言葉までの距離

2005/08/13



 あれからどれくらいの時間が経ったのか、もう記録することさえ頭に無かった。
 ただ目の前に横たわる人の白い横顔を眺め、深く息を吐く。
「……」
 血の気の失せた顔を長く見るにはやりきれなくて、組んだ手に重く額を預けた。
 ふぅ、と吐く息が、広くはない部屋に響く。その音がやけに大きくて、この空間に生きているのが自分ひとりだと錯覚してしまう。
 ユウ、と息とともに吐く、音もなく降り積もる雪のようなラビの声が、彼の耳に届いているかどうか。
「ラビ?」
 遠慮がちなノックの後に顔を覗かせる、リナリー・リー。任務に就いたと聞いたが、すでに終えて戻ってきたのだろうか。
「まだここにいたのね。教団帰ってきてからずっとじゃない。少しは寝てるの?」
 呆れたような声音のリナリーを、ラビは振り返れなかった。少しでも眼を離しているのが不安だと言わんばかりに。
 そして否定しないラビに、少女は眉尻を下げる。眠っていないのだと。
 あの街で応急処置を施された神田を、腹の傷の塞がりきっていないラビが肩に担いで帰還したのを見たときは、顔面蒼白した。神田が治療を受けている間もずっと、部分麻酔だけでラビは治療を受け、 傍で…ずっと傍で見ていた。
 もちろんその間も神田は意識を取り戻さなかったし、傷も塞がらなかった。
 治療を終えて自室に移された神田の傍を離れず、ラビがこうして椅子に座り込んで何日経っただろうか。
「どう? 神田」
 お決まりのようになってしまった問いかけに、ラビもまた、決まったように首を横に振った。
 何日、こうして待っているのだろうか。
 神田が、気がつくのを。
「ラビ、少しは食べて。身体に悪いわ」
 サイドテーブルに、食堂から持ってきたプレートをことりと置く。 野菜をふんだんに使ったサンドウィッチだったが、手を伸ばす気にはなれなかった。
「…ありがとうさ、リナリー」
 少しだけ振り向いていつものように笑うラビが心に痛い。心からの笑顔ではないんだ。気遣う自分を逆に気遣って、彼は笑う。そんな優しさは時として残酷で、何の力もない自分を思い知らされる。
「早く…気がつくといいね、神田」
 そんな言葉しか出てこない自分に嫌気が差して俯いた。そんなリナリーにラビは、うん、と自嘲気味に頷く。
「ユウに言わなきゃならんことがあるんさ」
 ユウが起きた時、いちばん最初に傍にいなきゃ伝わらない、とラビは苦笑する。初めて見る顔だと思って、リナリーは少しだけ不安になった。
「ラビ、…神田は本当にあなたのことが好きなの」
 その気持ちだけは否定しないでやってほしい、とリナリーは呟く。 交信時、無線越しにさえひしひしと伝わってきたその想いを、どうか受けてやってほしい、と。
「触れたいって、キスをしたいって、神田言ってたの。感情が、少しだけ遅れてしまっただけなのよ」
 神田はありがとうと言ってくれた。もどかしくて叱りつけるだけしかできなかった自分に、ありがとうと言ってくれた。以前のような諦めではなく、本当に心からのものだと、あの時はとても嬉しかったのだ。
「幸せそうに、言ってたのよ」
 その幸福を、どうか踏みにじらないでほしい、とリナリーは心から願った。
 ふ、と笑う息が耳に入る。
「ラビ…?」
「ダイジョブさ、リナリー」
 ラビが初めて、しっかりとリナリーを振り返った。
「オレの心臓、昔っからこの人に一直線だもん」
 はにかんで綻ぶラビの顔。リナリーは目を瞠って、次いでため息をついた。
「やぁね。のろけ?」
「さぁ? どうだろ」
 お茶を濁すのは彼の得意技。良くも悪くも、それが処世術。
 だけどラビが笑ってくれた。気遣う笑顔じゃなくて、投げやりな笑顔でもなくて、優しい優しい、真綿のような。
「いいわ、許してあげる。その笑顔に免じて」
「サンキュウ女神さま。リナリーってほんとイイ女」
 軽い口が叩けるなら大丈夫だと、今さらだよとリナリーも笑った。 これから任務の報告に行ってくると、傍の置時計をチラリと見やる。 いくら自分に寛容な室長でも、そろそろ痺れを切らしてしまう頃だろう。
「じゃあラビ、ちゃんとご飯食べてね」
 残したらジェリーが怒鳴り込んでくるわよ、と釘を刺すことも忘れない彼女は、やはり賢明だと言うほかにない。
 わかったさ、と苦笑するラビのこめかみに、柔らかな口唇が当たる。
「神のご加護を」
 砂糖菓子のような甘い香りが広がった。アレンに知れたら殺されそうだと思いながら、素直に祝福を受ける。
 じゃあまたねと小柄な身体を翻すリナリーを笑って見送って、今度彼女に美味しい洋菓子でもご馳走しようと心で思う。
 ありがとう、助けてくれて。




