言葉までの距離

2005/08/13



 ツ、と針を刺される。痛い、という感覚はなかった。身体の奥の何かを刺激されたようで、ラビは僅かに肩を揺らした。
「あの状態で戦場に出るなど、自殺行為以外の何者でもないぞ、たわけ」
 ブックマンの罵倒も、今は耳が痛い。
「わーかってるさ。まだ死ぬつもりがないから、こーやって頭下げて治療頼んでんでしょーが」
 外したターバンをぎゅっと強く握りしめる。
 本当ならすぐにでも、先に出たアレンを追ってやりたいのに。
「いつ貴様がワシに頭を下げた。そんな姿はついぞ見たことがないな」
「えー、あるさ〜。耄碌したんじゃねーのジジィ」
 刺される針が増える。額に、こめかみに、鎖骨に、首に。
 ブックマンの針術は一流とされ、正直そのスジだけでも生計は立てていけるだろう。
 だが彼はブックマン───歴史を記録する者だ。
 そしてその目の前に座るのは、後継者である、十八の青年。
「阿呆が。耄碌しとるのは貴様の目だ」
「いってぇ!」
 刺された針にラビが文字通り飛び上がる。
「な、ちょ、今の絶対わざとツボじゃねェとこ刺したさ!?」
 曲がりなりにも自分はこの男の弟子だ、針術も少しばかりかじった。今感じた痛みが、この身体に有効なのかそうでないのかくらいはわかる。
「暴れるな、治療ができん」
 ラビは気づく。このパターンではこの後ゲンコツを食らわされるのが常。
 今の状態で無駄な痛みは被りたくない。大人しく座り直した。
 こんな風に言葉のない時間は、自分の意思に関係なく考えてしまうことがある。
「…なァ、ジジィ」
 珍しく静かに流した声に、ブックマンは何だと返す。
「いつまで保つかなァ、この左眼」



