言葉までの距離

2005/08/13



 「準備は済んでおるのか?」
 食べ終わって顔を上げると、師匠である現ブックマンの姿。
「うん、終わってるさ」
 残った、グラスの水をこくんと飲み干し、ラビは席を立った。食器を返し、荷物を確かめる。
「出るさ?」
 早い方がいい、と続けるラビに、無論じゃとブックマンは鼻を鳴らした。行くのか、とかけられる同僚の声に、
「ん、今回はちょっと長期になりそうさ」
 と笑い返す。
 長期を、望んだ、のは、自分…だ。
「そっか、頑張れよー」
「おぉ、またな〜」
 再会を軽く促し、歩き出した。
 そうしてラビとブックマンは任務へと就く。途中出逢うエクソシストや探索部隊、科学班に、手を振り挨拶しながら。



 それとほとんど、同時に。
 神田は、そんなラビと出逢う事なく入れ違う。
 きょろりと食堂を見渡しても、あの目立つオレンジが見あたらなかった。
 書庫だろうかと再び踵を返す。だがどの書庫を廻ってみても、ちらりとも影を見ない。
 こんな時痛感する。自分たちが本当に上辺だけで付き合っていたことを。
 こんな時姿を消しそうな場所も分からないで、間違えたまま身体を繋げ貪った。
 もう、終わりにしたい。
 もう、終わりにしなければいけない。
 任務に就いているとは知らないラビを、寝足らない足取りで探した。
 焦燥感だけが迫りくる。ちらつく赤毛の幻が、視界を遮る。
「…ラビ…」
 こんなに小さな声じゃ、絶対絶対届かない。
 あの三文字は、とてもとても長い距離を、ふたりの間に置いてしまった。
「…モヤシ!」
 吹き抜けたホール、階下に知った顔を見つけ、思わず呼び止めた。
 アレンはふと見上げ、すたりと降りてきた神田に、
「もう話は終わったんですか」
 にこりと笑って、猫を被ってみせた。
 アレンの問いには相変わらず答えずに、神田は訊ねた。
「オマエ、見なかったか? ラビを」
 どれだけかの予想を裏切らずに、訊かれた神田の言葉に苦笑した。
「今日は見てないですねえ、そういえば」
 神田がラビにしている仕打ちを思えば、これくらいの悪戯は許されるだろう。
「…チ、どこ行きやがったあのヤロウ」
 探し出して何を言うつもりなのだろうか。重い表情から見て、どうやら愛の告白というわけでもなさそうだ。
「任務なんじゃないですか?」
 彼はきっと、それを見越して任務に就いたのだろう。
「バカな。任務ならオレに言っ……」
 神田はハッと言葉を止めた。
 任務なら必ず自分に告げてから行くはずだ、と言いかけて、もう今までの状態とは違うことを唐突に思い出す。
 もう傍にはいられない、と言った男が、自分の行く先を告げていくはずもなかったのに。今の状況を自覚し切れていない自分に、また気づかされる。
 こんな状態に、自分たちがなるはずないと、どこかで思っていたに違いないんだ。
「……悪い、いい」
 何も知らない振りをして、アレンはケンカでもしたんですかと苦笑する。
「…関係ねぇだろ」
 踵を返しかける神田に、上から声が降ってくる。
「いたいた〜神田〜!」
 見上げると、三階ほど上にリーバー・ウェンハムの姿。無精のヒゲを生やしたままで、こちらを見下ろしてくる。数十センチにものぼる資料を手摺りに逃し、何やら白衣のポケットを手探る。神田もアレンも、不思議そうに見上げた。



「手紙預かってんだ〜、ラビから〜!」



 目を見張った。
 思わず、あ…と声が出た。
 会話する時間的余裕がなかったせいで、文字に託すしかなかったのだろう。
 安堵してしまった心を、他にどうすれば説明できたのか。
 ひゅるりと上から投げられた四つ折の紙切れをパシリと受け取り、そのままパサリと振り広げた。


