言葉までの距離

2005/08/13



「ジュニア! いい加減に離せ!!」
 叫ぶ神田を煩わしそうに振り返るラビ。
 ぞっとした。
 なんて────目で。
 これ以上喚かれるのも鬱陶しい、とばかりに、ラビはちょうど手の届いたドアノブをガッと回し、勢いでその部屋に神田を放り込んだ。
「つっ…」
 よろめきながらも床を踏み、掴まれて痛んだ手首を庇う。
 先ほどの部屋からどれほど離れたのだろう。考える余裕はなかったが、さすがに集合住宅だ、家具や装飾は違えど広さは変わらない。 このテーブルや右端のオークの置時計がなければ同じ部屋かと錯覚してしまう。
「説明してくれる? ユウ」
 トン、と閉ざした扉にもたれ、ラビは腕を組む。
「何をだ」
 テーブルに手をついたまま俯き顔を逸らす神田を、余すことなく見返す。
「任務じゃ、なかったんさ?」
 問いかけても、神田はピクリとも動かない。
 肯定なのか、否定なのか。
 僅かの沈黙を破って、神田は口を開いた。
「…さっき、言った通りだ」
 任務だ、と言った。何をしに来たと聞かれて、自分は任務だと、そう返したはずだ。
 抑え切れなくて口づけてしまった自分に、舌を絡め返してきたのはどこのどいつだ。
「でもさっきコムイが言ってたさ。『勝手な行動』って。『ハメられたから』っ…て?」
 本当に【任務】だったのなら、コムイがそんな風に言う必要はない。
 元の性格が性格だ。多少の行動は予測ができる。彼…コムイもそうだったのだろう。だからこそ飛び出したであろう神田を連れ戻そうとはせず、あえてアレンの駆け引きに乗った。行かせてはいけない、という室長の立場と、行かせてやりたい、というひとりの人間としての気持ちが、神田に任務を与えた。
「勝手に出てきたんさ?」
 確信的な口調に、神田は団服の袖をぎゅうと強く握った。
 あの時教団に置いてきたこの黒の団服。
 何を、どれを選んだつもりでもなかった。
 世界のためにAKUMAを破壊している使命感なんかない。
 大切なものを守りたい、と言えるほど大切にされた覚えはない。
 ただもう一度、自分を抱きしめてほしい人がいた。
 自分の前から消えたあの人を、どこかで生きているはずのあの人を、この手で探し出したかった。情報を集めるために資金と多少の権力は、どうしても必要になってくる。だからこの団服を着ていたんだ。
「オレからの手紙、受け取らんかった? リーバーに渡してたんだけど」
 触れて欲しいと思ったのはその人だけだった。
「…受け取った」


 だけど触れたいと思う人は、この男が初めてだった。


「だったらなんで」
「うるせェな! 何を言ったらてめェは満足するんだよ!」
 バッと振り向く神田。勢いで睨みつけたそこに、触れたかったその人。
「こう言えばいいのか! ただ逢いたかったと!!」
 悔しい、と心臓が潰れそうになる。
 この声が、この感情が、いったいどれだけあの男に届いているだろうか。
「逢いたかったと……言えばいいのか…っ…!」
 何を言えばいいのか分らなかった。
 この吹き出しそうな感情を、どう言葉にすればいいのか分らなかった。
「逢いたかったって、なに」
 ざわり。ラビの肌があわ立った。睨みつけてくる神田の瞳の炎は、 自分が惹かれたもののひとつ。
 その先を、言葉の先を聴きたがっている自分と、聴いてはいけないと制止する自分がいた。
「ユウ…オレになんて逢いたくなかったって言ったさ…? ねぇオレ…手紙でさよならって」
「言うな!!」
 オマエの口から聴きたくない、と神田は声を荒げた。
 ドクン、と心臓が波打つ。
 どれだけ睨み返しても神田の瞳の力は弱まらず、正面から突き刺してくる。
「手紙は受け取った。だが返していない」
 走り書いたアレを、何度破ろうと思っただろうか。口にすることができなくてペンに頼った自分を、何度哀れと思っただろうか。
「……ユウ、もういい」
「…無線を聴いたとき初めて感じた。オレの……人間の心臓が潰れそうになるほど痛むものなのかと」
 思うだけで悪寒が走る。街ひとつがAKUMAだと言って途切れた、ノイズ混じりの交信。
 生死を確認したい。死んでいるのなら亡骸を。生きているのならその体温を。
 ただ抱きしめたい。
「どう…言えばいいか分らん」
「もういいって言ってる」
 この命が残されている限り、あなたを。
 ラビの眉間に皺が寄る。珍しい表情だった。それには神田も気づいていたけれど。
 神田の口唇がゆっくりと形を作り出す。
「ラビ、……オレは」


