白のアジュガ

2006/08/12



 綺麗な髪だ、と思った。気になったのは、それが最初。あの純粋な色が脳に焼きつけられて、次の日からはもうその色を追っていた。
 ラビは小さな洗面器に水を汲み、神田の部屋へと帰途を辿る。
 倒れるまで我慢してしまうのは、彼の悪いクセだと思った。それでなくても無茶をするタイプだというのに。身体には相当負担がかかっていたはずだ。
 今は少しでも休ませないと、と、足を速めた。



 パチリ、と目を開けて。
 辺りを見回して、ハタリ、と気づく。
 目を閉じる前に見た景色とは、違っていることに。それでも見慣れたこの場所が、自分の部屋なのだと悟る。神田は思い身体を腕で押し上げて、ベッドをギシリと啼かせた。
 自分はいったいどうしたんだ、と思うより先に、ラビの姿を探してしまう。それに気づいて愕然とした。もう探しても、以前のようにすぐ傍にいるわけがないのに。
 未だにラビを探してしまう、自分の想いの大きさに、愕然とした。
「ラビ……」
 膝を立てて項垂れる。ハァ、と吐く息がいつもより熱いのは、今なら自分でも分かる。
 体調が思わしくないのは事実なんだろう。ここ最近は全然眠れていないし、食も進まない。そんな状況で、健康でいろという方が無茶だ。
 部屋の外で聞こえる足音に気づく。それは明らかにこちらに近づいてくるもので、そして聞き覚えのあるもの。
 一瞬固まって、息を止めた。
 この足音は、ラビのものだ。
 まさかと思ったそれと同時に、カチャリとドアが開けられる。
「あ、ユウ気がついた? ダメさまだ寝てなきゃ」
 ラビ、と呼びたかった舌先が凍りつく。もう、求めるために呼んではいけない名。
「近寄んな」
 声を絞り出して、出てきた言葉は拒絶してやれる、精一杯のもの。
「ユウ、ね、ちょっと聞いて」
「近寄んなっつってんだろ! さっきも言った! いつまでも俺に構ってんじゃねぇ!」
 ラビが、自分をここに運んでくれたのだろうと解かっても、そんな中途半端な優しさは欲しくない、と思って彼を睨みつける。新しい恋をしたのなら、その相手の所にいけばいい、と。
「もう……終わったんだからっ……構うな……!!」
 せめて泣き出してしまう前に。
「ユウ、それって、オレと別れたいってこと?」
 神田とは対照的な、ラビの静かな声が耳に届く。その言葉を反芻して、何を言っているんだと眉を寄せた。
「別れたがったのはてめェの方だろうが!」
「────あ。やっぱり」
 ほう、と大仰に息を吐き出し、ラビはそこにしゃがみこむ。手にした洗面器の水が、チャプリと揺れた。
「良かった、ほんと、マジで」
 別れたいって言われたらどうしようかと思った、とラビは心の底から安堵する。一方ワケの解からないままの神田は、ラビの言葉の意味を探り出そうとして眉を寄せたけれども。
「何さっきから、ワケのわからねぇことを」
「あのね、ユウ。すげぇ誤解してるさ」
 しゃがみこんだままのラビと、視線が重なる。
