言葉までの距離

2005/08/13



「かなり深いですねこの腕の傷。これでよくイノセンスを扱えたものだ」
 宿の一角、そこは広めの一人部屋と言っていいのだろう。ゆたりと座れる古いソファに、珍しく心地よさそうなベッド。高価ではないものの、風情ある家具。こんな任務でもなければ、旅行気分で泊まってみるのもいいだろう。
「そっか? 見た目より酷くなかったんさ、痛み。血ももう止まったし」
 左の二の腕、かまいたちにでも遭ったかのような切り傷。肉が切断されて、骨まで見えているというのに。
「ラビ、少しは自覚してくださいよそれ。感覚ないんじゃないですか?」
 手当てを後ろで見守っていたアレンは頭を抱えた。本当にこの男は、いつでも楽観的で客観的。もちろんそれは彼が生きてきた中で身につけた技と感情であって、否定する気はない。
 ただ、関わるこちらの身にも、少しはなってほしいのだ。
「見たところ神経に異常はないようですね。まったく運のイイひとだ。血は足りてますか?」
「あぁ、へーき。縫う?」
「そうですね。もうお一方の…神田殿だったら、これくらいの傷、縫わなくても塞がったんでしょうけど」
 医療士の言葉に、アレンの眉が片方下がる。
 ラビが、神田の名に何の反応も返さなかったからだ。相変わらずの、笑顔のバリア。
 アレンはため息をつく。今ここにいない神田に少しばかり恨みがましい念でも送ってやろうかと思うほどに。
「痛くないんならこのままやっても大丈夫ですね」
 針を片手ににこりと笑う医療士の笑顔は、【彼には逆らわないでおこう】と思わせるには充分だった。
「せめて麻酔くらいはして下サイ」
 さすがにラビも笑顔を消してホールド・アップ。
 仕方ないですね…と何をがっかりしているのか訊くのが恐ろしい医療士に、
「ジジィの方は大丈夫なんさ?」
「ブックマン殿は別室にて治療を行ってますよ。今、輸血を。かなり血を失われてましたからね。あちらには結界装置を置いて来ました」
 そうか、と息をつく。どうやら命に関わるほどではなさそうだ。
 あの人にはまだ教えを請わねばならないのだ。師であり、唯一の【共犯者】を、こんなところで失うわけにはいかない。
 その時、コン、と一度だけ叩かれたドアが開く。
「入るぞ」
 振り返ったアレンが目を瞠った。
「カッ、神田、どうしたんですか!?」
「あ? 何がだ」
 彼は先ほどより明らかにボロボロな姿だった。
 乱れてしまった髪と擦り切れた団服。そこから覗く肌と鮮やかな血液。止まりきっていない血液は、先ほどの援護戦闘のものではないだろう。
「外、行ってたんですか?」
「周辺を見回っただけだ。五体ほど雑魚が居やがってな」
 ここの安全を確保したかったのか、それともここに居たくなかったのか、…どちらからの行動だろう、とアレンは眉を寄せて苦笑した。
「ユウ、怪我は?」
 ラビが、初めて神田を振り返る。一秒だけ、沈黙が流れた。
「いちいちてめェに報告する謂れはねぇ。ジュニア、この街に【人間】はいねぇのか?」
 社交辞令など要らん、とでも言いたげに神田は目を細めた。
 そうだ。好意がない労いほど、今の神田にとって辛いものはない。 突き放すのなら徹底的に突き放していればいいものを。
「ん? どして? オレもこの街全部回ったわけじゃねーしAKUMAと人間の判別できるわけじゃねーから、なんとも言えんけど」
「いや、居るのなら避難をさせなきゃならんだろう。街がすべてAKUMAに…とはどうも腑に落ちなくてな」
 この任務は一筋縄ではいかないようだ。
 引き戻された魂。嘲笑う千年伯爵。その手を引いてきたのは、いくつかの愛、ですか────?
「そうだな…アレンに頑張ってもらおっか」
「そうですねー、いちいち攻撃してくるかどうかで判断してるわけにも行かないですもんね、街規模じゃ」
 やっぱりリナリーじゃなくて自分が来て良かった、とアレンは一人ごちる。彼女にもAKUMAを見分ける力があるわけではないし、危険すぎる。
「あー…宿なら地図ってあるかなぁ…」
「地図?」
 アレンの言葉に、ラビと神田の声が重なった。
「や、なんか僕、迷いやすいらしくて……何か探すつもりなら地図を持て、とリナリーに言われてるんですよ」
「あっはっはおもしれー」
 包帯を巻き終えた医療士も加わって、
「ウォーカー殿の方向音痴は有名ですからねぇ教団内でも」
「えっ、そうなんですか!? な、なんでだろう…」
 付き合ってられん、と踵を返す神田に気づいて、アレンが引き止める。
「神田、僕地図探してきますからそれまでここで休んでてくださいよ」
「…この部屋である必要はねェだろ。部屋をひとつ借りるぞ」
 少しだけ振り向き、神田はその提案を拒否した。アレンがわざとそう仕向けているのが分るからだ。ドアを開け部屋を出ようとする直前。
「ユウ、怪我の手当てしないんさ? まだ血が止まってねェみたいだけど」
 揶揄うでなく厭味でなく、口にしてきたのはラビ…神田が今ではジュニアと呼ぶ男。
「────」
 それさえも最早腹立たしくて、できる限り静かな声で返してやった。
「他人の心配なんざ、自分の腹の治療済んでからにしやがれ、死に損ないが」
 吐き捨て、力任せに扉を閉める。
 拒絶されたような扉をしばし見つめ、アレンは我に返る。勢いでラビを振り向いた。
「腹の治療ってなんですかラビ!!」
「え、あ、いや?」
「え、あ、いや?…じゃないですよっ! そっちも怪我してるんですか!?」
「うおっ!?」
 詰め寄られ裾からシャツをたくし上げられるラビ。
 見れば、自分で行ったのであろう応急処置。布ににじんだ血液が、脇腹の怪我を報せる。
「ラビ…、怒 り ま す よ…?」
「わぁアレン顔が怖いさ」
「っこんな時まであなたという人はぁっ────!」
 ぽんぽんと肩を叩かれ、宥めようとしてくるラビに逆に腹が立つ。 自分に弱みを見せたくないとでも思ったのだろうか。
「大丈夫ですよウォーカー殿。このテのは、麻酔なしでちゃちゃっとやってしまった方が後々大人しいですからね」
「え?」
「あぁ、そうですね。じゃあちゃちゃっと治療しちゃってください」
 血の気が引いた。笑顔でさらり、とんでもないことを言ってくれる。
「え、え、え、あの、ごめん謝るさっ?」
「ふふ」
「ふふ」
 ふたりの笑顔が悪魔に見えた。
 一応、とりあえず、無事に、…麻酔はしてもらい、ラビは治療を受ける。医療士にはホントに逆らわないでおこう、とこの日誓ったとか、誓っていないとか。








