言葉までの距離

2005/08/13



 さよならも、愛していますも、またどちらも言えなかった。
 ドアに背をもたれ、神田は天井を見上げる。
 こんな思いをするのなら、好きだなんて言わなければよかった。
 素直に受けて、さよならくらいあてつけに言ってやれば良かった。
 わかってはいるんだ。自分たちの関係では何も生み出さないし、何も護らない。
 快楽に溺れた自分がいかに浅ましいか。頭では理解しているつもりだった。
 …感情と身体がついていかない。
 どんなに罵られても、どれだけ蔑まれても、感情と身体が、ラビを追ってしまう。
 触れたい。
  触れてほしい
 抱きしめたい
  抱きしめてほしい
 キスをしたい
  キスをしてほしい
 全身全霊であの男を欲しいと願う。
「こんな…気持ちなのか…」
 吐く息と同じ音で、囁かれる言葉。
 神田は自分に付き従うゴーレムに呼びかけ、パタパタとはためくそれを指に止まらせた。
 呼び出した、相手は。
『────神田?』
 幸い任務に就いていなかった様子の、リナリー・リー。
『どうしたの? 大丈夫? 怪我してない?』
 予想通りの言葉の羅列に、神田は僅かに苦笑する。
 妹のようで、姉のようで。今彼女はとても好きな部類に入るだろうと言ったら、あの白髪の少年は一体どんな顔をするだろうか。
「リナリー」
 静かに名を呼ぶと、向こうからも【なに?】と静かな声が返ってくる。
「…ジュニアと、話した」
『うん』
 話した、と言っていいのだろうか。
 ただ一方的に想いを告げて、突き放されて、犯された、なんて。
「アイツに逢うまで、確信が持てなかった」
『…好きだ、って?』
 あぁ、と頷く。
 脱ぎ捨てられた団服のズボンを静かに眺めた。
 キスひとつさえしてくれなかった行為を思い出し、眉を寄せる。
 それでも。
「好き、…だな」
 それでも想う心が止まらない。
 言って、笑んだ。神田が自覚しているかどうかは、知れなかったが。
 良かった、と安堵した声が返ってくる。彼女はそう言ってくれるとどれだけか確信していたせいか、普段では考えられないくらい素直に受け入れられた。
リナリーなら、この遅すぎた気持ちを許してくれると思ったんだ。
「ただ…」
『ただ?』
 ひとりで貫くには不毛すぎて苦しい。
「以前のような関係には戻れない」
 ひとりで想い続けるには、不純すぎて辛い。
「任務から帰ると真っ先にキスをしに来るような、あんな関係には、もう」
 また熱を欲しがるのか、と嘲笑いながら首に腕を回していたあんな時間は。
 任務に就くのか、と痛む身体をベッドに転がして見送った、あんな時間は。
『神田…それでもこれからは違う時間が過ごせるわ』
 千夜の情の通わぬ無駄よりは、恋い慕う一夜を。
 わかっている、と神田は返す。
 この想いに気づいただけで、今は良しとしよう。
「オマエには、ちゃんと言っておこうと思ったんだ」
 聴いてくれた。叱ってくれた。気づかせてくれた。
 彼女がいなかったら、きっとこんな幸福な気持ちを知ることなく日々過ごしてきただろう。
 リナリー、と呼ぶ声に【うん?】と少女の喉が鳴る。
「ありがとう」
 心の底から思った。それを表せたかどうかはわからなかった。ただ嬉しそうに頷く声が返ってきたけれど。
 ゼロに戻っただけだ、と笑う。
 ここから出逢えばいい。ラビが自分を追っていたというのなら、今度は自分がラビを追えばいい。
『応援するね神田』
「────」
 一方的なさよならに負けないで、と力強い声。大丈夫だ、と涙を呑んだ。
「大丈夫だリナリー。…好きだから。オレは、…全力で」
 アイツを。
 泣き出す寸前の呼吸を恋するための呼吸にすり替えて、ラビを想う。
『きっと大丈夫よ。今の神田は以前のあなたより数倍素敵だもの』