 パタンと扉を閉めてさぁ兄の所へ報告に行こうと身体を返したリナリーが、わっと小さく声を上げた。
「アレンくん、ビックリさせないでよ」
 扉のすぐ傍の壁に背をもたれたアレンに、ただいまを言うより先に、飛び出そうになった心臓を落ち着ける。
「…なにか怒ってる?」
 膨れたような顔をしたアレンを、覗き込むリナリー。意図的に視線を逸らす彼を、珍しいと思った。
「……帰ってきて最初にやるのが、ラビと神田の様子窺いですか」
 小さく呟いたアレンに、リナリーは思わずも笑ってしまう。その気配を空気で感じ取ったのか、あからさまに不機嫌な顔をしたアレンが振り向いてきた。
「リナリー」
 諌めるような声音に素直に謝って、
「つまりヤキモチね?」
 否定をしないアレンに、再度微笑んだ。
 やっぱり可愛いなぁと。
「いちばん最初に逢いたいって思うの、僕だけじゃないですよね」
「そんなに卑屈にならないでよアレンくん。神田とラビが心配だったの」
 私だってできるだけ最初に逢いたいと付け加えて微笑む。その笑顔だけで、もう何も言えなくなってしまう。アレンは小さく息を吐いて、
「どうだったんですか? あの二人」
 一緒に司令室へと歩き出した。
 相変わらずだったわよ、と苦笑するリナリー。だけど、と続ける。
「神田が気がついたら、きっと今度こそ、皆で幸せになれるよ」
 根拠は何もなかっただろう。それでも嬉しそうな彼女の横顔に、自然アレンの顔も綻ぶ。笑う彼女の隣にいられて、心から幸せだと。 自分の周りの人たちに、笑って生きていて欲しい。
 そうだ、あの二人にも。
「あ、ごめんアレンくん。言い忘れてた」
 思い出したように立ち止まったリナリーを振り向いたアレンの口先に、ちょん、と小さなキス。
「ただいま」
 小鳥みたいなキスに笑って、彼女はアレンを追い越していく。しばし呆気に取られ、やがて浅い息とともに髪をかき上げた。
「適わないなぁ、ホント」
 そうしてリナリーの後を軽い足取りで追った。
 一緒に生きていきましょう、僕の女神さま。







 心臓の上に耳を当てた。
 こうして心音を確かめて、生きていることを確認するのは何度目だろう。遠く眺めるだけで生きていることを知るには、彼の横顔は白すぎて、不安だけが毎日襲ってきた。
「まだ傷塞がらねーのか、ユウ…」
 背中に受けた傷を塞ぐことに労力を費やして、覚醒にまで意識が回らないのか、とラビはベッドに横たわる神田を見下ろした。
 傷を負うごとに命をすり減らしながら、この人はそれをことごとく塞いできた。
 常人では考えられない治癒スピードだったが、それも近頃は速度が落ちてきている。
「……だから、イヤだったんさ…」
 神田がこの眼のことを知れば、戦闘中自分に気を遣ってしまうだろうと多少自惚れて、できれば墓まで持っていきたい秘密だったが、案の定だ。
 戦闘中に一時的にとは言え視力を失ってしまった自分を庇って、彼は酷い傷を負った。なんでもないような顔をして、目の前で倒れていった。
「錯覚してるうちに離れちまえば良かったのに」
 元から低い神田の体温が、更に下がっている気がしてならない。ブランケットから出た手をぎゅうと握りこんで、指を絡める。
「ホント……ばかやろうさ…」
 恋をして無理やりに身体を奪って、一人で舞い上がって、傷つけて、追ってきたその想いを否定して突き放して、
「ユウ…」
 それでも突き放しきれなくて口付けた。
 暖かかった口唇は、いつまた触れられるだろう。
「…ユウ…」
 早く目覚めてください眠り姫。
 伝えたいことがあるんだ。さよならと言ったこの口唇で、全力で伝えるから、どうか、早く。
 思った、その、時。


