言葉までの距離

2005/08/13



 もう抱かない。もう呼ばない。もうこの目に映さない。
 ごめんの三文字は、恐ろしいくらいの拒絶の言葉。
 初めて知った。行為をしなかった翌朝の方が、気怠いなんて。





 起きあがる気力さえないように思えた。最後に見たあの顔が、瞼の裏に蘇る。
 …笑ってた。
 悔しそうに、笑ってた。
 綺麗だなんて思って、思わず苦笑した。





 ふぅ、と短く息を吐いた。気怠い身体は行為のせいじゃない。
 キスだけで、最後までしなかった事は幾度もあった。だがあの時点まで行われたものが中断されたのは、これが初めてだった。
 どれだけ自分が抵抗しても、いつものように熱い身体を押しつけて、背中から奪ってくると思った。
 あやすようなキスでその予感を蹴散らしたのは、ラビの葛藤。



 眠れなかった。
 生まれて初めて、眠れなかった。
 心臓が痛くて、喉が焼けそうで、風の音さえ頭に響いて。
 眠らなければと思うほど、闇は神田に襲いかかってくる。








「……」
 何も喉を通らなかった。食べやすかったはずの麺類さえ、嘔吐を誘う。
 こんなことは一度もなかった。不覚にも大ケガをした時だって、風邪を引いた時だって、食物の摂取はしていたはずだ。それが、今は。
 今は、何も。
「神田、ハイ」
 ふわり。
 香水だろうか、入浴剤だろうか、女の甘い匂いがする。
 ついていた頬杖から顔を上げると、リナリーの柔らかな黒髪が目に入った。余程丹念に手入れしているのか、その黒髪は目を瞠るほど美しい。誰もが憧れるところだろう。
「…なんだ?」
「風邪薬」
 目の前に差し出される、白い小さな包み紙。あまり見慣れない包み方でも、それが処方された妙薬だということは分かる。
 ことに教団は、エクソシストの体調管理に口うるさいのだ。医療班にはエクソシストを最優先にさせ、エクソシストの【確保】を図る。
 それは仕方のないことだと思えばいい。それが【黒の教団】に許された存在意義であり、義務でもあったのだから。
「大丈夫? すごくツラそうだけど」
 女性というのはよくこうも他人を見ていられるものだと神田は思った。自分のことで精一杯な自分とは段違いだ。
「医療班にはちゃんと行った? 行っても神田のコトだから、薬は処方してもらってないんでしょ。軽い風邪だからって、油断したら危ないわよ」
 まるで母親のようなあやし方に、珍しく口の端を上げる。
「…風邪じゃ、ねぇよ」
 神田のそれは、リナリーに珍しいものを見たと思わせる。
 彼は普段から笑うことがない。いや、あっても、見下したような冷たい笑い方だ。



