Life

2006/05/03



 パタタ、と駆けてくる足音が聞こえた。神田はそれを耳にして、少しだけ息を吐く。
「カンダー、遊ぼー」  
 何を馬鹿な、と小さな少女を見下ろす。室長の妹である、リナリー・リーだ。兄に似て美しい黒髪をしている。
「リナリー、オレは今任務から帰ってきたばかりなんだ。勘弁してくれ」
「いーやー」
 どこから帰還を聞きつけてきたのだろうか。自分はあまり年下の子供に接するのが得意ではない。ジュニアが…親友がいた昔でさえ、この二つ年下の少女の相手は面倒だったのに。
「ほら、どけ。報告にいかなきゃならん」
「いーやーよ! カンダまたどっか行っちゃうもの!」
 イノセンスの修行に出たときに、この少女は大泣きして、その落胆ぶりはものすごかったと聴いている。まぁ、歳の近いエクソシストがふたりも同時にいなくなってしまったのだから、幼い少女には酷なことだったろう。
「リナリー」
 修行から三年で戻ってきたものの、ジュニアが帰還する気配はなく、必然的にリナリーの関心はこちらに向いてしまう。
 まとわりつく少女をどうにか避けながら、司令室へと足を向けた。懲りもせず、少女は神田の後をついて回ったが。
「コムイ、帰還した」
 相変わらず散らかった司令室は、もう足の踏み場をどうしようかとさえ思わなくなった。考えても、片付けても無駄だからだ。
「おかえり神田くん。お疲れサマ」
「アンタの妹をどうにかしてくれ。毎回毎回、帰還の度にまとわりつかれたんじゃ、こっちの神経がどうにかしてしまう」
 神田の影からひょこりと顔を出したリナリーに、コムイの顔が綻ぶ。この男が妹を大切にしているのはわかったし、妹の方も然り、だ。
「いいじゃない。可愛い女の子に追っかけられるんだから」
「冗談言うな。とりあえず任務報告」
 指令通り確認に行ったがやはりイノセンスではなかったこと、アクマを十五体ほど破壊してきたことをつらつらと並べ立て、リナリーを抱き上げるコムイに背を向ける。
「あ、神田くん。身体の方は、何ともない?」
「………アンタに心配されるようなことはない」
 振り返った横顔で応えて、何も変わりないことを告げる。
 コムイが何のことを言っているかくらいはわかる。この左胸の梵字のことだ。共犯者たちの視線が、鋭く交錯する。
「…そう。ならいい」
 そのまま司令室を出ようとして、途中足を止めた。
「ねぇ兄さん、ジュニアはいつ帰ってくるのー?」
 リナリーの無邪気すぎる質問に、コムイが息を止めたのがここからでも解かった。自分の存在がなかったら、あそこまで動揺することはないだろうと思ってみても、聞き耳を立ててしまうのは仕方のないことだった。
「うん、どうかな。もうすぐ帰ってくると思うよ」
「ウソ。兄さん去年もそう言ったわ。もう五年も待ってるのに私」
 五年、という言葉に、神田は目を伏せる。
 もうそんなに経ってしまったのかと。
「五年か……もうそんなに経つのかな。あのねリナリー、ジュニアはとても大切なお仕事で、いつ戻ってこれるか解からないんだよ。兄さんにもね」
 妹を宥める室長を横目だけで見やって、神田は司令室を後にする。  自分がティエドール元帥の下に修行に出向いたのは五年前。
 ジュニアとブックマンが修行の旅に出てから、もう五年。
 その間には自分も修行を終え、任務にも出向き、アクマもどれだけか破壊してきた。
 失敗もしたし、死にかけたこともあった。
 まだ死ねない、と思ったのは、見つけ出したい人がいたのと、もう一度親友に逢いたかったからで。
 別れたあの時、逢いたい人がふたりに増えた。
 だが、自分たちの繋がりが深ければ深いほど、教団の大人たち……コムイやブックマンは気が気ではなくなるのだろう。
 ブックマンは中立の立場────あの時確かにジュニアはそう言った。
 あの時はそれがどういうことなのか、いまいち理解していなかったに違いない。
 だから、あんな約束ができたんだと。
 ブックマンは中立の立場である。すなわち、誰の敵にも、また味方にもなれないのだ。