『初めましてユウ。オレあんたと同い年さ』
『…なんでオレの名前…』
『団員のファイルで見た。オレね、ジュニア。よろしくユウ』
『…ふぅん』
『仲良くしようさ。ふたりっきりの十歳同士〜』
『……知るかてめェなんか』


 教団に来て初めて笑いかけたその人。
 いつも共にいた人。

 神田は目を伏せて、そして開ける。
 ラビは目を逸らし、そして伏せる。


「オマエが」

 崩れてしまう。
 壊れてしまう。


 破裂してしまう。
 溢れてしまう。


 その先をどうか。
 この先もどうか。


 この先は聴くな。
 その先は言うな。


「好きだ」






 壊れてしまえ。告げられない想いなら。
 壊れてしまえ。錯覚するような想いなら。


 ラビが歯を食いしばったのが分る。
 神田がそれに眉を寄せたのが分る。
 ぐしゃりとかき上げる髪と一緒にターバンを外して、ぎゅうと強く握った。
「なんで……イキナリそうなってんのさ?」
 決めたはずだった。
 もう二度とこの腕に抱くものかと。
「…気がつけなかったんだ」
 身体だけしか開かせることができなかったはずだ。そう思おうとしていた。
「近すぎて……分らなかった。正直今でも…この感情の正体に名をつけるのは怖い」
 気づかないようにしていた。
 身体だけが欲しがっているのだと。
 向かう感情をなんでもないと片付けて、やり過ごして早や数年。
「教えてやるよユウ、その感情の正体」
 ハッと、笑うようにラビが息を吐く。…いや、実際…嘲笑っていた。
 もたれていた身体をす、と起こし、ラビはこちらを睨みつけてくる。明らかに敵意の篭った瞳で。
「そりゃ単なる執着だよ」
 距離が近くなる。空気が張り詰める。
「玩具が手に入らなくて駄々こねてる子供みてぇさ、ユウ」
「…ジュニア」
 責めるような眼差しで、神田はラビを見つめた。
 そんな感情ではない、と。
「甘やかしてくれるオレが離れてったから、必死に取り戻そうとしてるンだろ」
「違う」
「抱いてくれるヤツが欲しいなら、教団にオトコいっぱいいるんだから、探せばいいさ? それこそ娼館にだって」
「オレを侮辱する気かジュニア!」
 カァと熱が上がる。
 ただの一度だって、この身体を他の男に許したいとは思わなかった。
 他の男を欲しいとも思わなかった。
 この男以外と、あんな行為をしたいとは思わなかった。
「…錯覚すんなよユウ。いい加減目ェ覚ませ」
 呆れるような息を吐くラビに、腹が立った。
「ふ…ざけるなァ!」
 ヒュッと振ったこぶしは、それでも左頬の前で受け止められる。ギリ、と爪を立てられ、神田は眉を寄せた。
「ふざけてるのはユウの方さ」
 色のない瞳が心臓に痛くて、痛くてどうしようもなくて、その手を振り払う。
「錯覚なんかで思えるかバカヤロウ!!」
 こんなに。
 こんなに欲しいなんて。
「ただオトコが欲しいだけならオマエじゃなくてもいい…っ」
 触れたい。
 抱きしめたい。
 キスをしたい。
「なんでよりによってオマエなんだ!」
 あなたでなければこんなに苦しくない。
 あなたでなければこんなに痛くない。
 あなたでなければ、こんなに触れたいと思わない。
「いい加減にするさ…」
 冷えた声が耳に入る。
 自分の想いとそれの温度差は、どうにもならないくらい開いていた。
「そんなに…オレと身体の相性良かったかな」
 伝わらない。
 伝わらないのか。自分のこの想いは。
 身体だけ開いてきた自分に与えられた、罰か。
 情の通わない行為に溺れてきた罰か。
「どう……どうしたら信じる」
 どれだけか。どれほどか。
 あなたを好きだと叫んだら。
 誰かに祈ったら。
 何への懺悔を繰り返したら。
「オマエを好きだと」
 この言葉を受けてくれますか。
「…最初に信じなかったのはユウの方だろ」
「────」
 ぼそりと呟かれたそれが耳に入る。