「………ラ……ビ…?」


 小さな声が聞こえた。
 時間が止まったのかと思った。それくらい、自分の身体が思うように動いてくれなかったんだ。
「…────ユウ!?」
 ガバッと顔を上げた先で、瞬かれて開く目蓋。長い睫毛は相変わらずで、その奥に隠れた蒼眼を必死に探し当てる。
「ユ…」
 ユウと呼んだつもりの声は、音になったかならないか。見下ろして手を伸ばす。包んだ頬には少しだけ赤みが差して、見た目よりずっと温かくて、この人が生きているのだと思い、知る。
「ユウ…」
 喉が詰まって、うまく音になっているのかわからない。
 神田の腕がゆっくりと動き出す。頬を包んだラビの手に触れて、言った。
「ラビ…少し、痩せたか…?」
 真下から見上げてくる瞳は力強くて、しっかりと意識を持っていた。本当に今まで意識不明だった人間のものだろうかと疑うくらいに。
「あれから何日経った」
 顎のラインを撫で離れていく指に名残を惜しみながら、神田は天井を仰ぐ。
 さぁどれくらいだろうと返ってきた言葉に、
「三日か四日くらいだと思うさ」
 なぜ意識があって生活していたであろうラビに、経過した時間がわからないのかと跳ね起きた。
「ユウまだ起きたらダメさ!」
 腕を掴んできた神田の腕を掴み返し、身体を押さえる。意識が戻ったとは言え、急激な運動は好ましくないはずだ。
「ずっと…オレについてたのか…?」
 困惑した声が吐き出されて、思わず苦笑する。それはそのまま肯定となってしまい、神田を俯かせた。
「ユウが気にすることないさ、オレが勝手についてたんだし」
 宥めるような口調にカッとなり、掴んだ腕をふざけるなと振り払う。
「突き放す気があるのかないのか、どちらかにしたらどうだ!!」
 眼を覚まして初めに傍にいて欲しかったその人が、言葉にもしていないのにそばにいてくれた。心が騒ぐ。何度も知らず突き放して、突き放されて、それでも傍にいたいと願う自分の心を、わかってくれているのか、それとも突き堕とすための新たな手段か。
「言っておくが、オレはオマエを諦めてやれん! 受け入れきるつもりがないならハッキリ言ってくれ!」
 白いシーツをぎゅっ…と握り締め、神田は怒鳴りつける。
 あの時言えなかった言葉だ。
 すまないがオマエを諦めてはやれないと。言い切る前に意識を手放して、気がついたときにはここにいたんだ。
 確かに目の見えなかった彼を庇って怪我を負ったが、それはあくまで結果であって。責任を感じられてしまう程のことではないと思った。もしこれが責任を感じての行動なら、なんと残酷なことをするのだろうか。
「ないさ。今は」
「────」
 目を伏せて静かに呟くラビに、心臓が痛んだ。受け入れる気はないのだと、至極簡潔に告げられて。
「突き放す気は、ないさ?」
「…え…?」
 息を止めて俯けた顔を、再び上げる。
 ごめん、と笑う顔が瞳に飛び込んだ。
「ごめん、ユウ」
 たくさんたくさん傷つけてしまった、と頭を下げる。ラビの綺麗な赤橙がゆらりと揺れて、目の前がそれ一色になった。
「…ラビ…?」
 何をしているんだと緩く肩を揺さぶる神田に、いいから聴いてと 正面から覗き込む。
 こんなふうに真剣な表情はあまり見かけたことがなく、息が止まった。ベッドの上に身体を起こしたまま、僅かに高いラビの視線を見返す。朝霞みのように、澄んで綺麗な灰緑だと、初めて気がついた。