 ────なんで、こんな諦めたような笑い方するのよ



 彼らしくないと、リナリーは心の中でひとりごちる。
「ねえ…何か、あった?」
 しばらくの沈黙。騒がしいはずのこの時間帯、食堂は確かに混んでいて、雑音も多かったはずなのに、リナリーにも神田にも、周りのノイズなんか耳に入ってこなかった。
 持ってきた食事が冷めかける。だけどそんなことは気にしていられなかった。
「…リナリー…」
 珍しく彼が口に出そうとしている。一言一句、聞き逃してなるものかと、それでも平静さを装い、なあにと答えた。
「モヤシと、つきあってんだよな」
 思ってもみないことだった。彼の口からこんな俗っぽい言葉が出てくるなんて。もとより、他人の色恋になんて、興味があるタイプではないだろうに。
「…うん、つきあってるよ?」
「よく…コムイが許してるな」
 血を見そうだ、と神田は苦笑する。
「兄さんも大事よ。たったひとりの人だもの。でも違うのよ、兄さんを想うのとは、全然ね」
 穏やかな顔だった。彼女に恋愛感情を持っていない自分さえもが見惚れてしまいそうな、そんな。
「でも、ねえ。そんな事聞きたかったわけじゃないでしょう?」
 今更ながら後悔をする。ことに恋する女はカンがいい。
「いや…別に、何もねえし」
「…カーンーダ、ここまで私を心配させといて、言わないつもり?」
 にこりと笑う彼女のそれは、とてつもなく凶悪だ。きっとあの白髪の少年は、否応なしに尻に敷かれるのだろうと神田はほんの少し哀れんでみる。
 神田は、少し息を吐いた。訊きたいこと、というのは確かにあったのだ。
 だがこんなことを聴く自分を、彼女はどう思うだろう?
「ヤツと、その…肉体的な関係はあるのか…?」
 躊躇いがちに発せられた言葉に一拍置いて、リナリーがボッと顔を赤らめた。
「…っししし、信じられない、女の子にそんなこと訊くかしら、普通?」
「言えと言ったのはオマエの方だろう」
 頭がくらくらした。デリカシーなど欠片もない男だと思ってはいたが、まさかここまで。
 だがその表情を見る限りでは、別にからかっているわけではないようだ。興味が本意でも、どうやらないらしい。
「……うん、あるわよ、一応ね」
 また理由もなくそんなことを訊く男ではない。自分を、少なくとも頼ってくれているのだろうとリナリーは短い息を吐いて呟いた。
「…そうか…」
 意外、というわけではなかった。好き合っているのならそうやって惹かれ合うのは当然だし、身体の繋がりがあってもおかしくない。
「モヤシのことが……好きなんだろ…?」
「うん、好きよ」
 きっぱりと、何の迷いもなく言い切れる彼女が、どれだけか妬ましい。
 だけどやっぱり、相当好きあっているんだろうと、彼女の声音から知れる。
 自分たちだけがおかしいんだ。
 向かい合う心より先に、身体を繋げた。
「欲しいと……思うのか? その…オマエの方からでも」
 浅ましい自分だけがおかしいんだ。
 どうしようもなく悔しくなって、組んだ両手に俯いた額を預ける。
「それって、私がアレンくんとの夜の時間を欲しいと思うかどうかって事?」
 俯いたまま動かない神田を、リナリーは静かに見つめた。
 エクソシスト・神田ユウ。漆黒に輝く黒髪は、とてもエキゾチックで、嫉妬さえしてしまう。
 彼を欲しがっている人は少なくないだろう。もっとも、そのほとんどが上辺の美貌に騙されて。だけど他人を受け入れないその性質のせいか、征服欲をかき立てられる心は分からなくもない。欲しいと、告げられたのだろうか。
 それとも、彼が誰かを欲しがっているのだろうかと。
「…アレンくんには言わないでね、恥ずかしいもの」
 神田は顔を上げる。その言葉から察するに、神田の思っていた答えとは、どうやら違うらしい。
「思うよ。欲しいって。もっとずっと抱きしめててほしいって」
 女の子にだって、そういう気持ちはあるもの、とリナリーは恥ずかしそうに微笑んだが。
「……っ」
 それが逆に神田を追いつめた。
 そうだ、男と、女なら、それも自然かも知れない。
 ────では、自分は?
 リナリーとは違う、歴とした男だ。
 …後悔は、した。
 興味と性欲で、身体を開いてしまったことを。
「……っ神田…? ねぇ? もしかしてあなた…」
「……」
 こんな時女は本気で厄介だ。カンが鋭いだけに、些細なことですぐ気づく。
「ね、ねえこんなところじゃ滅多な話しできないわ、部屋、行こう?」
 がたりと席を立つリナリー。すっかり冷めてしまった食事のプレートを持ち、神田のものは、食べやすく消化の良いものに変えてもらう。
「いい、もう」
 神田が自分の提案を撥ねることは幾分予想ができた。
「ダメ。女の子にあんなことまで言わせておいて、逃げるなんて許さないわよ?」
「おい、リナリー」
「早く」
 片手で引かれる腕も、食事のプレートを持ったままでは振りほどきにくい。
「…リナリー…」
 神田は思う。彼女はこの不浄を拭い去ってくれるだろうか。
 欲しがる、浅ましいこの身体を。
 リナリーの後をつき歩く神田の姿など、珍しい意外の何ものでもない。食堂をざわめきが包み、幾個もの視線が注がれる。まるで見世物のようだと、神田はその日何回目かの苦笑を漏らした。






「あ…おはようございますリナリー」
 部屋に向かう途中だ。白髪の少年と出逢う。
「おはよう、アレンくん」
 まずいものに出くわしたな、と神田は視線を逸らす。
「神田、どうかしたんですか」
 咎められているようで、顔を向けられない。アレンに咎められるようなことなど、実際ありはしないのに。
 それを察したのかリナリーは、
「ごめん、アレンくん」
 アレンに心配されるような間柄ではない。
「リナリー?」
「神田と話しがあるの。しばらく、ふたりにしてくれる?」
 ごめんの三文字は、おはようの挨拶をゆっくりできないことへの。
 そんな彼女を愛しいなあと眺め、アレンは笑った。
「分かりました、今日は買い物に誘おうと思ったんですけど、お預けですね」
 また今度、と言い残してアレンはふたりとすれ違う。その背中を視線で追い、
「行ってやれよ、いいから、オレは」
「ダーメ、私がよくないのよ。気になって眠れないわ」
 呆れたような口調は、彼女にしては珍しい。神田は黙ってその後についた。