 だから手紙なんか出そうとは思わなかったし、第一、各地を転々とし続ける人間に、どう宛てればいいかさえわからない。
 任務を与えられたときに無線ゴーレムをもらったけれど、向こうがゴーレムを持っているかもわからなかったし、遠く離れていては通信が困難だと聞かされた。どこにいるかもわからない相手に通信を試みても、無駄だということはすでに解かっていた。
「……戻って…来れねぇだろうな…」
 戻って来るな、とも思ってしまう。
 自分たちは繋がりを深くするべきではないのだ。
 三年で教団に戻って、それでも一年目は待っていた。二年目はもう、諦めた。十六ともなってしまえば、もう小さかった頃のように、純粋だけでは思っていられない。
 ふぅ、と息を吐いて顔を上げると、何かの花の匂いが風に乗ってやってくる。花など気にしたことは、ジュニアがいた頃だけだったな、などと思い出してみる。
 そうか、今は花の季節か、と思って石柱の間から見える外に、視線を向け。
「……────」
 ぽつぽつと咲き誇る花を、しゃがみこんで覗き込む背中を、見つけた。  間違うものか。見間違うものか。あの後姿。
 神田はちゃきりと六幻を鞘から引き抜く。さてどうしてくれよう。ここからは、スピードが勝負だ。どこで気づかれるか解からない。それでもここからなら、さほど時間をかけずに斬りかかれるだろう。
 息を潜めて身構える。握る手が震えたけれど、食いしばる歯でどうにか抑えた。
 ────ダッ!
 靴の裏で床を蹴って、一気に勢いをつける。振りかぶって下ろした剣は、ガキィンと弾き返された。
「チッ……」
 渾身の力を込めたつもりではあったが、やはりどこかで加減してしまったのだろうか。
 再度斬りかかる剣筋は、他の者が見ればそれは鋭いものだった。神田は今度こそ加減をしていない。だがそれも、斬りつけた相手には受け止められてしまった。
 組み合った剣と槌の持ち手がカタカタと震える。拮抗した力が、どちらにも引かせない。
 振り払ってそれを崩したのは、神田の方。
 短く息を吐いたら、相手が口の端を上げて呟いた。
「腕、上げたんじゃねーの。ユウ」
 昔は親友と呼べた男、ジュニア。
「てめェこそ」
 乱れた髪をかき上げて、フンと鼻を鳴らす。六幻を握る手が、僅かに震えた気がした。
 ジュニアはイノセンスの発動を解きストンとホルダーに戻す。手を伸ばせば届くそこに、懐かしい──友の姿。
「でもいきなり斬りかかってくるなんて、酷いさ?」
「これくらいも受け止めらんねーようなら、さっさと死んじまえ」
 五年ぶり、だった。
 別れたあの日とはお互い変わってしまっている。まるで別人のようであったが、それでもその髪の色は変わっていない。
「ハハハ、言うことは相変わらずさ」
「こちらの台詞だ」
 お互い不自然なくらいに必死で言葉を探して、その場の空気を繋げようとしているのが、伝わってくる。
「……ユウ、背が高くなった」
「……オマエも」
「髪が、伸びたさ?」
「見ればわかんだろ」
 手を伸ばせば届く、そこにいるというのに、なぜだかとても遠く感じられる。
「ユウ、あの、ごめんね。何度もさ、手紙出そうとしたんさ?」
 ジジィに見つかって出せなかったけれど、と苦笑する。そんな歪んだ笑顔を見るのは、出逢って初めてかもしれない。
「……戻ってくんなら、連絡くらいしろよ。コムイや…リナリーが心配してたぜ」
 こんな風に視線を逸らす彼を見たのは、初めてかもしれない。
 髪が伸びた。背が高くなった。肩幅が広くなった。声が…低くなった。
 別れた時とは別人の様で、どう接していいかわからずに戸惑う。
「ゴーレム。…ゴーレム壊れてたんさ」
 いつからだろう、とジュニアは思う。
「帰還の手紙も、ダメだって言われたし、オレ」
「……? それも、ブックマンの性というヤツか?」
「うん、ま、そんなとこ」
 この胸にくすぶる感情が、友情でないと気づいたのは。
 気のせいだと思おうとした。急に離れてしまって、寂しがっているだけなんだと。
「でも、ユウが元気そうで良かった」
 思えば思うほど、理性だけが取り残されていきそうで、諦めることを覚え始めた。
