白のアジュガ

2006/08/12



 最悪。マジ最低。ほんと、オレ。
「あーあ……」
 なんで我慢できんかったかな。あんな風にしたら、ユウが嫌がるの、目に見えてるのに。
 やだって言われちゃったしなぁ……。あんな顔させるつもりじゃなかったのにさ。
昨夜はあの顔思い出して、眠れなかった。嫌がってるユウの顔思い出して、いらんことまで想像して、余計悶々して眠れなかった。
 最低じゃん、オレ。
 あんなことした後で、ユウをネタに一人でやるなんてさ。こんなん、ユウに知られたら終わりだろ。
「ラビ、おはよう」
 後ろから声をかけられて、ハッとして振り向いた。朝っぱらから爽やかさ、リナリーは。おはようと返して、並んで食堂への道を歩く。珍しいねと首を傾げられて、何がと訊ねた。
「神田は一緒じゃないの?」
 ぎくりと身体が強張る。そうだ、リナリーにそう思わせるほどオレたちはいつも一緒にいた。逢えなかった時間の分を、必死で埋めるように。
「そんな。四六時中一緒にいるわけじゃないンだし」
 本当は四六時中でも傍にいたい。
 だけどオレの心の中は不純そのもの。心の中で、夢の中でユウを押し倒して組み敷いて、その体温ごと奪ってく。
 ユウを好きだと気づいたあの頃は、ドキドキして眠れなくて、顔を見れるだけでいいなんて思っていたのに。なんだよこれ。日に日に育つ欲望は、もう破裂寸前。
 リナリーと何気ない会話をしている今でも、頭の中はユウでいっぱいだ。幸い気づかれてはいないようだけど。ハハ、隠すのも巧くなったんかな。
「リナリー、何食べる? 持ってくから席取っといて」
「ありがとう。じゃあモーニングセットを」
「オーケイ」
 ユウと恋人同士になれてから、もう二ヶ月が経つ。ユウが好きだって言ってくれたときは、本当に嬉しくて、嬉しくてこのまま死んでもいいってくらいだった。
 当然さ、この恋が実るなんて、これっぽっちも思っていなかったんだから。友人としては認めてくれてるみたいだったし、傍にいられればいいって、本気で思ってたんだ。
 だけど数年ぶりに逢ったことで気持ちを自覚したユウが、オレの告白とキスを、受け入れてくれた。
 ああそりゃもう、幸せで仕方なかったさ。
 それでも、先を求めてしまうのは止められない。キスだけじゃ足りないって、思ってる。
「はいリナリー。今日の日替わりスープ、美味しそうさね」
「ありがと。ラビのクロワッサン、焼き立て? タイミング良かったのかしら」
 できるだけユウのことを考えないで済むように、修練したり本を読み漁ってみたりもしたけれど、そんなの無駄だった。少し時間が経てばユウの顔が浮かんでくる。抱きしめた体のラインを思い出す。服越しに伝わる体温を思い出す。口唇の感触を思い出す。
 ユウを思わないことなんて、今すぐこの世界戦争を終わらせるくらい無茶なことだった。
 ユウが好き。好きで好きで、しょうがない。
 傷つけたくない。オレの勝手な欲望で穢してしまえる人じゃないんだ。
「あ、神田」
 リナリーの声に、ハッと顔を上げる。食堂の入り口にユウの姿。団服をきっちりと着こんで、不埒なオレの欲望を拒絶している様にも見えた。
「神田ー一緒に食べよー」
 リナリーの呼んだ声にユウがこちらを振り向く。一瞬固まって、ユウはすぐに視線をそらした。カウンターで食事を受け取り、そしてそのまま、遠く離れた席に独り座ってしまう。
「あれ? こっちに気づいたはずなのに」
 不思議そうなリナリーの声。
 やべえ、オレ、やっぱり。
「ラビ、神田とケンカでもしたの?」
 避けられてる。
 ユウはこちらを見た。オレに気づいた。気づいた上で、遠くの席に腰かけた。
 リナリーとは仲悪いワケじゃないし、今まで何度も一緒に食事してきたじゃないか。それなのに。
 あれは決定打。原因はオレ。
「ん、や、ちょっと……嫌われちゃって」
「え、うそっ、あんなに仲良かったじゃない!」
 嫌われるようなことをしてしまったのはオレ。オレが悪いのは解かってるんさ。
 これは少し時間と距離を置くしかない。
「ねぇ、何があったの?」
「心配せんでもいいさリナリー。ちょっと時間置いて謝れば多分許してくれる」