「ユウが、好きなんさ」


 短い告白が脳に届いて、動かずにうずくまる。それを言葉として認識するのに、数秒かかった。長い睫毛を何回か瞬かせて、ゆっくりと口を開く。
「……っ…」
 言葉も声も出てこなくて、それでも何かを言おうとして口唇を動かしたけれど、どうしても言葉が浮かんでこない。やがて諦めて、重なった視線をわざと逸らした。
「責任、の、つもり…かっ…」
 傷はもう塞がっただろう。背中に負った傷なんか、眠っていたこの数日で痕さえも消えたというのに。
「ユウ」
「腹の底では笑ってやがんだろう!? 何年も…何年も傍にいたのに…っ…今さら気づくバカヤロウだって…!」
 感情が溢れ出す。ただの暇つぶしだと思っていた時も、自分から欲しがっていた時も、浅ましさに吐き気すらした時期も、根本は何も変わらなかったのに。
「オマエの眼のことだって、少しも気づかな…っ…!」
 我慢しきれずに、涙が溢れた。耳に流れ込んでくる、ラビの静かな声。
「気づいて欲しくなかったんさ」
 流れる雫をこの男には見られたくなくて俯いていく神田の髪をかき上げ、頬を晒させる。
「見んなっ……」
「ユウはきっと、オレに気を遣っちまうって解かってたから、知られたくなかったさ」
 でも、と髪に指を梳き入れながら、苦しそうに息を吐いた。
 呼吸をしてしまったら身体が壊れてしまうとでもいうように。
「この眼を失くすより、ユウの命を失くす事の方が、正直耐えられん」
 指に絡ませた黒髪にそっと口付け、震える手を抑えようと眉を寄せた。
「ユウがオレの目の前で倒れたとき、心臓潰れるかと思ったんさ…」
 あんな思いは二度としたくない、と髪を握る力を強め。
 気持ちを曖昧にしたままで永久の別れを迎えるなんて、そんなバカげたことはしたくない。
「ユウの目が覚めるまで気が気じゃなかった。眼が見えなくてもなんでもいいから、ちゃんと好きって言えば良かったって……ガラにもなく後悔したんさ」
 ただあなたを心から大事に思った。心から大切にしたいと思った。
 腕の一本や二本なくなっても、この眼から光が消えても、告げる力は持っている。人間に恋したイノセンスや、伯爵に恋をしたAKUMAのように、どうあっても結ばれない種族同志でもない。
 人として生きていて、こんなにも近くにいるんだ。
「ユウが大好き…」
 最後にごめんと呟かれる。その三文字は、何度も何度も聴いてきた。
 ごめん、さようなら。
 ごめん、もう触れない。
 ごめん、受け入れられない。
「ラビ…」
 どれとも違った。
 本来冷たいはずの謝罪の音が温かく聞こえて、神田の心を解かしていく。
「……いいのか」
 言い直しは利かないぞと言い含め、顔を上向ける。
 受け入れるというのなら遠慮はしない。触れる事だってキスだって、その先にある熱だって、貪欲に求めてしまうだろう。きっと今まで以上にだ。
 後戻りはできないのだと確かめるように呟いた。
「────うん」
 それでも、優しい視線でまっすぐ見返してくれる。
 髪に絡んだ指が離れ、繋ぎ止める糸がなくなった神田の身体が、ふっと後ろに向かって倒れ込む。
「ユウっ!?」
 とっさに腕を伸ばし、今度はしっかりと抱きとめた。力なく腕に乗せられた手に不安を感じ、ユウと名を呼ぶ。長い息の後に、
「…力、…抜けた」
 そう返ってきた言葉に安堵し、ホ、と息を吐いた。
「ビックリさせんな…」
 身体を起こさせ、倒れないようにと自分もベッドに腰を掛け支え、 頬にかかった髪を払ってやる。その手が離れる前に絡め取り、体温を確かめて、確かめさせる。
「…すまなかった、ラビ」
 やっと同等の位置になった目線を傾げて、ん?とラビは鼻を鳴らす。
「オレが、自分の気持ちとオマエの気持ちに、ちゃんと気づいていれば良かったのに」
 そうすれば、こんな風になることもなかったのにと目を伏せる。 出逢って、身体だけ繋げて、別れを告げられて。今までの出来事がまざまざと思い起こされる。
「違うよユウ。オレが、ちゃんと気持ちを伝えてからオマエを抱けば良かったンさ」
 きゅ、と指を絡め返して笑うラビに、神田はふるふると首を横に振った。自分の方こそが悪いのだと言う彼の髪を撫で、落ち着かせ、 流れた涙を指ですくう。
「もう止そう。オレもオマエも、謝り出したらお互いキリがないさ」
 優しい音を聞く。こんな声は自分が覚えている限り初めてで、心臓が高鳴った。
「オレはユウが好きで、…ユウも、オレを好きでいてくれてるんでしょ?」
 好きだ、なんて。そんな言葉では表せない、と声が出てこずに、縦に振る首で答え、よかった、と笑うラビに安堵する。その笑顔が何よりも愛しいと。
「ユウ、これからいろんなことを話そう。自分のことも、教団のことや、オレらのこと、たくさん話そう」
 あぁ、とようやく声を出し、力の抜けた腕を彼の首に回して引き寄せる。ラビもゆっくりと背中に腕を回して応え、神田の細い身体を抱きしめた。
 温かいと呟いて、互いの肩に顔をうずめる。嗅ぎなれた匂いが鼻をくすぐり、僅かに残っていた身体の緊張をほぐしていく。
「ユウ、ひとつ約束してくれるさ?」
 抱きしめあったまま耳元で囁いた。
「オレのために、命捨てないで」
 顔を上げないまま耳を傾けていた神田の身体がびくりと強張った。それを更に強く抱きしめラビは。
「ユウにはまだ、やらなきゃいけないことがたくさんあるさ。オレを庇って死ぬなんて、そんなバカなことしないで?」
 生きて傍にいてくれと肩で泣く。ややあって神田がこくりと頷いた。ありがとうとラビが呟いた後に、躊躇いがちに口を開く。
「オマエも…」
「ん?」
「オマエも、その眼を治すことを考えてくれ」
 抱きしめる腕の力を強め、頬を摺り寄せる。体温を確かめたくて、 確かめて欲しくて、自分の身体を押し付けた。
 ラビがわかった、と頷いてくれた時は、本当に嬉しくて、安心した。今の医療では難しいだろうとブックマンは言ったが、それでも 何かできることはあるはずだ。
 届く距離にいるから、支えて欲しいときは手を伸ばせと。
「ずいぶん遠回りしたさ、オレら」
「…いっそ馬鹿馬鹿しいな」
 抱き合って言う言葉ではないと解かっていて、ふたりは微かに笑いをもらす。
「ユウ、何か食える? 結構長いこと眠ってたから、何か腹に入れた方がいいさ」
 背中をポンポンと宥め叩き、ゆっくりと身体を離す。
「オレもさすがに腹減ったさ。リナリーがサンドウィッチ持って来てくれたけど、足りないさね」
 ジェリーちゃんに頼んで何か作ってもらうと、ベッドから腰を上げた。
「ユウ、何か欲しいものある?」
 にこりと崩れるラビの笑い顔。その顔がとても好きで、甘えてしまいたくなる辺り、何か色々なことが手遅れに思えた。
「……蕎麦、…と」
「天ぷら乗ってるヤツにしてもらうさ。…と?」
 神田が蕎麦と言うだろうことは、好物であることから容易に知れる。相変わらずだなあと内心で思いながら、珍しく他に欲しいものがあるらしく、言葉を続ける彼に先を促した。