「もう、任務出てるんさ?」
 自分は、この人を愛しているのだと。
「……ジュニア? 何かあったのか、オマエ。おかしい」
 不審がった神田がす、と手を伸ばす。目にかかった前髪を払う指が、やけに冷たくてジュニアの心臓が跳ねる。
「おかしい? そうかな、昔と変わらないさ」
 気づかれてはいけない。もうこれ以上、何かに気づいてはいけないんだ。こんな感情を持っていることを知られてしまったら、せっかく誓い合った約束が、消えてなくなってしまう。
 無理にでも、笑え。
「………言いたくないなら、いい」
 何かに変化があったことは、やっぱり気づかれてしまう。ほんの少ししか、一緒にはいなかったのにと心で苦笑った。
 そうだ、離れていた間に比べたら、なんと僅かの間だったのだろう。
「ユウ、オレ約束忘れてないさ」
 踵を返した神田に、精一杯の笑顔で返したら、再会して初めて、神田の口の端にも笑みが零れた。苦笑にも似たそれだったが、そこでやっと安心して、置いていた荷物を担ぐ。
「なんでそんな大荷物なんだよ。転々とすんなら、最小限に抑えたらどうだ」
 ジュニアの手には教団のトランクと、リュックが二つ。長い旅をするにしては、少々大荷物。
「ん? あ、コレお土産〜。っつっても、経費で落としたけどね〜」  
 カラカラと笑うジュニアに呆れ返りながらも、ジュニアの持っていたリュックをひとつ、取り上げた。
「コムイんとこ、行くんだろ?」
 ひとつくらい持つ、と息を吐く神田に、礼を告げる。
 と。
「あぁ────!! ジュニア────っ!!」
「!?」
 天空から降ってきた声に、ふたり驚いて見上げる。
 要塞のような建物を見上げると、なんだなんだと顔を出す団員たちも、ちらり、ほらり。
「ジュニア、帰ってきたの!?」
 待ってて、今そこに行くから、と窓から身を乗り出すのは、美しい黒髪の少女。
「うわっ、リ、リナリー!? ちょ、待てあぶな…っ!!」
 リナリーが身を乗り出しているのは地階から五階。まさかと思ったコムイたちが止めるのも間に合わず、風が少女をさらってく。
「バッ……!!」
 落下地点は予測ができる。ジュニアも神田も、荷物を放り出して走っていた。
 ドサ────ッ
 鈍い音と、土煙が舞う。
 衝撃に負けてうつ伏せたふたりの腕の上に、小柄な少女。なんということだろう、少女に傷はひとつもない。ただ、上階ではコムイが卒倒していたとか、なんとか。
「コラァッ、何してるこのお転婆っ!」
「えへへ」
 むくりと起き上がったジュニアはリナリーを抱き起こし、無事であることを確認する。
「……コムイが卒倒してそうだな…」
 ぱたぱたと衣服の土を払い、神田はリナリーの飛び降りた窓の部分を見上げる。
「ごめんなさい、カンダ、ジュニア。でも早く捕まえないと、二人ともどこか行っちゃうんだもの」
 ああそうか、とジュニアは悟る。自分と神田が修行に出てから、彼女は一人だったんだと。
 自分たちがここを出たとき、彼女はまだ九歳だったはず。幼い心で、どれだけを我慢してきたのだろうと思うと、多少のワガママなど見逃してやりたくもなる。
「でも、お帰りなさいしたんでしょ? ジュニア」
 もうどこも行かないよね?と言い募るリナリーに、ジュニアは笑って頭をなでてやるしかなかった。
「わーい」
 ぎゅっと抱きついて首に腕を回す。驚きもせずぽんぽんと背中を撫で叩くジュニアを、さすがに手慣れたものだと神田は思って見下ろした。
「ほら、リナリー。コムイが心配してるぜ。ちゃんと無事なとこ、見せてやれ」
 耳を澄ますと、上の方からリナリー、リナリーと叫ぶ声が聞こえる。彼女はくすくすと笑って、立ち上がった。
「ジュニア、私も荷物持つ」
「いやいや、オンナノコにそんなことさせられんさ。重いし」
 大丈夫、もう子供じゃないもん、とどこまで本気かわからない。ジュニアは笑って、じゃあこれを頼もうかな、といちばん軽いトランクをリナリーに渡した。
「しっかし……女のコってちょっと見ないうちに変わっちゃうもんさね〜」
