言葉までの距離

2005/08/13



 バサリ。
 長い黒髪が肩にかかる。結っていた白い髪紐がぷつりと切れて床に落ちた。
「な……────」
 そんなに古い物ではなかったはずだ。その絹糸一本一本は確かに細くヤワなものであるのだが、幾重にも幾重にも組んである。刃物かなにかで手を加えでもしない限り、こんな風に切れてしまうなんて事は、考え付かないことだった。
 神田はその流れた黒髪を、自分の物ではないかのように、ゆるりと撫でて確かめる。何が起こったのか分からなかった。
 白い髪紐をしゃがみ拾い上げ、じっと見つめてみる。
「なんで…こんなん切れんだよ……」
 胸がざわついた。
 ドクドクと速くなる鼓動。
「神田!!」
 後ろで聞こえた少女の声に、思わずビクリと勢いよく振り向いた。その声にはいつもの柔らかな余裕などなく、泣きそうにも感じられる。
「リナリー?」
 彼女を呼ぶ自分の声も、僅かに震えていた。
「ちょっと来て!!」
 ぐいと腕を引かれ、その力に負けて神田の脚が動く。訝しんでリナリー?と呼んでも彼女は、
「早く!!」
 と先を急ぐだけだった。
 ドクンドクンと心臓が騒ぐ。先程よりも速度を上げたそれは、神田にこんなものは自分の心臓ではないと思わせる。
 苦しい。
 息が苦しい。
 つ…と鼻筋を汗が伝った。カンカンと、廊下にふたり分の足音が響く。掴まれた腕から伝わる人間らしい体温が、神田の心を余計に焦らせた。








 リナリーに腕を引かれ、ついていった先は、司令室。
「兄さん!」
 息せききらせて駆け込んできた最愛の妹を、コムイが沈痛な面持ちで振り向いた。
「リナリー」
「兄さ……無線は…?」
 息を切らせたリナリーが兄を見やっても、彼の腕は無線を握ってはいない。
 科学班はせかせかと走り回り、掛け声が飛び回る。かき消えそうになったリナリーの声は、それでもコムイに届いた。
「…切れてしまったよ。つい数秒前だ」
 そんな、と彼女が嘆く。神田の背筋がぞわりと凍った。
「何が…あった?」
 カタカタと腕が震える。カラカラと喉が震える。躊躇いがちに見上げてくるリナリーの肩を抱き、白髪の少年が代わりに答えた。



「ラビからの通信が途絶えました」



 息を呑む。指先が冷える。アレンが何を言っているのか理解するまでに時間がかかった。
「どういう…ことだ」
 途絶えた、だと?
 自分はつい先ほどまで、その男と通信していたはずだ。やや一方的に切断されてしまったが、何ら変わった様子もなかったのだ。
 悪寒が足元からせりあがってくる。ようやっと搾り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「さっき緊急で通信入ってきたんですよ」
 偶然居合わせた自分も聴いていたのだと、アレンが呟く。
 緊急、ということは、普段は使わない緊急回線を使ってきたのか。本当にあの男が、非常回線を使わなければいけない状況に陥るとは思いがたかったが、実際そんな状況に、今いるのだ。
「室長すみません! 音声コレだけしか拾えなくてっ…!」
 バタバタと駆け込んでくる一人の通信班。ついさっき、ラビとの交信回線を確保してくれた、あの男だった。手には小さな一枚のディスク。恐らく先ほどラビから来たという緊急通信を取り込んだものだろう。
「ありがとう。状況は最悪、かな」
 途中で切れちゃったしねぇ…とコムイはそのディスクを受け取る。
「逆探をかけてみたんですが、正確な位置まではちょっと…。ダヴィア公国の端の方だということは掴めたんですけど……ヴァチカン寄りですね」
「そうか…確か国境近くには探索部隊の駐屯地があったよね」
 後ろで心配そうに覗き込むリーバーに訊ねるが、
「あんま実践向きじゃないっスよね。あそこらへんあんまりAKUMA出ないですし」
 その言葉にそうかもねぇと同意し、ため息をつく。
 どう対処すべきか考えなくてはいけない。状況は一刻を争う。コムイは受け取ったディスクを通信機に入れ、音声を流した。そこで聴いている者たちの判断を借りるためにも。