 根拠などないはずなのに、自信に満ちたリナリーに思わず笑ってしまった。
「まぁ…アレだ。報告までに、だな」
 指に止まっていたゴーレムを払うように振った。揺れてパタタと飛んだゴーレムは、それでも主人の元に舞い戻る。
『…神田、照れてる?』
「てっ…照れてねェ! き、切るぞもう!」
 図星を指されて神田の頬が赤みを増した。
 くすくすと笑うリナリーの声。何が嬉しくてそんな風に笑うのだろう。彼女にはもう、絶対一生適わない。
『そういえば今回の件、科学班の皆が色々調べてるみたいね。厄介なの?』
 ああ少し、と神田は頷く。厄介な任務だと言わざるを得ない。
 AKUMAは蘇ってくるわ、怪我人はいるわ、…ラビはいるわ。
「少し長引くかも知れねェな。モヤシに何か伝言あるか?」
 訊いた神田に、リナリーは【ううん特にないわ】と首を振る。無事に帰ってきてくれればそれでいいと。
『神田も。みんな、ちゃんと帰ってきてね』
 怪我をしてもいいから死なないで顔を見せて、と彼女は笑った。
 今までを教団で過ごしてきて、何度仲間の死を看取っただろう。火葬に出られないこともあったし、命がなくなってしばらく経ってから訃報を聞いたり、亡骸が残らない仲間だっていたわけで。
「わかった。切るぞ」
 気をつけて、と最後に残る少女の声。神田は静かに通信を打ち切って息を吐いた。
 戻らなければ。この任務を早く終わらせて、またゆっくり話しをしたい。
 神田はゆっくりと腰を上げ、脱ぎ捨てられた黒衣を身にまとう。
 身体の痛みはそのうち消えるだろう。団服のボタンをきっちり留めて、扉を開けた。




 バタバタと廊下を走る音が、正面から聞こえてきた。何事だ、と神田は顔を上げる。
 目に入ったのは、アレン・ウォーカーだった。
「あっ、神田!」
 向こうも気づいて名を呼んできた。
「何かあったのか」
「コムイさんから通信があって」
 立ち止まったアレンを少し上の目線から見下ろして、コムイから?と神田は訊ねた。
「見落としていたらしい資料があったって」
「見落とした? どういうことだ」
「見落としていたというか…処理されていたというか」
 アレンはどう説明したものかと顎を押さえる。どっちなんだとイラついたような視線が、実際見下ろしていた。
「奇怪が消えていたそうです。この街で」
 落ちかけた陽が窓から入り込む。まだ沈みたくないと祈った太陽が、視界をオレンジに染め上げた。
「奇怪が消えた?」
「この街の外れに、誰も近寄れない家があったって、さっきコムイさんが」
 神田は疑問を感じて少し首を傾げた。
 誰も近寄れないというのはどういった状況なのだろうか。土地的に人が入り込めない造りだったのか、人為的に鉄線でも張り巡らされていたのだろうか。
「人が住んでいたらしいんですけどね。誰もその人を見たことがなくて」
「待て。誰も見たことがないのになぜ住んでいたなんて言えるんだ?」
 もっともらしい神田の疑問に、家の様子ですよとアレンは答える。
「空き家にしては綺麗だったし、夜にはちゃんと灯りがともったそうですから」
 だが、住んでいる人物を誰も見たことがなかったと言うのだ。
「いつからその家が建っていたのかもわからないし、何しろ近づこうとしてもどうしてか足が動かなかったと」
 そこまで聞いてわかる。近づけなかったのは土地的な造りの問題でも、人為的な工作でもないらしい。
「それで、教団側もさすがに動こうとしたんですけど」
「まさか、そこで奇怪が消えたのか」
 冗談混じりに呟いた声に、えぇとアレンは頷いてしまう。
「奇怪の家そのものが消えたなら、探索部隊派遣したんでしょうけど」
 消えたのは、【人が住んでいたらしい事実】。いつも点いていた灯りは消え、空き家のようになり、本当に人が住んでいたのかどうかも確かめられないまま、やがてその家には誰も近づかなくなってしまった。