 ラビが治療を受けている部屋とは、階を別にした。近くにいて、衝動を抑える自信など、はっきり言ってないに等しい。
 それでも真上の部屋を選んでしまったのは、浅はかな未練。
 神田は窓辺にもたれ、AKUMAの街を見下ろした。
 AKUMAを呼び戻した人間は、それほどまでに死んだ人間を愛していたのだろうか。突然の死を受け入れきれずに、伯爵の手を取った。
 AKUMAにされた、呼び戻された魂は、まだ生きていたかっただろうか。自分の生を嘆いただろうか。
 死を受け入れられなかった者たちに、嘆くのだろうか。
「…愚かなことだな…」
 自分だったら、どうするのだろうか。
 逢いたい人は行方知れず。
 逢いたかった男は生きていた。
「……」
 生きていた。
 神田はこつんと、額を窓に預けた。
 逢いたかった。
 これからどうすればいいのだろう。どうするつもりだったのだろう、自分は。
 ただ逢いたかった。
 無線越しにでなく自分の耳で直接、声を聞きたかった。
 浮かぶ幻想でなく、生きて動いている実物を、この目で見たかった。
 この手で、もう一度触れたかった。
 じ、と片方の手の平を見下ろして口を覆った。
「……ラビ…」
 抑え切れなくてキスをしたのは自分の未練。
 舌を、指を絡め返してくれたのはラビの…何だというのだろう。
「……」
 これから何をするべきだろう。何を伝えるべきなのだろう。
 ────神田から見て、ラビはどんな人?────
 リナリーの言葉が頭の中を駆け回る。
 ────胸がね、きゅってなるの────
「…はぁ……」
 イヤでも、気づいてしまう。自分の中にうずくまっていた気持ち。
 ラビへ向かう、恋と名づけていい感情。
 気づかなければ良かった。気づかなくても生きていけた。
 だけどAKUMAを破壊し動いている彼を見つけたとき、…あの時の感情はなんと表現するべきなのか。
 生きている、と思って。
 動いている、と思って。
 彼を呼ぶより先に、援護しなければと身体が動いた。
 生きていて欲しかった。
 とても、逢いたかった。
 こんな気持ちが恋だというのなら、自分は相当彼を恋しているのに。なぜ、今まで気づかずに過ごしてきたのだろう。
 生きていてくれた。
 ────まだ何も言っていないからだ────
 自分には、自分たちには後どれだけ時間が許されているだろう?
 神田は、胸ポケットに忍ばせた紙切れにそっと手を伸ばす。
 彼にとってはもう終わった時間。
 自分にとっては、始まった時間。
 ────まだ何も言っていない…
 【Bye】と走り書かれた紙切れに、ゆっくりと口づける。
「まだ、何も言っていない…ジュニア」
 考えていた。
 彼に何を伝えなければいけないのかと。
 さよならか、愛していますか。
 ずっと考えていた。自分と、彼のためには、どちらを。