 その光景をもうひとりが、見ていたことには気づかずに。



 アレンが、視線を向けずにその人を呼んだ。
「ラービ」
 壁にもたれたまま、ラビは正面を見つめていた。
「仲いいんさ? あのふたり」
 親しい友人のいない神田にはいい傾向だ、とラビは無理に笑ってみせた。
「なにをほざいてやがるんですかねこの人は」
 疑う余地はないと知っていても、やはりアレンも面白くないらしい。
「ちゃんと捕まえておいて下さいよラビ。僕のリナリーにあんな顔させて。あんのポニーテールめ」
 口の端の笑みが消える。やっぱり好きな女の前では相当猫を被っているんだろうか。
「てゆーかなんでバレてるんさ。オレがユウを」
 …好きって。
 誰にも言ってないはずだ。嬉しがって公表するような純粋な関係ではなかったし、友人以上を気づかれないようにしてきたつもりだった。
「でも、ラビの神田に向かうベクトルは相当で解りやすいですよ」
 隠してるつもりだったんだ、とアレンの方こそ驚かされる。
「オマエでさえ、気づくのになあ」
 ぼそりと呟くラビに、ただならぬ気配を察するアレン。
「壊れちゃった…んですか?」
 ラビの気持ちは知っていた。
 ふたりは幼い頃からいつも一緒に行動してたと誰かに聞いた。
 惹かれないわけがない、と勝手に思った。
 例え錯覚だとしても。
 見ているこちらの方こそが、その強い想いに引きずられそうで、時には一緒に彼の姿を目で追った。
「壊れてないさ。元々、壊れるほどの形さえなかったんだから」
 そう言って苦笑する顔が心臓に痛くて、アレンは笑ってしまう。
「ちょ、オカシイでしょそれ。神田はラビのこと好きなんじゃないんですか!?」
 ハタから見たらまるで恋人同士なのに、と疑問を漏らす。
「まるで、…だろ? 錯覚さ、アレン。ユウからは、そんな感情もらったことない」
 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
「あのポニーテール…! どこまで鈍感っ……」
「…アレン!」
 ぐるりときびすを返したアレンの腕を掴み、ラビが引き留める。
「離して下さいよラビ! せめて…っ」
 ふ、と気づく。
 ────せめて、何を?
 何を言うつもりだろうか、自分は。
「間違えんな、アレン。ごめんを言い出したのはオレの方さ」
 あのまま行為を続けられるほど軽い想いじゃなかったし、抱き殺してしまえるほどの情熱も、自分にはなかった。
 泣きそうな彼に気づいていても、それを気遣うより、壊れそうな自分の心を守ることを、優先してしまった。
「ラビ!」
 縋り責めるような眼差しが突き刺さる。アレンの言いたいことは容易に知れる。
 だけどそんな確信のない蜃気楼に縋れるほど、もう純粋だけで彼を想っていられなかった。
「ありがとうさアレン、聞いてくれて。少しスッキリした」
 にこりと笑う顔が彼らしい。
「納得いきません」
 ぷぅと頬を膨らませ、眉を寄せる。それでもラビは笑っていた。
「まあまあ。オレ今日メシ食ったら任務だし。少し距離置いて、ちゃんと考えるさ」
 考えてもきっと答えは変わらないだろうけど、とラビは心で思う。
「ラビ」
「ダイジョブさ、アレ…」
 ふ、と。
 ラビの言葉が途切れたと思ったら、ぐらりと揺れる彼の身体。
「ラビ!?」
 とっさに腕を伸ばし、支える。暖かな体温は、きっと神田の知っているものだろうと余計なことを考えた。
「ラビっ、ちょ…、大丈夫…!」
 そんなアレンに左の手のひらを向けて見せ、大丈夫だと彼は言う。
 なにが大丈夫なものか、そんな白い顔をして。
 目元を押さえふぅと息を吐くラビに、こんなに弱いところを見せる人だっただろうかとアレンは思う。
「目、大丈夫ですか」
 あの人の前では、こんな姿も見せるのだろうか。否、彼の前でこそ、こんな姿は見せないのだろうか。
「ああ、ダイジョブ、ダイジョブ。昨夜眠れんかっただけさ〜」
 眠れない程、彼の事を考えていたのだろうかと、ちょっと考えれば引き出せる答えを導き出す。
「じゃあちょっとメシ食って、任務に行ってくるさ」
 彼はいつものように笑っていた。
 目を閉じて笑うのは、彼のクセ。その笑い顔のおかげで余計に読み取れない感情と真実は、奥底に、ひっそりと隠されて。
「そんな状態で任務こなせるんですか。僕だったらコンビ組みたくないけどなあ」
「ハハハ、キツいこと言うさアレンは〜。ダイジョブ、そんなヘマしねえよ」
 ひらりひらりと手を振って、こんなことなんでもないとラビは流す。
「でも」
 こんなことなんでもない。
 本当にそうであるなら、どうか目を開いて。
 どうか。



「アレン。言うなよ。誰にも」



 願ったのに、開いたラビの瞳は遠くを見つめてた。今いちばん近くにいるはずの自分を通り越して、遠く、遠く。
「…言いませんよ、あなたがどこでのたれ死のうが関係ないですから」
 イヤなら生きて戻れと、彼なりのエールに、ラビは笑いながら背中を向ける。
 さよならを言い出したのは自分。どうにかなりそうな感情と、どうにもならない関係を嘲笑って、忘れられない想いを、忘れるための引き金に、無理にすり替える。
 歩き出したラビの背中を、バカみたいだと思って眺めた。
「…なんで助けてって言わないんだろう…」
 あの人は。
 あの人たちは。
 もう見えなくなったラビと、自分の恋人と一緒にいるだろうその人を、アレンは深く哀れんだ。