 神田はただじっと佇む。
 拡聴器から流れ出した声は、確かについさっき言葉を交わした男のものだった。
『医療班よこし…てほし…さ! ジジィ……ックマンが重症…』
 途切れ途切れの音声が、壊れかけたゴーレムを使っているのだと悟らせる。
 荒い息が奥で聞こえる。破壊し、逃げ落ちながらの通信なのだろう。
『駐屯の部隊…もさっきレンラ…した…ど、ファイ…ダ…だと犠牲…多す……さ…っ! できた…でいい、エクソシ…トの援軍…頼め…ーかな…!』
 援軍を、ということは、よほど大量のAKUMAがいることだろう。そもそもブックマンが重症だなどと、普段からしてみればありえない事だった。
『ヤベ…ぇさ、コム… この街一個』



 まるまるAKUMAだ、と。



 諦めるように呟かれた言葉を最後に、音声がノイズに紛れブツリと切れる。
 街ひとつをAKUMAに変えてしまうほど、大量の愛がエサになった。生きることそのものが目的ではなくなったAKUMAたちは緑を消した。
 寂しがって笑って生きた。
「神田…」
 つん、と隣りの女が団服の袖を引っ張る。見下ろすと、泣き出しそうな笑顔が見えた。
「神田、…行こ?」
 どこに、とは彼女は言わなかった。どこへ、とは神田も訊かなかった。
 冷えた指先を握りこみ、神田はそっと目を伏せ首を横に振る。
「神田!?」
「エクソシストは指令がなきゃ動けねぇ」
 ここは組織である。自分はエクソシストであり、教団側からの支持の上に動いている存在だ。勝手な行動は許されていない。
「オマエの兄貴は、オレに指令は下さない」
 そうだろう?と神田はコムイに視線を移す。コムイはズレかけたメガネを指で直し、
「神田くん…最近、調子悪いよね?」
 そう諌めた。
 修練中に怪我はするしイノセンスとのシンクロ率も落ちてるし。
 室長ともなれば、全ての団員…特に直接指令を下すエクソシストの状態などは、逐一把握し気に留めておかなければならない。なるほど実際、よく見ているものだと神田は思う。
「コトは重大だし、一刻を争うものだ。キミがラビと仲がいいのは知っているけど、そんな状態の悪いキミを、任務に就かせるわけにはいかないよ」
 兄さん!と叫び抗議し始めるリナリー。兄の言うことはもっともだと分かっていながらも、言わずにはおられなかった。
「私がちゃんとフォローするよ! 神田だって大事な任務、ミスなんかしないじゃないっ……兄さんお願い、私と神田に」
「リナリー」
 行かせて欲しい、と言う前に、兄の言葉に遮られる。
「キミだって、他人のフォローをしながら闘える程、強くはないよね」
「そんなこと…!!」
 そんなことない、と言おうとした。自分だって強くなりたいと思っていた。大切な大切な人のためにも。強くなれると思ってた。
「キミと神田くんじゃ、行かせられない」
 実際巧くいかなくて、夢の中で喘ぎ続ける。
 確かなものなんて、何一つ手に入れられなかった。
「……」
「! 神田!」
 踵を返してドアを目指す神田を、リナリーが呼び止める。どこへ、と。
「指令が下らないなら、司令室にいても仕方ねぇだろうが。部屋に戻る」
 少しだけ振り向いた顔も流した声も、いつもの神田の物だった。冷ややかで、興味も無さそうで、悔しくなってくる。
 カツカツンと歩く背中で拒絶して、神田は司令室を出て行ってしまった。
「神田ァ!」
 リナリーの泣くような叫び声を、歩く速さで蹴散らした────