 スキップでもしそうなリナリーの後をついて、司令室に向かう。途中呟いたジュニアに、
「五年も経てば、人は変わる」
 神田が返した。伏目がちな横顔に、思わず見入ってしまう。
「ここも、少し変わった。食堂の料理長は変わったし、リーバーが科学班の班長になった」
「へぇ! じゃあリーバーにおめでとう言って、メシ食いに行こ、ユウ」
 ユウは随分と大人っぽく、綺麗になった、とはさすがに言えず、ジュニアは当たり障りのない話題に持っていく。
 あぁそうだな、と神田が返してくれた時には、飛び上がるほど嬉しかったんだ。







「ジュニア、お帰り。ちょうどね、キミの噂をしていたところなんだよ。ブックマンは、まだ出先かな?」
 飛び降りたリナリーを抱きしめ、一通りの叱咤と抱擁を済ませたコムイが、ジュニアに向き直る。
「うん、コムイ。なんか、いい治療術が見つかったとか言って。オレ、まだ鍼術のことはわからんさ〜」
 コーヒーはブラックで飲めるようになった、と差し出された砂糖を押しやる。そうだ、ブラックのコーヒーだって飲めるし、煙草だって吸える。年頃の男のコらしいことだって、…まぁ、一応は。
「イノセンスの方はどうかな。だいぶ使えてる?」
「それは心配いらんさ〜。ジジィに叩き込まれたもん」
 それは良かった、とコムイが笑う。イノセンスを扱える人間は、どれだけでも多いほうがいい。たとえ、中立の立場を貫かねばならない存在だとしても、だ。
「今日は疲れてるだろうから、ゆっくり休んで。明日辺りから、シンクロ率とか測りたいんだけど、平気かな」
「ん、オッケ。とりあえずメシ食ってくるさ。行こうユウ。リナリーも」
 名を呼ばれたことに嬉々として、リナリーはコムイの腕を離れ駆けていく。少々寂しい気はしたが、近すぎたふたりを留める役にでもなればいい、とせめて願う。そうでなければ、あまりにも残酷だ。
「あ、神田くん、今日の任務、後で書類提出してね」
「……了解した」
 三人が、司令室を後にする。コムイはどさりと椅子に腰を下ろし、少しだけ乱れた髪をかき上げる。
「神田くんは……あんな表情をする子だったっけ…」
 昔はそれでも、今よりはよく笑う少年だったように思う。それを奪ってしまったのは、他ならぬ自分だろうと思うと、出逢った運命を恨みたくもなってきた。
「神よ……」
 この仕打ちは、あなた以外にできはしない。





「別に大した任務はしてねぇよ」
 食堂で待っていたのは、歓迎の歓声と、おいしそうな料理の匂い。歓迎されているジュニアの後ろで、穏やかに笑んだ神田を珍しがって、独りの団員が声を上げた。
 途端眉を寄せ、騒ぎ立てる団員たちを睨みつけて彼らを慄かせる。それに気づいたジュニアは、ちょっといない間に、敵を作ってるんだなぁとしみじみ思う。昔から交流がヘタな人間だとは思っていたけど、自分がいた頃はそれでもまだマシな方だったのかと。
「え、でももう結構な数こなしてんでしょ?」
 おいしい、と神田が絶賛しただけのことはある、新しい料理長のランチを口に運び、神田がどんな任務をやり遂げてきたのかと訊いてみる。
「…近場ばっかりな」
 おかげで大した情報は入ってこない、と息を吐く神田。
 そうか、そうだった。神田は大切な人を捜しているんだった。少しばかり、名も知らないその人に嫉妬してしまう。
「あのねジュニア、兄さんたら、危険だからって私を任務に出してくれないのよ?」
 ぷぅ、と隣のリナリーが膨れる。そういえばコムイは妹を溺愛していたっけか、と思い出す。こんなに可愛くなってしまっては、溺愛ぶりにも磨きがかかったんだろうなと変に納得した。
「まだ早ぇよ、オマエには」
 神田が口を挟む。あれ?と思った。リナリーに対しては、棘がないんだなと感じられて、コチラの方こそ棘が生えてくる。
「そ、そんなことないよ。私だってシンクロ率上げたもの。カンダにだって負けないわ」
「ハッ」
「…………ねぇ?」
 当然、やっぱり面白くはない。自分がここを離れていた間、ふたりは一緒に過ごしてきたのかもしれないし、もしかしたら。
「ふたり、付き合ってんの?」