 何の話しをしているんだ、と、ドアノブに伸ばした手を思わず止めた。
 そんなに大きな声だった様には思えない。それでも男の声が耳についた。


 いつまで保つかなァ、この左眼。


 この声を聞き違うはずがない。
 いつも傍で聞いた声。声変わりを迎える前から知っている声。
 今、誰よりも欲している人の。

「さあな。そんなものワシが知るか。…小僧、見えるか?」
 扉を隔てて声が聞こえる。息が止まった。
「全然。光しか感じられんさ」
 心臓の音が、聞こえた。

 息をしているのかいないのかさえ、わからなかった。
 頭の中が真っ白で、部屋の中のふたりが、何をどうしているのかわからなかった。
 ただ聞こえたラビの声がとてもとても静かで、嘘や冗談ではないことだけが。
「そうか。ではこちらだな」
 ブックマンは針の位置を僅かに変える。
 神田は少し後ずさる。
 ラビは数回瞬いて、ゆっくりと目蓋を開けた。
「どうだ。見えぬか」
 ブックマンが訊ねるのと、神田が静かに身体を翻すのが、ほぼ同時。
「あー、…良さげ」
 ラビがそう言って笑ったのは、神田が走り出した一瞬後。
「────!?」
 その気配にラビが気づいたのが、やはりそれとほぼ同時。
「な…っ」
 慌てて立ち上がったラビの身体から、勢いに負けて針が落ちる。
「今、の…っ聞かれてっ…!?」
 青ざめて振り向くラビの身体に刺していた針を取り除き、ブックマンは軽く息を吐いた。
「聞かれとるだろうの。少し前からいたようだぞ、貴様の幼なじみ殿は」
「気づいてたんさ!?」
 なぜそれを言わない、とラビはブックマンを睨んだ。
 いちばん聞かれたくないひとだったのに。
 死ぬまで、彼には知られたくなかったのに。
「気づかぬ貴様が悪いのだ」
「……っ」
 言葉に詰まる。
 反論はできなかった。目にハンデがあった分、気を回さねばならなかったのに。
 ラビはそのまま身体を翻し部屋を飛び出した。
 廊下の先、曲がる背中を見つける。全力で追いかけた。
「ユウ!」
 名を呼んでも、彼は振り向いてくれなかった。
 それだけ酷なことをしたのだ、当然といえば当然か。
「ユウッ…ちょ、…待って!」
 駆け下りた階段、踊り場で捕まえた。左手首を掴んで力任せに振り向かせ、空いた片手で右手首を引き上げる。
 彼の長い髪が不用意に揺れた。
 間近で感じる体温に、思わず心臓が震える。
「……んで……ってこれる…」
 俯いた神田から、搾り出すような声。あやすように宥めるように、 ユウ、と名を呼んだ。
「なんで追ってこれる」
 カタカタと震えているのが、掴んだ腕から伝わってくる。力を強くしてやっても、それは止まらなかった。
「…えねぇんじゃねェのか」
「ユウ」
「見えねぇんじゃねェのかその左眼!!」
 ガバッと顔を上げて睨みつけてくる神田。泣き出しそうな目でラビの灰緑を突き刺す。
「ユウ」
 声を荒げる神田とは対照的に、静かに名を呼ぶラビ。堪えきれずに涙が溢れた。
「見えねぇんじゃ…ねェのかよッ…!」
 ラビは眉を寄せて笑う。
「ダイジョブ。見えるさ。今は」
 知られたくなかった。
 あなたにだけは知られたくなかった。
 あなたの前では、いつだって笑っていたかったのに。
「いつ、から、だ」
 つぅ…と頬を伝う涙。両腕を捕らわれているおかげで、伝う雫も拭えない。
 いつから左眼が悪くなっていたんだ、と神田は問う。
 変わりなかっただろう。そんな素振り、一度も見せなっただろう。
「ずっと前からさ」
 ユウに逢う、ずっと前から。
 そう続けたラビに、神田は目を瞠った。
 確かに、初めて逢ったときからこの男は独眼だった。黒の眼帯と赤の強いオレンジが印象的で、あの時手を差し出して笑った顔を、今でも忘れない。
「オレ、右眼をさ」
 ゆっくりと神田の腕を解放し、トン、と右眼の眼帯を指差した。その下に何があるのか、自分は問いかけたこともない。
「右眼を。…人にあげたんさ」
 にこり。
 笑ったラビに、神田は声をなくした。何でもないことのように口にしている彼の、こんな笑顔は見たことがない。
 いや、自分が、いったいどれだけこの男を知っているというのか。
 何を知っているというのだろう、自分は。
 声。欲情した瞳の色。抱きしめてくる腕の強さ。触れてくる指の動き。奥に放つ、熱。
「大切な人だったんさ。眼の一個や二個、別に惜しくなかった。もう…十年以上も前のハナシさ」
 右の眼を失った。傷ついた眼球に、光は戻らなかった。片眼に慣れるまで、何週間、何ヶ月を要しただろうか。
「でもやっぱ、片眼って負担がかかる」
 高い窓から入り込んだ陽の光が、ラビの髪を透かす。相変わらず綺麗な色をしていて、そんな風に思う自分に嫌気がさした。