 信じなかった。信じていなかった。信じても意味はないと思っていた。
 行為の最中に吐かれる愛と呼んでいい言葉。
「……ラビ、オマエの言ったあの言葉は、真実本心だったか…?」
 思い出すだけで耳が、心臓が熱くなる。
 微かな羽音のように囁かれた、その言葉。
 愛していると、耳元で小さく囁く信号。
「…本心、だったさ」
 単なる雑音に過ぎないと、流れる涙を快楽に置き換えた。
「だったら何故抱いてる時にしか言わなかった!? ただの一度もねェじゃねーかそれ以外!」
「それ以外の時に言って、ユウは信じてくれたんさ!?」
「……っ…」
 言葉に詰まる。
 さすがに何年も共にいただけのことはある。神田の性格などお見通しというわけだ。
 …信じただろうか? 曖昧にやり過ごしただろうか?
 思い描いてみて、どれも現実味がなくて俯いた。
 すべて去った、所詮は幻だ。
「…やり直すことは……できないのか」
「お生憎サマ。オレの方はもう、ユウのことなんか何とも思ってないンさ」
 軽いノリで肩を竦めて見せる。顔を上げた神田は、泣き出しそうな表情をしていた。
「……わかった。ではオレは…勝手にオマエを想う」
 ざわりと肌があわ立つ。
 それなら問題ないだろう、と目を僅かに伏せた神田に、ラビは眉を寄せる。そうやって口の端を上げた。
「そんなにオレのこと好きなんさ?」
「え────」
 視界が動く。


 ダンッ ガタン ガタッ…


 いきなり加えられた強い力に、神田が目を瞠る。気がついたときには、テーブルの上でラビに見下ろされていた。
「何、を…している…」
 背中に当たるテーブルがギシリと音を立てる。
 倒れた椅子が、まだカタカタと揺れていた。
「抱いてあげるさ?」
 放たれる言葉と共に、ボタンを留めた白いシャツ、合わせた部分に手をかけられる。
 その手を一気に引き下ろされ、ボタンがふたつ、飛んだ。
「なッ…!」
 さすがに事態を把握した神田がガタリと音を立てて身を捩る。
「やめろ…っいやだ、…ラビ!」
 捩って抱え込んだ肩を掴まれる。その手から伝わる体温は、いつもと同じ温度で。そのくせ仕掛けてくる行為は乱暴そのもので、神田の身体を打ち付けた。
 上から強い力で押さえつけられ、上手く逃れることができない。
「…っおい、よせ…! 任務中…っ」
 首筋を強く吸われ、痛みに眉を寄せた。
「だって、オマエ集中できてないじゃん? オレに触って欲しくて 必死にオレの事追っかけてたさ」
「何を考えている…ッ! 離せ!」
 蹴り飛ばそうとした足も捕らわれ、ぐいと広げたその間に身体を割り込まれる。
 ガタリ、とテーブルが揺れる。
「抱いて欲しいンでしょ? そんなに物欲しそうな目で見て」
「違うッ…やめ…っ…離せ! オマエ…、…傷がっ…!」
 ガッ… ダン!!
 抵抗を試みた腕を掴まれ、テーブルに押し付けられた。磔にして見下ろしてくる瞳は、見たこともないような蔑みだった。
「こんな時に他人の怪我の心配? ずいぶん余裕さ、ユウ」
「いッ…」
 ギリ…と胸に爪を立てられる。耐え切れず浮き出る内出血。
 そのままラビの指先は胸の赤い突起に移動し、間髪を入れずに襲う痛みと快楽に神田は首を振った。
「や、め…っ!」
「気持ちイイくせに」
「あぅっ…!」
 見下ろしてくる侮蔑。
 何度身体を重ねた記憶を手繰り寄せても、そんな瞳は見たことがない。
 見たくない。
「いやだ…い、やっ…!」
 触れたい、とは思った。
 触れて欲しい、とも思った。
「暴れんな」
 触れてくる腕を振り払う。のしかかってくる身体を必死で押しやる。
 脱げかけた団服が後ろ手に身体の自由を奪い、ヘンに曲がった腕が痛む。
「痛…っ」
 こんな風に抱かれたい、なんて一度も思ったことがなかった。
「やめ…てくれラビ…っこんな」
 打ち付けられた肩が痛む。手の甲が痛む。爪を立てられた胸が痛む。
 悔しくて涙が溢れた。
「こんなやり方オマエらしくねェ…っ…!」