 口にくわえていたフォークを解放し、ジュニアは首を傾げてみせる。できるだけ、自然に。年頃の男女だ、そうなってもおかしくはない。神田にとって自分はどうやったってそういう対象にはならないだろうし、もしかしたらこれで諦められる。
「……本気でそれ、言ってんのかよ」
 神田の箸が止まる。リナリーが目を丸くする。
「やーだジュニアってば。そんなこと、あるわけないじゃない」
 くすくすと笑うリナリーとは対照的に、神田の眉間には皺が増えた。
「あ、ユウ?」
 食べ終わった、と食器を持ち上げて、神田は席を離れてしまう。リナリーが一緒では、残して追うわけにもいかず、ただその背を見送るだけとなってしまった。
「ヘンなの。どうしたんだろうね」
「ねぇ? ……どうしたんだろね」
 離れていた五年の間。月日は人を変えてしまう。変わったはずだ、彼だって。自分も、変わった。神田に対して抱いていた、感情さえも変わってしまった。
 届かないと、知っているのに。





 次の日からは、言われた通りシンクロ率を測られた。……だけでは当然済まず、体力の測定・脳波の測定、えとせとら。子供の頃にやられた、定期検査そのものだ。
「じゃあ次は…」
「うへぇ、まだあんのかよコムイ〜、ちょっと休ませてー」
 さすがにこう立て続けでは疲れも出てくる。
 コムイだって鬼ではない。じゃあちょっと休憩入れようかと切り出すと、ジュニアは大袈裟に息を吐き出した。
「シンクロ率は昔より上がっているね」
 書き出した数値をざっと眺め、コムイはコーヒーを差し出す。礼を言って受け取り、苦みの強いそれをくいと飲み干した。
「なあコムイ。いつから任務出してくれんの?」
 近くのソファにどさりと腰かけ見上げると、コムイはジュニアに一瞥だけくれて資料に目を戻す。まだ出せないよ、と。
「えぇー!? そんなんひでぇさー!」
 なんのためにここに来たんだかわかりゃしない、とむくれるジュニアに、コムイは小さくため息をついた。
「そう焦らないでジュニア。僕はまだキミの長所も短所もわからない。どの任務を任せてもいいのか、僕は見極める必要があるんだ」
「そんなん言ってたら、イノセンスなんかアクマに壊されちまうさ! オレは早く実践に慣れてぇんだ!」
 ほとんど飲んでしまったコーヒーカップをサイドのテーブルに叩きつける。僅かに残っていた液体が、飛び出て散った。
「……案外に血の気が多いんだねジュニア」
 それでも、実践に出すのであればもう少しデータが欲しいところだ。どのような技を使えるのか。どのような戦闘を得意とするのか。欠点があるのであれば、それを補うエクソシストと組ませなければならない。
「んー……キミのって接近戦もイケるんだよね……」
 挙げられる欠点といえば、発動から現象が起こるまで、若干時間を要してしまうところか。
「室長! 西の方でアクマが!」
 切羽詰った声で駆け込んできたのは、コムイが信頼を置く、科学班班長、リーバー・ウェンハム。なんだってこんな時に、とコムイは頭を抱えた。
 ジュニアは立ち上がって、団服を羽織りジッパーを引き上げる。もうすでに、向かうことで意思が決定してしまっている。
「ジュニア」
「だってユウはもう任務出てる!」
 止めようとするコムイに、言ってやった。アクマがいるなら自分が破壊しに行く、と。
「このままじゃ、ユウに遅れを取っちゃうんさ」
 男として、それは避けたい。
 昔は、神田が英語を話せなかったこともあって、少しだけ自分がリードしていたように思う。だけどそれだって、今はないだろう。自分は昔よりシンクロ率が上がってけれど、彼だって昔よりシンクロ率を上げたに決まっている。ここで離されるわけにはいかない。
 男としてのプライドだ。相手が大切な分だけ、余計に。
「ユウに負けたくない」
「そうは言ってもね、ジュニア。僕はまだキミの今の能力を知ら……」
「ではオレが共に行く」
 入り口から遮る声に三人で振り返る。そこには団服に身を包んだ神田が立っていて。何か書類の提出にでも来たのだろうか。
「前の任務の追加書類だ、置いておくぞ」
