言葉までの距離

2005/08/13



 何日経っても、ラビが任務から戻ってくる気配はなかった。長期なのだと窺い知れたが、どこへ、なのか、どれくらい、なのか、少しも情報がない。そのせいなのか、神田はいつまで経ってもゆっくりと眠ることができていなかった。
 ベッドに入っても、思い出すのはここで身体を繋げた行為。修練場に行っても、思い浮かぶのは共に重ねた手合いの日々。食堂に足を運んでも、頭をよぎるのは一緒に食べようと呼び寄せるラビの姿。
 いつでも思い浮かぶのは、あの鮮やかなオレンジ。
 そして、今日も。
「痛っ」
 気を抜いた隙に、腕をこする刃。油断をした隙に、流れ出す赤い血液。
 少し扱い方を間違うだけで、命を落としかねないイノセンス。幼い頃は、こんな掠り傷を作るのが日常茶飯事だった。相手の攻撃を受け止め切れなくて、色んなところで身体を傷つけた。心配そうな顔と、何気なく差し出される手のひら。
 その手を取って医療室に向かったのも、もう遠い昔。
「大丈夫か?」
 かけられる同僚の声にハッとする。
 タイミングが、あの男と一緒だった。
 だけど声をかけたのがその男のはずはなく、神田は浅く目を細める。
「大したことねぇ、すぐ治る」
 流れた血をぺろりと舐め取り、六幻の状態を確かめる。怒ってはいないようだ。ここ数日は六幻とのシンクロ率がだいぶ下がっていた。小さな油断で傷を作ってしまったのは、間違いなく神田自身の不手際だ。
 必死でシンクロ率を上げようともがいている同僚たちの中、居心地が悪いと思ったのか神田は六幻を鞘に収め、カツンと身体を翻してしまう。
 修練場を出たところで出逢ってしまった女には、しまったと思い頭を抱えた。それはやはり彼女にまで伝わってしまったらしく、
「カーンーダー」
 にこりと笑顔で攻撃される。
 顔を見た途端にため息を吐くなんて、ちょっとヒドイわよねと砂糖菓子のような声音の刃。きっと彼女────リナリーには、これから一生勝てやしないのだろう。
「ここには顔を見たくねぇヤツばっかりだ」
「あらあら、相変わらずね。あなたの場合、【顔を見たい】人を挙げる方が困難だわ」
 ああ彼女の言うとおりだった。顔を見たい相手など、この教団にはいやしない。昔、そんな人もいた。大切だった、大切だと思っていた人も、もうここにはいないのだ。
「…だいぶ落ち着いたみたいね?」
「何がだ?」
「神田よ。二、三日前までは、見れたものじゃなかったもの」
 歩きながら、神田はリナリーを見下ろす。さらりと流れる黒髪が、やはり美しいと感じた。
「風邪じゃねぇって、言ったろ」
「誰がそんなこと言っているのよ」
 わざと?とリナリーは息を吐く。だけどわざとであるならば、それでも少し安堵した。そんな風にゆるりと流せるようになったのかと。
 本当に、見ていられなかったのだ。
 声をかけても振り向かない、食事もロクに摂らない、きっと睡眠だっていつもの何分の一かなんだろう、と。目で追っていると、時々弾かれたように顔を挙げる仕種が、とても心臓に痛かった。浮かんでいるのは、きっと鮮やか過ぎるオレンジ。
「気持ちの整理は、ついた?」
「………」
 神田はただ歩く。リナリーも、答えを急がせようとはしなかった。
 ふたり、カツカツと響くブーツの音に、耳を傾け歩く。
「……リナリー」
 ややあって、神田が口を開く。視線は、前を見据えたままだった。
 うん?と緩やかに促す。
「いつから、思ったんだ? モヤシのことが…好きだって」
 ここ数日、何も考えていなかったわけではない。自分たちの関係を少し離れたところから考え、自分たちが何をしてきたのか、どんな気持ちで一緒にいたのか、イチから思い返し。何もかもを忘れようとさえ、試みてみた。
「…さぁ、いつだろ」
「どんな…気持ちなんだ。好きって」
 歩く速度が緩み、たどたどしく、視線が泳ぐ。
 それを見てリナリーは、ふわりと笑った。
「胸がね、きゅってなるの。私は、ね。アレンくんの仕種とか、行動とか。カッコいいなあとか、カワイイなあとか。ふふふ、男の子にカワイイはおかしいかな?」
 でも、と恥ずかしそうに、彼女は口にする。
「幸せにしてもらいたい、だけじゃなくてね。してあげたい、って思う。ホントに、私にできることなら、なんだってしたいよ」
 神田は、ないの?と訊ねられ、思い返した。
「神田から見て、ラビはどんな人?」
 ラビのする仕種。ラビの取る行動。ラビの言葉ラビの視線。
「…アイツは何でもできるようでいて…結構、抜けてるトコがある…」
 ソツなくこなしているようで、実は些細なところで抜けていて。
 例えば夜が遅かった時の、イノセンスの解放を間違えるとか。例えば寝過ごした時の、羽織るシャツが裏返しだとか。例えば食事をしている時の、熱すぎるスープに舌を火傷するとか。
 そんな些細な。
「バカじゃねーかって、思うけど」
 困ったことに、その失敗した後の笑顔が、たまらなく愛しいんだ。
「……」