 自分はエクソシストだ。
 任務を下されない限り、その権利をもって動くことは許されない。
「………」
 乱暴に部屋のドアを開け、大きく息を吐いた。
 街ひとつがまるまるAKUMAだ、と荒い息の中で吐いたラビの声。
 ブツリと途切れた無線。走るノイズ。
「…ラビ…」
 ぎゅうと拳を握りこんだ。
 切れた髪紐を眺める。こんなことが起こり得るのか。この髪紐が切れたのは、きっとあの瞬間だ。
 神田は少し短くなったそれで長い髪を結いなおし、団服のボタンに手をかける。ゴツリとしたしたそれを4つ、外してしまえば後はもう、腕を抜くだけで。
「……」
 片腕を抜いて、肩を滑り落ちる黒い団服を自分の身体から離してみる。
 この服は自分を守り、導き、縛ってきた。
 それを手に持ったまま、クローゼットに立てかけていた相棒を…六幻を握り締める。
 これは自分を守り、導き、縛ってきた。
 どちらも力であり、必要なものであると思った。
 神田は顔を上げ、装飾などという洒落たもののない部屋に、ひとつだけ置かれた、唯一の飾り。蓮の花。
「……すみません」
 ぼそり、と呟く。
 誰に対しての、何に対しての謝罪なのか、神田は静かに浅く目を伏せた。
 六幻をぎゅうと握り締め、部屋の扉へと足を向ける。
 躊躇いがちに部屋を振り返って。
「…好きな、ヤツがいます」
 バサリと、団服を投げ捨てた────








「コムイさん、だったら僕が行きますよ」
 アレンはニコリと笑ってリナリーの肩を抱いた。アレンくん、とリナリーが振り返る。
 一刻を争うことでしょう?とコムイに答えを急がせ、脅迫じみた瞳で睨み刺す。
「指令を下さい」
 仲間だ。ラビもブックマンも、大切な仲間だ。
 AKUMAなんかに、奪われるわけにはいかないんだ。
 コムイはややあって、短く答える。
「…うん、じゃあ、頼もうかな、アレンくん」
 救出と、破壊を。コムイの口から、アレンに指令が下される。
 すぐに向かってくれと言うコムイに頷いて、リナリーを振り向くアレン。
「じゃあ、お留守番宜しくお願いしますね、リナリー」
 アレンの晴れやかな笑い顔に、リナリーもコムイも、え、と目を瞠った。
 まさかひとりで行くわけではないだろうなと。
「神田と行きたがった、リナリーの代わりに、僕が」
 リナリーはダメなんでしょう?とコムイを見やる。しまったハメられた、とコムイは頭を抱える。自分はアレンとリナリーに指令を下したつもりだったが。
 そういえば、自分も彼も、誰と誰とは言っていなかった。
「取り消しは聞きませんよ、コムイさん」
「ああもう、分かった分かった」
 キミには敵わない、とホールドアップ。言い争っている時間的余裕もない。じゃあ正式に指令を下すよとコムイはメガネをかけなおした。








 指令を下されて、アレンもリナリーも神田の部屋に急いだ。これは、正式な任務であるのだ。
 行こう。
 重症と一報されたブックマンのために医療班を連れて。
 行こう。
 あなたの、大切な人を、助けに。
 だけど開けた扉の向こうに、神田はいない。
「あーやっぱりいない」
 寒々とした部屋にアレンは苦笑する。脱ぎ捨てられた団服を拾い、リナリーも苦笑する。
「団服着てちゃ、動けないものね」
 一人の人間として、動いてしまったのだと苦笑う。
 逢いたい。逢いたい。逢いたい。
「アレンくん、これ神田に持ってってあげて」
 ゆたりとたたんだ団服を、ぽすんとアレンの腕に落とす。団服があっては動けないこともあるが、団服がなくては動けないこともある。正式に任務をもらった以上、神田はエクソシストとして動くべきなのだ。
「はい」
 にこりと笑うアレン。外に向ける足を止め振り向き、
「リナリー」
 彼女の手を取り、口づけて、言った。
「必ず帰ります。待っていてください」
 確信はない、約束。でも叶えたい、願い。何よりも強烈に、心に響く。
「うん、待ってる」
 ニコリと笑い、それを、誓いとした。
 アレンが背を向けて歩き出す。その速度は徐々に上がり、小さくなった背中は、やがてリナリーの視界から消えていった。
 帰ってきてください、みんなで。
 信じて、────待ってる。