しいもんが世の中にはあんのさ」
 馬鹿みたいでも情けなくても、欲しいもんはあるんさ、とまた、大人びた笑い顔。
 置いていかれそうだ、と少し目を細めたら。
「だから、だからさ。ユウの隣りにいる権利、オレにちょーだい」
 呼吸が一瞬、止まったのが分かった。
 隣り、という意味がどういうものであるのか、分からない。
 そうしたつもりだった。そう接してきた。気づかせてはいけないと思っていた。自分にも、相手にも。
 神田が口許を押さえて顔を逸らす。





 ────やべェ





 気づいた。気づかせた。コレ。
 しまったと思う。
 押し留めてきた、想い。
 気づいてはいけないと、気づかせてはいけないと思ってきた。
 ずっと、ずっと。
「………んでもいいのかよ」
 押し殺したような神田の声が耳に届く。
 イラついてる、とすぐに分かるような音だった。
「…うん。オトコに二言はないさ」
 綺麗な眉が寄せられていくのが見て取れた。
 逸らしていた顔を、神田はゆっくりと正面に戻す。
「……目ぇ瞑って歯ァ食いしばれ」
 ぎゅ、と胸の辺りで拳を握りこむ、神田。
 どんだけすごい拳がくるんだろう、とラビは強く目を閉じた。
 ふたりが息を止める音と、拳が風を切る音が、赤い空に吸い込まれた。





 ガッと鈍い、音。
 自分の意志でなく加えられた強い力に、身体を支えきれずラビは腰を地に付ける。さすがに手加減してくれなかったらしく、いやこの場合、手加減をされては落とし前の意味がない。切れた口内に血の味が広がった。
「って…」
 遠慮なしに殴られた左頬をさすりながら顔を上げると、怒りを露にした神田の顔。
 いやコレは。怒りというよりは。
「フザケんな馬鹿ウサギ!」
 顔が、赤いのです。焼けたような空のせいじゃなく。
「言えよ、そういうことは、早く!!」
 もともと白い肌が、染まるとそれはそれは美しく、情熱的に。
「え? え、……────え?」
 そういうことってなんだ、なんで怒られているんだろう、と、にへらりと口の端を上げて。痛んだ口内に、そういえば切れてたんだっけ、と認識し直す。
「……」


 ふわり、とかぶさってくる口唇。
 押し付けるだけの、震えた口唇。
 目を瞠らずには、いられなかった。


「さんざん……悩ませやがって…」
 近づいたふたりの顔が離れる。目蓋を上げた神田の瞳にオレンジの髪が揺らいだ。
 そして、また。
 座り込んだふたりの口唇が、近づいて、近づいて、近づいて、触れて、離れる。
「…ねぇユウ」
「なんだよ」
「キスの意味、知ってる?」
 未だに惚けたような顔をしたラビに、神田は笑った。
「てめェよりは、多分な」
「オレだって、キスの意味は知ってるさ…?」
不意に手を取られ、神田はピクリと肩を震わせる。
「オレ、ユウのこと尊敬してるンさ?」
ちゅ、と手の甲で音を立てて離れる口唇。
「誰の、言葉だったっけ」
 額の上で、踊りながら歌う口唇。
 目蓋でさえずる温かな口唇。
ふわり、と頬を滑る口唇。
「忘れてんのかよ……ブックマンJrも大したことねーな」
 くくく、と喉を鳴らし、立ち上がりラビを通り過ぎる。手を貸さない神田に、相変わらずだとラビも笑いながら立ち上がり、背を向けたまま問いかけた。
「なぁユウ。オレ期待しててもいいんよな?」
 通り過ぎた神田がぴたりと立ち止まる。そしてコチラも、振り向かないままで答えた。
「────好きにしろ」
 再び歩き出す神田と立ち止まったままのラビ。必然的に、ふたりの距離が、どんどん離れてく。
 赤い赤い空が、綺麗だと思いながらも俯いて、お互い小さく小さく呟いた。



「────やべェ」
 もう、止まらないと。


 フランツ・グリルパルツァー=オーストリアの劇作家。
 その格言を、知らないわけじゃない。





 初めてのキスは、血の味がした。
 ブックマンJr.ラビ。
 神田ユウ。
 入団一年4ヶ月。
 十二歳の、晴れた5月────