 コンコン


 ノックされたドアに、ハッと顔を上げる。ラビからの手紙をしまい、何だと無愛想に声を返した。
「ここだったんですか神田」
 扉を開けて入ってきたのは、アレン・ウォーカーだった。窓際で腕を組み、いつも通りの平静を装ってみる。
「地図。見つけたんで。やっぱ結構広いですね」
 笑って、四つにたたんだ地図らしきものをぱたぱたとはためかせる。傍の机に広げ、アレンは現在の位置を示してきた。
「今がここですね」
 神田は歩み寄り、机に片手をつきそれを覗き込む。確かに【街】と言うだけあって、狭いものではない。
「街の中心からは少し外れているな」
「ええ。で、ブックマンを保護したのがここ…」
 トン、と指を置き一点を指す。ということはラビがAKUMAを破壊した経路は…と視線を動かす神田。
「となると、神田とラビがイチャイチャしてたのはここら辺ですね」
 思わずガタリと体勢を崩した。アレンの目は地図に向かったままだ。神田はチッと舌を打つ。
「忘れろ、あれは」
「ちゃんと、言ったんですか? ラビに」
 顔を逸らす神田に、アレンは言葉を投げた。揶揄っているわけではないことくらい、言の音でわかる。神田は少し目を伏せ、答えた。
「まだ、…何も」
 アレンは顔を上げ、やっぱり、とため息をつく。
「さっきの様子からして、仲直りしたわけじゃなさそうでしたしね」
「関係ねーだろてめェには」
「大アリですよ。ラビが気になって集中できません…なんて、AKUMAは聞いてくれませんからね」
 言葉に詰まる。そんなことはない、と言いきれない。
「あと、…リナリーが心配しています。あんな顔させないで下さい」
「モヤシ…」
 そうだった。リナリーがこの男を好いているのと同様、この男も。
 見ていれば分かる、と言ったアレンの目に、自分はいったいどんな風に映っているのだろうか。
 この男が気づいているのなら、もしかしてラビも、自分の気持ちに気づいているだろうか。
「死ぬようなヘマはせん」
「そうして下さい」
 フォローはしない、とアレンは笑う。ただ共に帰るだけだ。教団へと。
「さて、どう攻めますか?」
「そうだな…ジュニアが破壊した経路を除いて街の外れまで行くしか…」
 そこまで言って、神田もアレンも息を止めた。
 この建物を取り囲む、密やかな殺気。