 本当に時々なんだ、とラビは言う。
「時々、目が霞んだり、目の前が真っ暗になったりするんさ」
 ふ、と目を伏せて、ラビは初めて俯いた。
「そのたびにジジィに治療してもらってるけど……最近間隔が狭くなってきてる」
 限界が近いかも知れん、と握る拳が僅かに震えている。
 どれだけの感情を我慢してきているのだろう。十八というまだ年若いこの身体の中に、どれだけの感情を。
「ジュニア」
 情けない、と感じた。
 こんなに何も知らないで、八年も傍にいたなんて。
 片眼だけでも、相当な負担と不安があることだろう。それを両眼ともに光を感じない瞬間があるなんて。そんな状態で針術をかじり、 任務に赴き、AKUMAを討伐してきていたなんて。
「いつか何も見えなくなるさ」
 きっとそう遠い日じゃない、とラビは自嘲気味に笑う。
 考えられないことではなかった。必要以上に酷使したことで、負担は視力の低下を招き、やがては視力さえ奪ってしまう。
「ジュニア」
「きっとこんな近くにオマエがいても、この眼に映らん日が来るんさ」
 ジュニア、と再度呼ぶ。
 こんなに弱い人だったんだろうか。こんな感情を溜め込んでいる人だったんだろうか。
「だから…なのか」
 気づいてやれなかった。何も見てやれなかった。
 震える手を、ゆっくりとラビの頬に宛てる。カタカタと音が聞こえそうなほど震える両手は、なかなか照準が合わず、頼りなく揺れる髪に触れるだけだった。
 こんなに近くに、いるのに。
「だから、なのか…? オレを…突き放したのは」
 そうであってほしい。
「違うよ」
 どうかそうだと言ってくれ。
「ジュニア」
「…違う…」
 カタカタと歯が震える。嘆いてか、哀れに思ってか、雲が太陽を隠した。
「治す…治す方法はないのか」
 やっと頬に手が届く。
 変わりなく温かくて、あの時の冷めた行為が嘘のようで、また元に戻れるかと錯覚した。
「治す方法くらいあるだろう!」
 揺さぶって上げさせた瞳に、それでも自分を突き放す気でいるのか、開けていた目蓋を伏せて、顔を逸らした。
「ないさ」
 諦めた声なんか今まで聞いたことがない。こんなに弱々しくて小さな声なんて、一度も聞いたことがない。
「ジュニア」
 そんな風に俯かないでくれ。
 自信に満ちていたはずだろう。
 いつだって。いつだって、オマエの視線は上向いていたはずだ。
「いつか…ほんとに何も見えなくなる日が来るんさ」
 その日がとても恐ろしい、と神田の手を握りこむ。
 心の底からの弱音を、この時初めて耳にした。
「…オマエが怖ぇよ…ユウ……」
 手のひらの温もりに縋るように頬を摺り寄せるラビ。
 ダメだ。
「ジュニア…」
 あなたが愛しくてしょうがない。
「いい機会だと思ったんさ。離れるにも、忘れるにも」
「なぜだ、あの時とは違う…っ…オレはオマエを」
 握りこんだ神田の手のひらにそっと口づけるラビ。遮られたようで、神田は眉を寄せる。
「もう…やめよう」
 緩く折った指先にも降る口づけ。流れるようなそれが、神田の不安を煽った。
「オレはオマエを忘れるよ。オマエの声も、匂いも、体温も」
 ごめんと最後に。最後にひとつ、手の甲に口づけて。
 ラビの身体が離れかける。神田はかろうじて掴んだ団服に、精一杯縋った。
「オマエの気持ちはどうなるんだ!!」
 叫ぶ声に、ラビの瞳が曇る。追ってくる、愛しいひと。
 この手で抱きしめてやれたら、あなたはどれほど幸福そうな顔をするのでしょう。
「眼の見えない男になんか、すぐ飽きるさ、ユウ」
 だから錯覚のうちに突き放させて、とラビは苦笑う。ふるふると小刻みに首を振る神田を、僅かに高い視線から見下ろして、口唇を噛んだ。
「違う…オレはオマエを」
「頼むってユウ…ッ…残酷なことしないで…!」
 両肩を掴んでぐいと押しやられる。神田の髪がゆらりと揺れた。俯いたラビの髪が頬にかかって、視界が一気にオレンジに染まる。
「こんな近くにいて……ユウの顔…っ見られないんさ…!? ユウの 髪が伸びても…背が伸びても! いつか…見れなくなるんさ…!!」
 背筋があわ立った。冷水を浴びせられたかのように、一気に身体が冷える。考えてなかった。あまりに衝撃過ぎて、そこまで頭が回らなかった。
「ジュニ、ア」
 そうだ、目が見えなくなるということは。
 その灰緑の瞳に何も映らなくなるということで。
 こんなに近くにいても、その目に映ることがないんだ。
 もし本当に心の底から愛しているというのなら、そんな状況に耐えられるのか。
「ラビ…」
 神田は噴き出しそうな感情を殺して、声を絞り出した。
「ずっとそんなこと考えながら…傍にいたのか…?」
 破裂しそうな想いを、抱えたままで。
「どうしても、ダメなのか」
 神田の顔が、ラビの顔が曇る。
