ライフ

2006/03/23



 また神田が大怪我をした。
 その知らせを聞いて本部に戻ったときは、彼が怪我をした日から数日経ってしまっていたけれど。任務の報告もせずに、ジュニアは階段を駆け上がる。
 向かう先は、言わずもがな神田の部屋だ。
「ユウ!!」
 もしかしたら臥せっているかもしれない、静かに開けようという思考は吹き飛んでいた。命に別状はない、と無線で教えられたけれど、それだって数日前だ。悪くして、ベッドから起き上がれない状態かも知れない。
「なんだ、うるせーな」
 真っ先に目を向けたベッドに、神田はいなかった。
 反対側に位置した窓際、いつもの姿で佇む彼を見つけて、腹の底から息を吐いた。
「ユウ、起きて平気なんか?」
 下ろした髪が揺れて、ジュニアを振り返る。ため息は、聞こえるように吐いてやった。
「怪我をしてから五日も経ってる。普通に治るだろ、こんなもん。大した怪我じゃなかった」
 うそつき、と眉を寄せて扉を閉める。そんなになんでもないような怪我の度合いだったら、リナリーがわざわざ自分に連絡をよこすはずがないのに。
「傷、塞がった?」
 神田の傍まで歩み寄ると、彼も眉を寄せて顔を逸らした。逸らす理由は、後ろめたさの他にない。
「見せて」
「馬鹿を言うな」
 そう跳ねつける神田を無視して、ジュニアは神田のシャツのボタンに手をかける。
「おい、ジュニア」
「治ったんでしょ?」
 止めてはみるものの、こんな静かな声をしている時のジュニアには、何を言っても無駄だということくらい、身をもって知っている。神田は小さく息を吐き、シャツのボタンを外していく彼の手をじっと眺めていた。
「……包帯、取ってもいい?」
「駄目だと言ったらその手は止まるのか」
 胸から腹に巻かれた白いそれを前に、ジュニアは苦笑い。確かに血の匂いはしなかった。血の痕跡も見られなかった。
 大怪我、と報告されるくらいの傷を負って、まだ五日目だというのに、だ。
「……」
 ゆっくりとその包帯を取り払って、ジュニアは目を細める。
 そこに映ったのは小さな切り傷。
 小さなとは言っても、充分怪我といえる大きさだったし、鋭いものだった。
「満足か? この程度じゃ死なねぇよ」
 任務放って来たんじゃねぇだろうなと目を伏せて視線を断ち切る神田を、堪えきれずに抱き寄せた。
「……なんだ」
 ある程度の予想を裏切らずに行われた一方的な抱擁に、神田が静かに返す。
「ユウ、もう任務行くのやめねぇ?」
 耳元に掠れた声。頭の中で反芻して、何を言っているんだと呟いた。
 自分はエクソシストだし、それを全うするほかに、ここで生きる術はない。
「ねぇユウ、オマエまたどんだけ命削ったんさ……?」
 ぎゅうと強く強く抱きしめる。指に絡む黒髪が柔らかで頼りなくて、余計に不安を煽られる。
 この人は確かにここにいるのに。ここで生きて、動いているのに。
 胸の梵字は今を救い未来を蝕んでいく。
「ね、もうやめよ? コムイにはオレが言っておくし、皆だってきっとわかってくれるさ」
 この男の発言が、指令長であるコムイに影響を与えるなどとは到底思えない。ただでさえ少ないエクソシストを、【任務に行かせないでくれ】などと、聞き入れられるはずもないのだ。
 そんなこと、この男だってわかっているはずなのに。
「ユウの大事なあの人も、オレがちゃんと見つけ出すからさ。な? もう、やめよ……?」
 泣きそうな声だと思った。
 聴いたことのない声だと思った。
「ユウが任務出てく度、引き止めたくてしょうがないんさ! ちっちぇえ怪我でも、心臓潰れそうになるんさ!」
 もうこんなのはイヤだと呟く。
 大切な人を探すために、【今】できる精一杯で生きて、命を削っている神田を、どうにかして止めたいと思った。
 この腕でせき止めたいと思う命が、砂時計のように指の隙間からさらさらと、さらさらと流れ落ちていく。一粒も掬うことさえできずに、流れていく命の砂を、外からじっと眺めているだけで。
「本当なら、ユウのこと縛り付けて、閉じ込めてでもここに繋ぎ止めたいのに……っ!」
「ジュニア」
 苦しい、と口に出してしまおうか、どうしようか。
 繋ぎとめられないことが苦しい。
 抱いてくる、腕の強さが苦しい。
「ユウ……ねぇ」
 縋るような首筋の吐息に、神田はこくりと唾を呑んで、息を止めて、そして吐いた。
「見くびられたものだな、オレも」
 神田の静かな声に、思わず顔を上げる。責めているのだと解かる声音が、ジュニアの眉を寄せさせた。