 考えるより早く身体が動いていた。



「神田!」
 部屋を飛び出した神田の背中をアレンが追う。
「…ッチ」
 階段を駆け下りるのさえ時間が惜しくて、神田は手すりに右手をついて飛び降りた。降りた片足で床を蹴り、加速させる。勢いもそのままに、ガンッとドアを蹴破った。
「ユウ?」
 突然の訪問者に、 目を見開くラビ。
「ジュニア! 伏せろ!!」
 ベッドに起き上がっていたラビを首から引き寄せ、ベッドを蹴り倒す。どさりと倒れ込むふたつの身体。
 それとほぼ同時だった。
 ガッシャ────ン!!
「なっ…」
 放たれたAKUMAの殺意。
 割れるガラス。壁を突き破るAKUMAの槍・弾丸・兵器。
 舞う埃。突き抜ける轟音。臭う硝煙。
 伸ばされた手はイノセンスに。
「満…」
 団服を羽織ったラビも槌を発動する。
「なにコレ。総攻撃?」
「すまん、オレのミスだ。尾行られたかもしれん」
 バリケードとなったベッドに、止まぬ砲撃。
 ガガガガガガガッ
「ラビ! 神田ッ!」
 無事か、とイノセンスを発動させたアレンが、窓の外に弾丸を撃ち込む。
「アレン! ジジィは!?」
「意識が戻ったようです! 医療班の方を護るのにイノセンス発動してましたから…っ」
 ブックマンの治療に、と使っていた部屋に飛び込んだアレンが見たものは、黒い守護の針。
「出ますか?」
 アレンが窓の外を睨みながら身構える。あぁ、と頷いて立ち上がる神田。鞘から抜かれた六幻が、彼の意志で唸りをあげる。
「できるだけ離れたとこでドンパチやんねーとな。ジジィに怒られるさ」
 下げたターバンをぐいと上げるラビ。それを見て何をやっている、と神田は振り向いた。
「てめェ、出るつもりじゃねーだろうな」
「出るさ?」
 それがどうかしたのかと、ラビは笑う。
「ふざけんな。てめェはここにいろ」
 ブックマンだって、いつ意識を失うか知れないのだ。万が一を考えろと神田は睨みつける。
「ジジィんとこ行ったってオレ怒られるじゃん」
 ジャッと団服のジッパーを引き上げる。神田はそんなラビの胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「ここにいろと言ってるだろう! 足手まといなんだよ!!」
「ユウ」
 怪我人を庇いながら大量の兵器など相手にできない。長く共にいた相手だ、見殺すことなどできやしない。ましてや、それが好いた相手ならば尚更だ。
「迷惑はかけんさ」
「殺意にすら気づかないヤツがか」
「けどあの量をふたりでなんて無茶」
「いいから!!」
 ダンッ、とラビの身体を壁に押しつけて、神田は叫んだ。
「…頼むから、ここにいろ」
 これ以上自分を抑える自信はない。
 それが戦闘中なら命取りだ。
「オレと、モヤシで、外のヤツらをなんとかする。てめェはブックマンの援護に回れ」
 喉から声を絞り出し、普段することのない懇願を。
「…神田。来ますよ」
 アレンが壊れた窓枠から外を警戒する。
 分かった、と離れかけた神田の口唇が、ラビのそれを覆った。


「…来たら、殺すぞ」


 ゆっくりと離し、背を向ける。目を瞠ったままのラビに。
「モヤシ、先に行く」
 返事をする間もなく、神田の身体が舞う。アレンはラビを振り返った。
「ラビ、この任務が終わったら、神田とちゃんと話し合って下さいね」
 そう笑って彼も窓の外に飛び出していく。
 ラビは俯いて、ぐしゃりと髪をかき混ぜた。
「なんで…そんな泣きそうな顔してキスすんのさ……ユウ…」
 否定したい。錯覚だと笑ってやりたい。あなたはただ温もりを取り戻したくて必死なんだと突き放してやりたい。
 できない自分に腹が立つ。
 AKUMAを破壊するためのこの腕が、あなたを抱きしめたがってしょうがない。
「っ…くそ」
 ラビは身体を翻し、ブックマンの援護に向かう。
 死なせるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。
 まだ、やらねばならないことがある。