 何の確証もなかったけれど、そうでも思わないと泣き出してしまいそうだ。ユウと離れたくない。オレがちゃんと我慢すればすむことなんだ。
「ホントに? ならいいんだけど。今までこんなことなかったから、ちょっとビックリしたよ」
「アハハ、ごめんごめん。心配してくれてありがと、リナリー」
 少し時間と距離を置いて、ユウにごめんていいに行こう。本当は今すぐ行きたいけど、ユウの怒りは収まってない。オレの欲望も収まってない。悪化するのは目に見えてるさ。
 仕方ないんだろうな。オレはユウを好きだって自覚してから何年も経つけど、ユウは自分の気持ち自覚してからまだ二ヶ月しか経ってない。触ってるだけで緊張するとか言ってたし、キスだってやっと最近舌を絡め返してくれるようになったんだ。今、ユウにそれ以上を求めてしまうのは、どうしたってオレの我侭さ。
 自然にそういうことできるようになるまで、オレはユウを抱けない。無理強いなんかしたくないし、第一初めてをそんなふうにできない。
 欲望よりも大事なものが、オレにはあるんだ。





 ダメだ。と、神田は少し乱れた髪をかき上げた。
 いくらやっても、六幻とのシンクロ率が上がってくれない。技を繰り出すどころか、剣気の生成すらうまく行かない。任務中じゃなくて良かった、と息を吐く。
 そうだ、これが任務中で、アクマと戦闘中だったら命取り。確実にもう、この世の住人じゃなくなっているだろう。
 鍛錬に集中できていない。
「……っくそ…」
 原因は、言わずと知れた。────ラビ、だ。
 彼との関係は終わったはずで、吹っ切ってやろうと思っていた。触れてくれなくなって、キスをしても拒まれて、まるで嫌がらせのような激しいキスをされた。
 忘れなければいけない感覚を、まだ忘れられずにいる。
 あの日から何日経ったか覚えていない。物事を覚えているのは元々苦手な方だったし、そんなことに気を回す余裕は、今の神田にはなかった。
 ラビの顔がチラつく。何をしているときにも、だ。
 朝起きたときにも、食事をしているときにも、こうして鍛錬をしているときにも、眠るときにさえ。
 まだ思い出せる口唇の感触。それだけで以前は幸せになれた。だけど今は違う。どれだけ思っても、もうラビは傍に来てくれない。
 闇雲に振り回していた剣を下ろす。いつもより重い身体が、酷く煩わしく思えた。
「ラビ……」
 風にかき消されそうな声が、神田の口から吐き出される。木々のざわめきが外の世界を遮って、この世に独りだという錯覚を起こさせた。
 彼の新しい恋は実ったのか。食堂で見かけるのは、リナリーや他の団員たちと笑うラビの姿。自分といた時には見なかった、無邪気な笑い顔。
 彼の恋は、実ったのか。
 神田は俯いて額を押さえる。ガンガンと痛む頭が、思考を邪魔した。
 恋が実っていたとして、自分には喜んでやることなどできやしない。良かったな、おめでとうなんて、死んでも言ってやれないだろう。
 まだこんなにも、……好きなのに。
 終わったことなのだと解かっていても、忘れることなどできやしない。
 自分がこんなに、何かに依存できる人間だったとは。と自嘲気味に笑い、部屋に戻ろう、と草を踏んだ。





「ラビ、また目が赤いよ。寝てないの?」
 資料室への道程、隣を歩くリナリーが、目ざとくそう指摘する。まいったな、とラビは笑って誤魔化した。
 リナリーはそれにため息をついて、
「神田とケンカした日からね。眠れなくなるほど悩んでるなら、さっさと仲直りすればいいのに」
「あーうん、そうなんだけどさ……」
 こればかりは、とラビは心で続ける。
 時間を置かなければならないのだ。自分の中の欲望を殺すためにも。
 まだ自分の中の不埒な感情は消えていない。それどころか、日に日に増すばかりだ。あの人を力の限り抱きしめて、口づけて、押し倒して組み敷いて、その中に入り込む。
 幸福で、純粋で、赦しがたい。
 自分と神田の想いの在り方は、まるで違う。傍にいられればいいなんてそんな純粋だけでは、もう想っていられなかった。
「ちょっと、距離が必要なん……」
 顔を上げてハッとした。廊下の向こう側、こちらに歩いてくる人物に。
 向こうも、顔を上げて気づく。
 息を止めたラビと、眉を寄せて視線を逸らした神田ユウ。