「教団に寄せられた情報も【街の外れ】ってだけで特定ができなかったし、何しろ【近寄れなかった】から【近寄らなくなった】に変わってしまったことと、ちょうどその頃別のイノセンスが発見されたとかで」
 うやむやのままに処理されたということか、と神田は思う。
 だが今回のAKUMAの件とどういう繋がりがあるのだろう、と。
「問題はこの後です」
「この後?」
 この街でなにかあったのか、と神田は横目で窓の外を眺める。
「間もなく、失踪事件」
「失踪事件?」
「街の十数人が行方不明になった、と記録にはあったそうです」
 物騒になったものだ、と街で囁かれた。最初の数人までは。
 四人を超えたあたりから、気味が悪い、と出歩く住人は少なくなった。
 十人を超えたら、異常なまでに日中さえ出歩くものがいなくなった。
「それからしばらく経った頃ですかね、第二の奇怪」
「…それが、今回ジュニアが指令を受けた任務というわけか」
 アレンは無言で頷いた。
 街から緑がなくなった。引きこもっていた住人が、再び出歩くようになった。
 緑が消えた街で、住人たちは変わらず笑ってた。
「住人の失踪がAKUMAの仕業だとしてもだ。なぜ破壊したはずのAKUMAが蘇る?」
 だからそれを調べに行くんですよとアレンは軽く息を吐く。
「ねぇ神田。おかしいと思いませんか」
 そう言ってアレンも、窓の外に顔を向ける。白い髪が予告なしに揺れた。
「伯爵の力があったら、わざわざ蘇らせなくても、新しいダークマターを用意してそうなのに」
 それはそうだと神田は無言で同意する。
 そうだ。伯爵にしてみれば、ダークマターからAKUMAを生み出す ことなど容易いことだろう。それこそ捨てゴマ、掃いて捨てるほど物資があるのだから。
「…では蘇らせる他に」
「他に手がない」
 神田の後をアレンが続ける。視線が重なった。
 では、これは。
「それがAKUMAの能力か」
「恐らく。だけどそれでも謎が残りますね。そこまでの能力を持ち合わせているのであれば、戦闘能力がないわけじゃなさそうなのに」
 そうしなければならない理由があるのか。それともそれが伯爵の命令なのか。
「まずは奇怪のあった家を調べてみようかと」
 街の外れ、という情報を元にするしかないが、とアレンは続け、神田を追い越しかける。
「待て、他の二人はどうした」
 ブックマンと、その弟子は。
 単独の行動を規制されている教団で、この状況をひとりで動くわけにはいかない。
「すぐに行くと言ってましたよ」
 一応怪我人ですからね、と彼は言う。
 そうか、コムイからの通信時、自分はリナリーとの交信にゴーレムを使っていたから、本部から持ってきた、ラビかブックマンの臨時ゴーレムに通信が回ったのだろう。
「ではオレもすぐに行く」
 不覚にも自分のイノセンスを…六幻を置いてきてしまっている。
 正確には、持ち出す余裕もなくラビに腕を引かれたのだけれども。
「僕はここから北へ行きます。ラビか入った街の入り口が東の…この辺なので、この地点は候補から外れますね」
 持っていた地図を広げ指し示す。ラビはそこから街の中心に向かってAKUMAを討伐してきたはずだ。その地点に特に奇怪と思える場所はなかったと、ラビは言う。
「了解した。後を追う」
「はい」
 ふたりの身体がすれ違う。背中同士向き合って、神田はアレンを呼んだ。相も変わらずモヤシと。
 なんですか、とアレンは少しだけ顔を横向ける。
「迷うなよ、方向音痴」
 返ってきた言葉にふきだした。
 神田らしい、手向けだ、と思って。
「ハイ。…神田、ちゃんとみんなで帰りましょうね」
 笑って返したそれに、不敵な答え。
「当然だ」
 三歩進んでふたり、それが合図だったかのように、同時に走り出す。
 早く終わらせて、帰るんだ。
 みんなで一緒に、あのホームへ。