 こんな風に瞳を見合わせるのは、どれくらいぶりだろうか。
「誤解?」
「オレ、ユウと別れたいなんて思ってないよ」
「……え?」
 目を瞠る。何がどうなっているんだ、と、瞬きさえ忘れた。
「オレは今でも、いつでもユウが好き。大好きなんさ。別れるなんて絶対イヤ」
「だ、だけど、え、何、なんで」
 ますます混乱してくる。ラビはまだ好きだと言ってくれた。だとしたら、あの拒絶はなんなのだろうかと。好きだと言ってくれるなら、どうして拒絶する必要があったのかと。
「ユウ。オレらお互い、色々誤解があるみたいさ。ユウの熱下がったら、ちゃんと話したい」
 今は体調を元に戻すことを優先しなければ、とラビは立ち上がり、ベッドサイドまで歩む。サイドテーブルに置いた洗面器の中でタオルを水に浸し、神田の熱を冷まそうとした。
「ラビ、今……」
 体温を診ようと伸ばされた手を、額に触れる直前に絡め取る。
「今、話せ」
 半ば縋るように、神田は声を絞り出した。その話しの内容が、自分たちにとっていい方向に向かう可能性が、少しでもあるならば。
「でも、ユウ」
「平気だから、話せ」
「……わかったさ」
 情けなくてもみっともなくても、今はそれに縋りたい。
 身体が辛くなったら言って、とラビは傍の椅子に腰掛ける。二人の目線が、同じになった。
「まずコレだけは言っておくさ。オレはユウが好き。今も、昔も、ずっとユウだけ好きだったんさ」
「……俺を嫌いになったんじゃ、ないのか?」
 ふるふると、ラビの首が横に振られる。むしろどうしてそんな風に誤解されたのか、こちらの方こそ知りたいと言うように。
「だって、……だってお前、触れてこなくなったじゃないか。いつからだったか忘れたけど、結構前からだぞ」
 恐々口に出す神田は、ラビの言葉をまだ信じ切っていないようだ。
 触れてこなくなって肩さえも抱いてくれずに、キスもしてくれなかった。
「あぁ……それで誤解しちゃったんか…」
「そ、それに俺がキスしても、拒んだじゃねーか! なんで、何がどうなって」
 それを思い出したのか、神田の言葉が詰まり出す。ラビは、どう説明したらいいだろうかと考えて、頭をかいた。
「ごめん。ユウごめん。そんな風に思わせてたなんて、気がつかなかったんさ。ユウはてっきり、オレが考えてることに気づいて、怒ってるんだと思ってたから……」
 だから、少し時間と距離が必要だと思っていた。自分が落ち着くためにも、神田が落ち着くためにも。
 まさかそれが悪い方へ動いているとは思わなかったのだ。
「お前の、考えてる、こと?」
「あんなキスしちゃったし、気づいてるかと思ったんだけどな」
 あんなキス、と言われて神田は口唇を押さえた。激しくて、息ができなかったあの口づけのことだろうか、と考えて頬を赤らめる。そして、罪悪感に駆られた。
 あの時、ラビを怖いと思ってしまったなんて。
 いや、ラビを、というよりはあの行為を、だろうか。それまでされたことのない口づけに戸惑って、迫り来る感覚に怯えてしまったのだ。