────パァン!


 何が起こったのかと思った。
 突然に横向いた視界と、痛む頬。
「オレらしくないってなにさ。ベッドん中のオレしか知らないくせに」
 頬を打たれたのだと、ようやく気づく。
 抑揚のない声が、ラビの怒りを伝えてくる。ヒリヒリと痛む頬が、 彼の怒りを告げてくる。
「オマエの中のオレって、ホント何? 寂しいとき抱きしめてくれて? 頭撫でてくれて? 欲しけりゃ抱いてくれて? どれだけ突き放しても戻ってくる馬鹿なオトコさ!?」
「…っつ」
 ガクン、と両肩を揺さぶられ後頭部を強打する。
 泣き出したくて、泣き出せなくて、必死で声を噛み殺す。
「欲しけりゃくれてやるさ! 身体だけ開くのはユウの得意技だろ!?」
 心臓が潰れそうになる。
 叫び出しそうになる。
 眩暈が起こる。
 あなたへの想いに。
「オレもタマッてるんさ、好きにさせてもらう」
 そうでなければ割に合わない、とラビは笑う。
 噴き出しそうな感情を抑え、神田はやっとの思いで口唇を開いた。
「好きにすればいい…!!」
 搾り出した声は、思った以上に震えていた。
「だが…っ…オマエへの気持ちは変わらん…!!」
 好きにするがいい。壊れるまで。涙が涸れるまで。
 ラビは目を瞠り、笑って神田を睨みつける。
「淫乱」
 喉に吸いつかれ、神田はギリッと歯を食いしばる。
 泣いてなどやるものか。声など上げてやるものか。
 これはラビではない。
 これはジュニアではない。
「く…っ…ぅ」
 冷えた指先が神田の身体を這う。知り尽くされた性感帯が、その指に溶けていく。
「う、っ…」
「…声、我慢してるんさ?」
 的確に直接的に与えてくる快楽は、明らかに確信的なものだった。
 早く終わってしまえ。
「う…! う……っん」
「人一倍、エロくて感度イイのにな」
 布越しに中心を握りこまれ息を呑んだ。
 形を知った手のひらはいやらしくうごめき、神田を追い詰める。
「ふっ…! う、…っう」
 背の下で自由にならない腕を、それでも動かそうと試みる。
 終わってしまえ。
 早く終わってしまえこんな行為。
「…いつまで我慢できんの。無理やりやっても感じてるくせに」
 くく、と喉を鳴らす笑い声。
 きつく目を閉じて歯を食いしばった。
 声なんか上げたくない。涙なんか流したくない。
「ん! んんっ…」
 温かな口内に含まれて、背筋があわ立った。
 やり方はいつもと同じ。
 いつも自分を貶めていったあの男のやり方と、やっぱり一緒。
「んん、ん、うぅ…っ」
 ぼろぼろと涙が零れた。
 噛みしめた口唇が切れた。
 露わにされる下肢に、男の手が張り付く。僅かに濡れた指で追い立てられ、身体が揺れた。
 快楽は時として果てのない苦痛に成り代わる。
「う、んぅ…っ」
「…ユウ? 辛そうなカオしてる」
 誰がそうさせているんだ。耳元で囁く声にそう返してやりたかった。いつもだったら、決まったように愛していると囁く声が今では。
「やっぱ指じゃ足りないんさ」
 凶悪な笑みと共に。
「アッ…!!」
 ひきつれる痛みを感じたのはそのすぐ後だった。
「────」
 神田の蒼眼が目一杯にまで開かれる。最初の悲鳴は空気に持って行かれた。
「…っ」
 声を上げる余裕などなかったように思う。
 ただ生まれた激痛にどうにか耐えようと、歯を食いしばるだけで。
「下手に…っ…我慢しない方がっ…いいんじゃ、ねーの…っ」
 同じように呼吸を荒くしたラビの声が、耳のすぐ傍で聞こえた。
 痛みに耐えることに精一杯で、周りに目を向けることさえできなかった。
 高い陽は部屋の窓から無遠慮に入り込み、背の下にしたテーブルは二人の重みを受けて泣きわめく。いつ壊れるとも分からないそれに頼り、無意味とも思われる時間をやり過ごす。