「────」


「確かに渡したからな〜」
 去っていくリーバーの声も、神田にはもはや届かない。
 時間が、止まったみたいだった。
 呼吸することも、忘れた。
 その紙切れを手にしたまま動かないでいる神田を、アレンが心配し始める。
「神田…?」
 顔を上げて、ハッとした。
 きっと、見てはいけないものを見た。
 流れ落ちる────雫。
「神…田」
 ぱたり、ぽたり。
 顎のラインを綺麗に描いて、雫は床に丸いシミを作る。
 心臓が痛んだ。
 この人はこんな風に泣くんだ。
 ぽたり、ぱたり。
「神田。神田、…気づいてないんですか」
 ハ、とアレンを振り向く神田。はたり、と雫が顎から落ちた。
「僕はあなたの涙なんか、拭うつもりは有りませんからね」
 ハンカチなんか、持っていても差し出してさえやるものか。アレンはわざとらしくため息を吐いてみせた。
「なに……?」
 彼らしくない声だと思った。弱く、小さく、掠れて。
「泣いて、ますよ」
 言われ、空いた左手で顔を探る。
 するり。
 指を、ひとすじふたすじ、雫が伝った。
「あ………?」
 なんで。
 なんで。
 なんで。
「……っ」
 なんで、こんな。
 こんな涙。
 自分の涙に触れたことが、ないわけではない。行為の途中、快楽に負けて流れた涙には、幾度も幾度も触れてきた。
 それなのに、こんな。
「! 神田!!」
 神田が走り出してしまう。追いかけるつもりなど毛頭なかったが、思わず声をかけて呼び止めようとしてしまうのは、条件反射。だけどやっぱり、彼は止まらなかった。自分よりキャリアの短い、しかも年下の【気に食わない男】に涙を見られたこともそうだろうが、何より彼自身動揺しているのが、聞かない理由だろう。
 何が書いてあったのかは、見えなかった。見てはいけないと思った。
 神田の涙なんか、見たくもなかった。
「身勝手だなぁ……ボクも…」
 せめて自分の周りには、笑って生きていて欲しい。




 どこに向かって走っているのか、さっぱり分からなかった。
 今自分がどこを逃げているのか、それさえ分からなかった。
 さっき背中で聞いた叫び文句で、教団の門番をやり過ごしたのは覚えている。パシリピキリと身体を攻撃する小枝たちが、ここを薄闇の森だと悟らせる。もっとも、そんなことを思考できる余裕なんか、今の神田にはなかったけれど。
「…く…っ」
 涙なんか流すはずがない。
 涙なんか流れるはずがない。
 胃がきりきりと痛み出す。強烈な嘔吐感。視界がぐらりと揺れた。
「ぐ……っ…かはっ…!」
 神田は思わず立ち止まってしまう。傍の木に腕をつき、身体を折り曲げる。逆流してくる胃液。ぼたぼたと口の端から流れるそれを、止める術なんか知らなくて、溢れてくる嘔吐物を、ただ吐き出すしかなかった。
「げほっ……げほ…」
 ふらりと、足が動く。
 逃げ出したかった。
 逃げて、どこかへ行きたかった。
 どこへ、なんて現実的なこと、考えはしなかったけれど。
 森をひた歩き、抜け出せない薄闇に笑う。自分が人間らしく泣けるなんて、思ってもみなかった。
 こんな手紙を見て泣き出すことができるなんて、考えてもみなかった。
 初めてもらった手紙。
 たった三文字。





    BYE                Jr.





 たった、三文字。
 神田はその紙切れをぎゅうと握り締めて、木に背を預けた。
 灰色の空は今にも泣き出しそうで、神田は笑う。本当に陳腐な関係だったのだと。
「……っ…う…」
 流れる涙に、意味なんかないと片付ける。
「ラビ……ラビ…、……っ…ラビ……!」
 口を突いて出てくる単語に、さして意味はないのだと決め付ける。
 身体しか繋げられなかった愚かしい関係を、ここで終わりにできるのだと、いっそ喜ぶべきではないか。逢いたくない、顔も見たくないと、望んだのは他ならぬ自分自身。
 身体を欲しがる淫らさを、ここで終わりにできるんだ。繋がりさえ絶ってしまえば、後はどうってことはない。時間が全てを解決してくれる。
 そうだ。そうするのがいちばんいいに決まっている。
 そうだ、きっと。
「ラビ…ッ………」
 心臓の痛みなんて、きっとなんでもない。
きっと、なんでもない。