「ユウ、あのね、オレ。…………ユウを抱きたい」


 目いっぱい躊躇って、戸惑って、それでも口にするラビの視線は、まっすぐに神田へと向かってくる。とても真剣な想いなのだと、痛いほどによく解かる。


「……え?」
「解かる? セックス。したいんさ」


 言葉の意味を把握するまでに、数瞬かかる。唐突に気づいて、カアッと頬を上気させた。色恋に疎い神田でも、さすがにその言葉の意味するところは知っている。でも、それを、まさか。
「俺、と、か?」
 あまりにも突然の展開に、身を引いてしまう。
「うん、そう」
 そんなことは、これまで考えなかった。だいたい、気持ちを自覚してから二ヶ月なのだ。この期間を【まだ】と言うべきなのか【もう】と言うべきなのかは解からないが、ようやく自分からもキスができるようになったばかりだというのに。
「でもユウはまだそこまで思ってないだろうし、我慢しようと思ってたんさ。だけど、ユウの傍にいるとどうしてもそういうことしたくなっちゃって」
 だから距離を置いていたんだ、と苦笑するラビの声も、耳に届いているか、どうか。
「無理やりとか、そういうのしたくないし、ユウがちゃんと、いいって思ってくれるまで待とうって思ってたんだけど」
 どうしても我慢が利かなくて、あんなキスをしてしまった。そうしててっきり神田に嫌われてしまったのだと思い込んだ。お互いの誤解が、無駄な距離を生んでしまったのだ。
「ユウ、ごめんさ」
「……じゃあ、俺」
 逃さないようにと、神田はラビのシャツを掴む。まっすぐ視線を返されて、お互い身体が固まった。少しの沈黙が、流れる。この沈黙を早く終わらせたいような、まだもう少し楽しんでいたいよう、な。
「俺、まだお前に好きだって言っていいのか……?」
 ぎゅ、とシャツを掴む手に力がこもる。
 ずっと気になっていたんだ。ラビを想う事が、彼への負担になりはしないだろうかと。別れた相手に想われても、気が重いだけではないだろうかと。だけどラビは、別れたつもりはないと言った。
 だったら。
「言ってよ。ユウ、言って。オレのこと、好きだって」
 ラビが、微笑む。以前と変わらない、優しさだった。
 泣きそうになる。見られたくなくて、トン、とラビの胸に額を預けた。
「────好きだ、ラビ」
 口にしたのは何度目だろう、と神田は思う。考えてみれば、恋人同志になってからというもの、あまりにも速く時間が流れてしまって、恋を語り合ったことなど、果たしてあっただろうか。
「ユウ、好きさ。大好き」
 お互いの背に腕を回し、ぎゅうと抱きしめあう。いつもより高い体温を自覚してももう、身体を休めるよりはこの体温を確かめることの方が大切だった。
 触れたところから、相手の鼓動が伝わってくる。その音を、今自分だけが聞いている。独り占めしている。
 そうか、これが。
 愛しいと思う気持ちなのか。
「あ、あの、さ、ユウ?」
「え?」
「も、ダイジョブ? オレちょっと色んな意味でヤバイんだけど」
 見上げても、視線をわざと逸らしているラビが見える。気がついて、神田はバッと身体を離した。
「あ、あの、悪い、俺っ、その、まだ」
 そんなことまで考えていなかったから、と顔を真っ赤にして俯く。ラビはそれを見て、構わないさと苦笑した。元々、恋人同士になれたのだって奇跡みたいなものだ、この上早く身体まで繋げたいと思うのは、きっと我侭だろう。
「病人相手にどうこうするわけにもいかんし、ゆっくり休んでよ。で、元気になったら今までどおりキスとかしよ? オレ、それ以上のことをちゃんと我慢できるように頑張るからさ」
 だから頭のスミででも、考えておいてもらえたら、と言葉を続けた。そうやって自然に、身体を重ねることができれば、とても幸福であるだろう。
 ややあって、神田がコクリと頷く。目は合わせてくれないままだったけれど、今はそれで充分だ。
「じゃあユウ、ゆっくり休んで。今冷たいタオルを」
「い、いい、自分でできるから」
 これ以上傍にいられたら、恥ずかしさで死んでしまうとでも言いたげに、ラビの世話を断る。それはラビもなんとなく解かってしまったようで、素直に手を引いた。
「うん、じゃあオレ行くから。何かあったら無線で呼んで」
「あ、ああ」
 向けられた背中を横目で見送って、扉が閉ざされた途端糸が切れたようにベッドに倒れこんだ。
 一方ラビも、扉を閉めた途端、それを背にずるずると崩れていく。


「よかっ……たあぁ────……っ」


 腹の底からの息を吐き出して、ようやく緊張を解けた。
 神田はシーツを握り締め、ラビは天井を見上げ、お互いに誤解があったこと、それが解けたこと、関係がいい方向に向いたことを安堵する。
 まだ傍にいてもいいんだと。まだ終わってはいなかったのだと。
「はぁ……」
 今日は、今日こそはもしかして、幸せな気分で眠れるだろうか。
 ふたり、密やかに口の端を上げた。