 少しずつ距離が狭まってくる。幸か不幸か、この廊下はあまり広くない。もしかしたらすれ違うとき、触れてしまうかも知れない。
 今、触れてしまったら────どうなるか解からない。
 息苦しくて汗が伝う。
 彼はまだ怒っているんだろうか。視線さえも合わせてくれない。
 あとどれだけ時間と距離を置けば、以前のように接することができるのか。このふしだらな感情に彼を巻き込みたくはないと思う一方で、共に堕ちてしまいたいと願う自分がいる。
 いっそ気づかなければ良かったと。
「ユウ」
 小さく、名を呼ぶ。
 聞こえているはずだった。それでも彼は顔を背け、歩みを進める。ラビは、諦めて俯いた。
 だが。
 すれ違う瞬間、トンと肩が触れる。僅かに、腕が触れる。
 それに耐え切れなかったのか、神田は走り出してしまった。勢いよく振り向いて、ユウと叫ぶ。止まってくれることはないと解かっていても、思わず口を出てしまったのだ。
「あ…いつ……ッ」
 慌しい足音は、どこか鈍い。
「ラビ!?」
「ごめんリナリー、資料探し後で手伝うさ!」
 神田を追って走るラビを、無駄と知りつつ呼んだ。返ってきた言葉は、想像できたものだったけれど。
 バタバタと響く、二つの足音。
「ユウ!」
 追ったラビは、やはりおかしいと感じてしまう。神田の走る速度が、いつもより遅いのだ。
「ユウちょっと止まって!!」
 声に振り返ってくれることも、立ち止まってくれることもないけれど、叫ばずにはおられない。
 縮まった距離は、あと少しだけ手を伸ばして埋める。神田の手首を掴み、一気に引き寄せた。肩を掴んで振り向かせてみるが、それでも無理やりに顔を背ける神田の、長い黒髪がラビの頬に当たる。
「ユウ」
「離せ」
「ごめんユウ、ユウが怒ってんの解かってるけど、一個言わせてよ。なんでお前はそう、無茶なことするんさ」
 顔も見たくないほど嫌われてしまったのか、と泣きそうになって踏みとどまる。
 それでも想う心は変わらないんだ、と心で苦笑した。
「こんな、熱出てんのに」
「……────え?」
 頑なだった神田の力がふっと緩む。僅かに揺れた前髪の間から、見え隠れする瞳と出逢う。戸惑ったような視線をそのまま受け止めて、振り向いた神田の、額に張り付いた前髪を払った。
「自覚なかったんさ? ちょっと触れただけでもわかるくらい、熱いのに、ユウ」
 そういえば身体が重い、とは感じていた。やけに足元が不安定だ、とも思っていた。まさか熱が出ているなんて、思ってなかった。
「風邪かな? ちゃんと睡眠取ってるさ?」
 ラビの指が、額を滑る。
 もう求めてはいけないはずの指だった。
「とにかく今は、休んだ方が」
「てめェには関係ねぇだろ、触んなよ!!」
 重い腕を上げ、振り払う。パシリと払った音が、やけに大きく響いた。
 一瞬目を瞠ったラビだが、納得がいかず再度腕を伸ばす。
「関係ねぇわけあるか! わけわかんねぇさ!」
「ふざけんなよ、終わらせたのはお前の方だろうが! いつまでも俺に構ってんじゃねぇ!」
 触りたいのに触れない。触りたいのに拒まれる。
 泣き出したいのを必死に堪えた。神田も、ラビも、お互いが。
「終わ……何言ってるんさ!? いつオレが」
「いいからもう離せ!!」
「ユウ!」
「……っ」
 ラビの腕を振り払って踵を返した神田が、勢いのせいか熱のせいか、ガクリと膝を折った。とっさに抱き止めたのはラビの腕。
「ユウッ、ちょ、大丈……」
「い、……いからっ、触……な…!」
「いいわけないさ! 部屋まで歩ける? ユウ」
 抱き止めたラビの腕の中で、徐々に力を奪われる。それは熱に体力を奪われたせいなのか、ラビの体温に安堵してしまったからなのか。
「ユウ!」
 ぐるぐると回る視界に耐え切れず、目を閉じたことが引き金となって、神田の意識がそこで途絶えた。いつもより体温の高い神田の身体を抱きかかえて、彼の部屋へ運ぼうと足を進める。
 終わらせたのはお前の方だ────そう叫んだ、彼の言葉が気になった。
 もしかして、酷く誤解をされているのではないだろうか。あからさまに避けている神田の行動も、誤解から来ているのだとしたら。
 意識が戻ったら、無理のない程度に少し話しをしてみよう、と汗ばんだ額に口づけた。