 いつ命を落とすか知れないこんな世界だからこそ、愛し合って生きていたいのに。
「傍にいるのも、想うことさえ拒絶するのか…?」
 見えなくなるのが怖い。
 自分が映らなくなるのが怖い。
 ラビはもう何も言ってくれなかった。目を塞ぎたくなるような現実を払うように首を振る。
「どう…どうしてだ……こんな、…こんなことならっ…嫌いだと…迷惑だと言われる方が数倍」
「────っ」
 マシだ、と神田が叫ぶが早いか、ラビは掴んだ両肩を思い切り引き寄せた。
「……っ」
 合わせた口唇は、一度音を立てて離れてく。
 息をしよう、と開いたそこに入り込んだのは、明確な意思を持った、熱い舌先。
「っ……ぅ」
 舌を合わせ、擦り、絡め、隙間なく埋めていく。入り込んだ角度が変わるたび、神田から甘い吐息が漏れる。ラビはその吐息さえを吸い込んで、震える身体を両脇から抱きこんだ。
「んっ…、……、う…」
 抱きしめる腕の強さは、今まで触れてきた中でいちばん力強く、仕掛けてくる口付けは、どんなものよりも幼く感情的だった。
「っん…は…ぁ、……ん」
 濡れた音が響く。
 名を呼ぶ余裕さえ与えられずに、感情のままに繰り返される口づけに、お互いが戸惑った。
「…ふっ…」
 口づけを嬉しいと感じるよりも、ただその行為に没頭することしか考えられなくて、力の入りそうのない神田の腕が、ラビの背中に回りかけたが、
「んんっ……!」
 折れそうになるほど抱きしめられて、もうこれ以上は無理だと思うほど奥の方まで入り込まれて、苦しさに彼の団服を握りこむだけだった。
 息を欲しがって、唾液が際限なく混ざり合って、もう立っていられないと喘ぐ。
「はぁっ…」
 濡れた口唇が離れてく。口の端を伝った雫を拭う余裕などなく、 神田の身体は背にした壁を頼った。
 はぁはぁと荒い息を繰り返す神田の両脇に腕を突いて、ラビは俯きながら顔を逸らす。
「ごめんユウ……これで勘弁して」
 今までの熱情が嘘だったとでも言いたげな風が、ふたりの間をすり抜けた。
 離れる身体はスロウ・モーション。
 伸ばした腕は、すんでのところで掴めずに落ちる。
 振り向かない背中を見送るのはこれで何度目だろうと考える。
「もうっ…」
 声が音として出ているのか、神田にはわからない。ただ振り向かずに階段を降りていくラビに、
「もう届かねェのかよてめェにはァ!!!」
 情けなくも浅ましくも、もう一度抱きしめてくれと願うだけで。
 本気で突き放す気があるなら、触れて欲しくなかった。
 もう目に映す気がないのなら、こんな姿見て欲しくなかった。
 崩れていきそうな身体を、ガンッと後ろの壁を叩きつけることでどうにか現状維持をする。
 残酷なことをするな。
 そうは言われても、この想いを打ち消すことなどできやしない。まだ想ってくれているのだとわかってしまえば、尚更だ。
 神田は口唇を噛んだ。
 いつ眼に異変が起こるか知れない、あんな危険な状態で戦場に行かせるわけにはいかない。
 それでなくたって、自分が受けた指令は彼の援護だというのに。
 神田は飲んだ息をいったん止め、意を決したようにキッと顔を上げた。
 追わなければ。
 そう思った左上から、ひゅ、と風を切る音。
 横顔を覆うような黒い影。思わず腕を伸ばした。
 手にしたのはイノセンス────六幻。
 見上げた視線の先、包帯をまとったブックマンが目に入る。
「忘れ物だ」
 手に馴染む黒。
「怪我の具合は」
 この男の怪我も軽くはない。戦場に出れる状態なのか、戦闘ができる状態なのか。
「発動する程度の気力は残っておる」
 自分の状態と力量くらいは把握している、と老人は笑った。
「アイツ…治る見込みはないのか」
 もうこの建物を出てしまったであろうラビの症状を確認する。どれほどの周期で闇が訪れるのか、本当に治す方法はないのか。
「現在の医療では難しいであろうの。特にあやつのは、酷使して時 間が経つ。回復もせんだろう」
「日常の中で、視力の低下を防ぐ方法は」
 方法はあるのかと訊ねる神田に、もちろんあるだろうと、ブックマンは階段を跳ね降りながら呟いた。
 先に問題の場所へ向かった時の破壊者と、後継者であるうつけ者を追わねばと神田を追い越す、
「……アイツの眼は…アイツは世界にとって必要か?」
 わかりきったことをあえて訊いたのは、確信が欲しかったからだ。 間違っていないと。背中を押してもらいたかったからだ。
「必要であろう。世界にも、ワシにも、おヌシにも」
 エクソシストとして、ブックマンの後継者として、予想外にも大事な人として。
「追ってやってもらえるか」
 振り返ったブックマンが神田を呼んでくる。神田は手にした六幻をぎゅ、と握り締め、
「無論だ」
 と身体を起こした────。