「てめェはそんな男にホレてんのかよ」


 まっすぐ射抜いてくる蒼い視線に、息が止まった。
 最初に好きになったのは、その瞳。
「ここで、てめェに守られてぬくぬく笑って生きるような、そんな男にホレてんのか」
「ユ、ユウ」
 眉を寄せて、緩くなった巻きつく腕を外させる。急激にジュニアの身体が冷えた。
「オマエがどれほどかオレを想ってくれているのは解かる」
 だが、と逸らされる顔を、必死で追った。
「オレを侮辱するな」
 唐突に気づかされる。
 彼を愛したのは、この世界で。戦っている彼を見て。命までをも賭して、大切なものを探し続ける彼を感じて。
 大人しくこの腕の中に納まっているような男ではないと知っていた。そうやって生きている、彼の生き方を愛していた。
「…………ごめんさ……考えなしだった」
「ジュニア」
 俯いて紙をぐしゃりとかき混ぜる。自分ではこの人に影響なんて与えられない。そんなこと、随分前から知っていた。
「ジュニア、オレに触れろ」
「……────え?」
 聞こえた声に、思わず顔を上げた。神田の言葉とはとても思えなくて、でもそれを発したのは間違いなく目の前の人であるのだ。
「生きてることを確かめろ」
 それでも動けないでいる、ジュニアの右腕を取る。
 そうして自分の左胸の上に当てた。
「……ユウ」
「動いてんだろ、ちゃんと」
 普通の人間と何ら変わらない、と続ける。
 手のひらからは規則的な心音が伝わり、自分のそれと重なる。
「ちゃんと、生きてんだろ」
 静かな、それでも強い意志を持った声だと、ジュニアは笑った。
 触れた胸は温かい。自分のものと同じで、ここに生きていることを教えてくれる。
「温かいさ」
 空いた片腕で抱き寄せて、踊る髪を楽しんだ。
 肩に額を預けてくれる神田を強く強く抱きしめて、心音を愛した。
「温かいさ、ユウ……」
 頬を摺り寄せて、髪の奥に隠れる体温を。
 目蓋に口づけて、口唇から体温を。
「言っておく……オマエを愛していないわけじゃない」
 それでも今以外の生き方は選べない、と呟く神田を、笑って見下ろした。
「無茶なことすんなって言っても、オマエは聴かねェしなぁ」
 だけど自分はそんなユウも愛してるんさ、と確かめるように言った。
 そうだ。彼らしくない彼など見たくはない。
「そのまま生きて。悪いなんて思わないで。愛してるんさ」
 そう言って笑い、指に絡む髪に口づける。
「ユウの全部愛してるさ。生き方も、体温も、声も、この柔らかい髪も」
 頬を包み、手のひらで体温を確かめる。
「目も。おでこも。…ほっぺたも、気持ちよくて好き……」
 そうやってひとつひとつに口づけを贈る。
 通らないところなどないように、どこも、かしこも。
「この鼻の筋も、綺麗。……全部好き」
 吐く息すべてが、伝える愛になって届けばいいと思った。
「手のひらも、指も。……口唇も……」
 軌道を知って神田が目蓋を落とす。
 混ざり合う吐息は温かくて、生きているんだと実感する。
 抱きしめて、口唇で生を味わう。
 帰りを大人しく待つ人間には、お互いなれやしない。この世界戦争が生きてる内に終わったとしても、きっとそれは変わらないんだろう。
「……ふ…」
 力なく項垂れる神田の額を肩で支え、強く強く抱きしめた。
「ユウ、これからも……ちゃんと闘っていこうな」
「フン、当然だ」
 ふたりで、一緒に。
 愛していると囁く声が、口唇に吸い込まれていった────。