 荒く浅い呼吸を繰り返して、意識さえも奪って行きそうな激痛を散らす。
「うっ…うぅ…! あァ!」
 幾度それを繰り返しても、心臓の痛みは収まりそうになかったけれど。
 体温が上がってく。
 体温の温度差が縮まってく。
「んっ…んん! う…ぐ」
 感情の温度差が広がってくのに反して、触れた体温は同じように上がってく。
 涙が止まらなかった。止めようともがけばもがくほど繋がりが深くなって、神田の喉を詰まらせる。
「ふっ…ふ、う…ッ、う、…っく」
 ガクガクと揺さぶられる身体。
 本当にこれが自分の身体なのか、自分の感覚なのかと思うほど、 絶え間ない痛みと快楽が襲ってくる。いっそ切り離してしまえたら、 どんなに楽だろうか。
 身体に感情がついていかない。
 身体が、感情とかけ離れたところで熱を求める。
「っひ……ん、ん、ッん」
「…相変わらず強情さ」
 気持ちは変わらない、と言った通り、こんな風に乱暴に抱かれてなお、目の前の男を恋慕った。
「あうっ…」
「いつもみたいに…オレの名前呼ばねーんさ? いつもは…ねェ、甘えた声で…っ…呼ぶ、くせにっ…」
「んぅっ、う、く…っふ」
 答えてなどやるものか。
 この男は自分の欲しがった男ではない。
 名前など、呼んでやるものか。
「はぅ…っ」
 甘やかに喘ぐ声すらなく、苦痛に呻く声と、逃げ落ちるような呼吸と、互いを拒絶するような水音だけが響く。
「────…っ」
 なんのために繋がりあっているのかすら明確にできないまま、奥深くに放たれて、神田の身体が戦慄いた。
 引き抜かれていく心許なさが苦しくて、切なげに声を上げる神田。
 そんなところだけはいつもと同じだと、ラビは笑う。
 達していない神田自身に手をかけ解放を促す。
 一方的にイクのもイカれるのも、これが初めてではない。それでもこんなに冷めた情事は経験したことがなかった。
 快楽は苦痛になり、体力も精神力も奪ってく。
「う、んぅ……ッ…」
 達した解放感などなく、ただ涙が溢れた。
「気持ちよかった…?」
 濡れてしまった手のひらをちらつかせながらラビは呟く。
 その声音から感情を読みとることはできなかった。
「これでちょっとは任務に集中できるさ? ユウ」
 着衣を整えたラビが、神田の腕に絡まった団服を解き自由を与える。それでも神田は、顔を横向けたまま動き出そうとしなかった。
 ラビは床に飛んだシャツのボタンを拾い上げ、動かない神田の胸元にぽとりと落とす。
「…戻るさ」
 呟いて背を向ける。
 見送らない神田を振り返る理由はなく、振り向かないラビの背中を見送ってやる理由もなかった。
 パタンとドアは閉ざされ、ふたりの間に壁を作る。
 力の入らないこぶしを精一杯握りしめ、神田は細く息を吐いた。
 長い、長い時間に感じられた意味のない行為に、深い後悔だけが募る。
「…っ」
 痛む身体をどうにか起こしたが、支えきれずに床に崩れ落ちた。
 どさり。
 胸元に落とされたボタンが膝の上に転がる。
 それを握りしめ溢れてくる嗚咽を抑えながら、身体を引きずった。
 男の残したものが追い出され腿を伝う。外気に晒され温度を奪われたそれは情事の跡をまざまざと浮き彫りにし、神田に口唇を噛ませた。
「ラビ……」
 口づけのひとつもしてくれなかった。
 本当に性欲の処理として使われた。
 重い身体を引きずって、ラビが閉ざした扉に手を触れる。
 涙が溢れた。
「ラビ…っ…」
 涙なんか要らないと思った。
 恥辱への悔しさなのか、触れたいと願う恋なのか。
 拒絶のように閉ざされた扉を、力任せに責め叩いた────。