 そう言って、書類が山積みになった机に置いた……いや、というよりは放ったと言ったほうが正しいだろう。
「場所はどこだ、リーバー」
「え、あ、近いな。ここからだとえーと……」
 問われ最短ルートをリーバーは調べ始める。こちらも、もう向かう気満々のようだ。
「構わねェだろ。こいつの長所も短所も、知ってんのはブックマンとオレだけだ」
「いや、でもね神田くん」
「グズグズしている暇があるのか、コムイ」
 さっさと指令を出せ、と言い募る神田にコムイは肩を竦めた。確かにグズグズしている場合ではない。
「ジュニア、行くぞ」
 コムイが指令を出す前に、神田は団服を翻した。詳しい場所は無線で聞く、と付け加えて。ジュニアがコムイとすれ違い、神田の後を追う。もう止める術はないと、息を長く吐いた。




「ユウ、ありがと」
 カツカツと廊下を足早に歩きながら、ジュニアが笑いかけてくる。礼を言われるようなことをした覚えはないと突っぱねても、彼のその顔が崩れることはなかった。
「初めての任務がユウと一緒なんて、嬉しいさ」
「……不謹慎なこと言うなジュニア。任務だぞ」
 近場だからと、大した荷物は持たなかった。戦闘中は逆に邪魔になってしまうし、現地で調達できないこともない。
「や、それは解かってるけどさ。やっぱ仲良いヤツの方が、やりやすいじゃん?」  
 リーバーにちらっと聞いた話では、レベル一が数体だとか。それだって油断のできるものではないし、もしかしたら到着するまでに進化してしまうかも知れない。
「どうだろうな」
「ユウ?」
「親しい人間だからこそ、足をすくわれることもある」
 こちらを振り返りもしないで、神田は呟く。どういう意味であるかは、訊かなくても解かった。
「オマエ、こっちに依存しすぎだ」
 神田は、【ブックマン】というものがどういうものなのか気づいている。ジュニアだって、昔は深く考えていたわけではないのだ。【中立】であるということが、どういうことなのか。  だけど年を追うごとに、知識も真実も見えてくる。
 眉を寄せた神田の横顔をそっと眺め、視線を戻して俯いた。
 イヤというほど思い知らされた。自分たちに危惧を感じて引き離した、コムイたちの行動は正しかっただろう。そしてまた、誤ったとも言える。
 自分の気持ちに気づかせる機会を、ジュニアに与えてしまった。
「忘れんなよ。オマエはブックマンの後継者だろうが」
 自覚をしろと言う神田に、ジュニアは僅かに苦笑した。それに気づいて神田が振り返る。
「なんだ?」
「や、オレまだ正式な後継者じゃねーんさ。名前もらってないもん」
 否定したジュニアに、名前?と訊き返す。ブックマンになるには、知識のほかにまだ必要なものがあるのかと。
「後継者には、なんか名前が与えられるって、前に聞いた。オレらは歴史に本名は残せないから、二つ名を使うんだろうと思うけどさ」
 神田は思う。ジュニアについて、知らないことなどまだたくさんあるのだろうと。自分が見ているのはほんの一部に過ぎず、小さな欠片でしかないのだろう。
「まぁオレ、名前なんか元々あってないようなもんだから別にいいけど。ジジィについて来る時全部捨てたしさ」
 確か祖父だか曽祖父だかの名をもらってた、とジュニアは続ける。家族の顔さえもう、忘れてしまったけれど。
「ジュニア」
「ごめんこんなハナシ聞かせて。でもオレはブックマンになるんさ」  それを支えに生きてきたんだ、と前を見据える横顔を、そっと盗み見た。この男に、どんな過去があったのかは知れない。話させる気はないし、そうしてどうなることでもない。
「でもオレ、あの約束は忘れてない。この間言ったさ」
 子供の頃交わした、あの約束は。
「……忘れろ。オマエには邪魔なだけだろう」
 中立を貫いて、あの約束を果たせるわけがないのに。なんて馬鹿なことをしていたんだろうと眉を寄せた。
「ユウ、でも」
「もう終いだ、この話しは。行くぞ」
 乗り込んだ汽車が、激しい音を立てて、ふたりを戦地へと運んでいく。
 それでもあの頃は、あの約束が嬉しかったんだ。