 …愛しい?
 こんな、気持ち?



「でも……」
「神田。ラビの顔見ると、嬉しい?」
 間を置いて、神田は分からない、と答えた。
 顔を見ると、触れたくなる。抱きしめたくなる。キスをしたくなる。
 自分でも、恐ろしいほどに。
「あのね、神田」
 それを、彼女に言ったら。
「それって、ラビを相当愛しているわよ」
 何を今さら、といった風にため息交じり。
 神田がぴたりと立ち止まる。気づいたリナリーも、二、三歩先で立ち止まった。
「この気持ちが、そうなのか?」
「違うというの?」
「違っていたらどうするんだ?」
 腹の底から声を搾り出す。自分たちは順番を間違えた。こんなに長く続いてしまった関係では、愛情と履き違えても可笑しくはないだろう。
 お互いしかいなかった。手を伸ばした先には、お互いしかいなかったんだ。
「違うはずがないわよ。だってラビもあなたを愛しているもの」
 絶対の確信が、リナリーを笑顔にさせるけど。
 当の神田は、逆に眉を寄せてしまう。リナリーは不思議に思った。
「すれ違う…ばっかりだな……」
 気がついたときには、もう遅い。
 言い出したのは向こう。言わせたのはきっと自分。
 あの三文字を、自分も言わなければならないんだと、リナリーに告げる。
 リナリーから見て、ラビが自分を愛してくれていたというのであれば、そうかも知れなかった。思い当たるフシは、今にしてみれば確かにあった。あの言葉は真実だったのだろうかと、夢見てみた。行為の最中、耳元で囁かれた、スモークのような不確かな言葉を思い返して、その度思い知らされた。
 もう、傍にはいないということを。
「自分の気持ちさえ、まだハッキリしない」
 本当に、間違ってないのか。
 本当にこの想いで間違っていないのか。
「もしかしたらただ、ヤリてぇだけかもな?」
「神田!」
 思わず苦笑した神田を、手にしていたボードでパコンと叩く。彼女の得意技だった。
「よしなさい、そんな風に、不用意に自分の感情汚すのは!」
 乱れた髪を直しもせずに、神田は笑う。
 ゾクリと、背筋が揺れた。その、諦めた笑い顔に。
「カン…」
 神田がゆっくりと歩き出す。
 すれ違いざまに、リナリーの、搾り出したような声を遮って、小さく小さく呟いた。
 ありがとうと。
 幸せのための言葉じゃなかった。明らかに、諦めた人間のそれ。話を聞いてくれてありがとうと。気にかけてくれてありがとうと。
 リナリーの喉が、涙に震え始める。去っていく神田を、振り返ることができなかった。
 あの孤高のエクソシストが、あんな風に笑うなんて知らなかった。
「……カみたい……バカみたいだよぉ…ふたりともっ………!!」
 もう届かない。もう神田に届かない声を必死に絞り出して、リナリーはボードで隠し哀れさを泣いた。