「…つっ…」
 神田を置いて部屋を出てすぐ、ラビは脇腹を押さえた。
 痛む傷口。施された麻酔はとうに切れ、じわりと広がる痛みに、思わず顔をしかめた。
「傷……開いた、かな…」
 自業自得だ、とラビは笑う。
 そのまま扉にもたれ、長い息を吐く。
 これがいちばんいいんだ、と何度言い聞かせただろうか。
 触れたくて抱きしめたくて口づけをしたくて、離れようと必死にもがいた。
「ユウ…」
 何度抱いても手に入れた気がしなかった。
 何度好きだと囁いても、その度思い知らされた。
 自分も彼も、甘い時間を過ごすには生きている世界が無情すぎると。
 実らない想いなら、このまま壊れてしまえと。
 どうせいつか別れが来るなら、いっそ今の内にと。


 ドンッ…


 背をもたれたドアを強く叩く音がして、ラビは思わず身体を返した。
「ユウッ…」
 噴き出しそうな感情が、すんでのところでせき止まる。
 この扉を開けてはいけない。
 閉ざしたのは自分。
 それを責めるように拳を叩きつけたのは神田。
 閉ざしてしまった扉にそっと触れ、ラビはゆっくりと額を預けた。
 ダメなんだ、自分では。
 あの人の代わりにはなれないし、もう抱きしめてやる勇気さえないんだ。
 突き放させてくれ。
「ユウ…」
 あんな風に抱きたくなかった。本当なら柔らかなベッドの上で、快楽と愛情だけ与えてやりたかったのに。
「ごめんユウ…」
 小さく、呟く。


 これでオマエはオレを憎めるだろう?
 オレを好きだと錯覚するオマエを散々に犯して突き放した男な んて、すぐに忘れてしまう。
 どうか突き放させてくれ。
 もうこれ以上、オレを巻き込まないでくれ。


 心臓が撃ち抜かれたように悲鳴を上げる。
 自分の…人間の心臓が、こんなに潰れそうになるほど痛むものなのかと息を殺した。

「ユウ…」

 名を
 最後に一度
 呼んで


愛してるさ…


 吐き出す呼吸とともに紡ぐ囁き。
 言葉というにはあまりにも明確で、音と呼ぶには儚さすぎた。
 言ってラビは扉を離れ、仲間の所へ戻ろうと身体を翻す。
 これで二度目のさよならか。