「…キスをしてくれ」


 照れくさそうな音に、目を瞠る。そういえば意識を取り戻してから一度も口唇に触れていない。触れて欲しいとわざわざ口に出してくる彼が、愛しくて、愛しくてしょうがない。
 こんなに長く一緒にいて、神田がこんな風に、その行為を大切そうにねだってくるのは初めてだった。
「…じゃあ、愛してるって言ってくれるさ?」
「────…はァ!?」
 思わず口を出た言葉に、神田が身を引いてしまう。
 そうだ。意識を取り戻してから、口づけを交わしていないのと同時に、神田からの告白をもらっていない。それをもらいたいと願うくらい、バチは当たらないだろう。
「言ってくれなきゃしてやんないさ」
 ギシリとベッドに腰を掛け、神田の顔を覗き込む。視線をわざとずらし、泳ぐ目が珍しい。
 さて彼はどっちを取ってくれるだろう。一時の羞恥か与えられない口づけか。
「オ…」
「…オ?」
 俯いた彼から吐き出される小さな声を繰り返す。数瞬の沈黙を経て、
「オマエも言ってくれるなら…」
 ぼそりと呟く神田に、心臓が締め付けられた。
 こんなに可愛いひとだったんだ。初めて気がついた。
 シーツをぎゅうと握り締めた手の甲に、自分の手を重ね、耳元に深く、深く囁く。
「…愛してるさ、ユウ」
 びくりと震えて顔を上げた神田の正面から、再び囁いてやる。自分に出来得る、飛びっきりの甘い声で。
「ユウ。愛してる」
 目を細めて聴き入る神田が、愛しくてしょうがない。少し口唇を開いてうっとりと、熱視線を注がれて苦笑した。
「ユウ」
 こつんと額を当て、彼からの告白をそっと促す。自分の方こそ、あなたに口づけをしたくてしょうがないんだ。
「ラビ…」
 口唇が近づいていく。引き合う力はふたり同じで、目を閉じるこ とさえ勿体ないと感じられた。
 小さく息を吸って、神田が愛おしそうに口唇を動かす。
「ラビ、オレは……オマエを…────」
 待ちわびた、その言葉まであと少し────。