Life

2006/05/03



 おかしい、と思い出したのは三日目からだった。
 ジュニアの姿を見ていないのだ。あれから、一度も。
 朝食の前に起こしになど当然来ないし、神田も向かわない。修練場でも見かけないし、森の方でも修練している気配はない。食堂でも、時間がズレているのかあの目立つ赤毛が視界に入ってこない。
「あ、いたいた! 神田!」
 避けられているのかもしれない。
 そうは思いながらもこのまま離れてしまえるならそれでもいいと、あえて放っておいた。
 慌てた様子のリナリーに出会い頭で止められて、
「どうしたんだリナリー」
 何かあったのかと訊ねてみる。
「ジュニアを見なかった?」
「…………いや、見ていない」
「そんな……どこ行っちゃったの……!」
 そう言う間もきょろきょろと辺りを見回して探すリナリーに、目を瞠った。
「ちょっと待て、いねェのかよ」
「そうよ、何で神田が知らないのよ、もうっ!」
 せっかく壊れたゴーレムを直してもらったのに、と心配そうに眉を寄せる。部屋には、と訊ねた神田にリナリーは首を横に振り。
「任務じゃねェのか」
「そんなことあるわけないよ! 兄さんに訊いても見てないって言うし、前の任務の報告書だって出してないのに!」
 食堂の料理長も、しばらく見ていないと言う。
 神田は舌を打って走り出した。
「神田!?」
 唯一の心当たりへ向かって。




 目の前の、扉さえも煩わしいと感じた。ガッとノブを回して蹴飛ばすように押し開ける。
「ジュニア!」
 ここにいると思っていた。小さい頃二人で入り浸っていたこの書庫に。僅かに上がった息を整えた頃には、リナリーが追いついていた。
 見渡す必要もなく、視界の向こうに人影が見える。僅かに陽が入り込む窓際、長机にひっそりと座り、俯いてペンを握る赤毛の男。後ろで【あ、いた】と安堵する、小さな声が聞こえた。
「ジュニア、こんなところにいたの? 皆心配して」
 そう言って歩み寄ろうとするリナリーを腕で引き止める。不思議そうなリナリーが、振り仰いで見たものは、明らかに【安堵した】風ではない神田の。
「神田……?」
「……入り込んでやがる」
 こちらの存在には、まったく気づいていないのだろう。気づいているのなら、顔を上げてこちらに笑いかけてでもくる。そんな男だったが、一度集中し出すと周りが目に入らなくなる傾向があるらしい。昔も、こんなことはよくあった。
 今度は何に夢中になっているんだとツカツカ歩き、机に積みあがった書物に目をやる。手を伸ばせば届くという位置ではあったが、ここまで来てもジュニアは神田に気がつかない。
 不思議な光景だ、とリナリーは思った。
 ひたすらに書物を読みふけるジュニアと、そんなジュニアを少し離れて眺める神田と。個々の物体なのにどうしてか、同じ鼓動を分けるひとつのものに見えた。
「……、……っ!」
 神田は目を瞠る。
 本の題名を何の気なしに目で追って。
「……ジュニア」
 声が震えているのが、自分でも分かった。



『人体のツボと構造』
『針と医学』
『回復術』



「──ジュニアおまえ……っ! なに……何を調べてやがんだ!!」
 思わずその本を叩き落す。バサバサと散らばる幾枚かの紙と、ゴトンと音を立てる硬い本の背と。
「え、あ、ユウ?」
 それにやっと手を止め顔を上げて、にこりと笑う。その表情はいつもより随分と疲れているように見えた。
「来てたんなら声かけてよ。あ、リナリーもいたんだ?」
 床に落ちた本を拾い上げ、ぽんぽんと埃を払う。まるで何でもないように。声をかけてくれとはどういうことだ。
 神田も自分も、気配を殺したつもりなどなかったのに、とリナリーは戸惑って神田を仰ぐ。
 けれど神田はそれに気づかない。責めるように、ジュニアを睨みつけているだけだった。
「ユウ、もう起きて平気なんさ? 身体ダイジョブ?」
 ごめんコムイに聴いたんさ、と呟くジュニアに、神田は口唇を噛む。
「……んでだ…」
 噴出していきそうな、どこかドス黒い感情を、必死で押し止めて声を吐き出す。何か一言でも言ってやろうとしたが、うまく言葉となって出てこない。
「ユウ、知られたくなかったかも知れないじゃん」
「違う、バカ! なんでこんなとこで……こんなッ…! こんなもん三日も調べてんだよ!!」
 これは明らかに神田の身体のこと……胸の梵字のことだった。ダンッと机に拳を叩きつけて睨み上げる。こんなことを調べるために三日もこもっていたのかと。
「え……三日も経ってるんさ?」
 きょとんとジュニアは首を傾げる。そういえば何度か外が暗かった記憶はある。熱中すると周りが目に入らない自分の性格は心得ていたが、教団本部に戻ってきた途端、コレだ。
「……またやっちゃったさ。ごめんユウ、リナリー」
 気をつける、と笑う。戸惑いながらも、ふるふると首を振るリナリー。持っていたゴーレムが手を逃れ、パタパタと主人のもとに舞い戻る。それを指に止め、直ったんさねと喜び、リナリーに軽く礼を言った。
「ご飯、食べに行こう。まだ食堂開いてるかな」
 そういえば食事も取っていなかった、と立ち上がる。出口に向かおうとするそれを止めたのは、神田の声だった。
 話がある、と。
 掴んだ手首は思った以上に細かった。
「リナリー、席を外してくれ」
 神田の静かな声に珍しいと思いつつ、うん、と心配そうに頷いて、少女は書庫を出て行く。しばしの静寂が、ふたりの身体を包み込んだ。 「……ジュニア、なんでこんなもん調べてる」
 散らばった資料には、見たことのない文字や、単語がずらりと並んでいた。
「訊かなくても、わかるっしょ、ユウ」
 苦笑してそれを拾い集め、机に放る。まさかここに入ってから三日も経っているとは思わなかった。神田の身体に対して、有力な対処法が見つからなかったせいだろう。
「三日も……メシも食わずにか! だったらもう解かるだろう! どうにかすることなんてできねぇんだよ!」
「なんで始めっから諦めてんのさ!? 本当にそれしか方法なかった!?」
 ガッと胸ぐらに掴みかかる神田。それを振り払って、ジュニアは神田の左胸に指を突き立てた。
「これに頼って怪我治して! それでも確実に命が削られてるんさ! また死にそうな大怪我したらどうすんの!?」
「そんな先のこと知るか!! ただオレはッ……」
 先のコトなんか、正直考えていなかった。薄れていく意識の中、あの時はただコムイに訴えるだけで精一杯だったんだ。
「オレは死にたくなかっただけなんだ!」  
 あのまま死にたくはなかった。自分の油断で負った怪我だったけれども、まだやらねばならないことがあったんだ。
「後悔はしていない、生き方も変えない! 余計な事をするな!!」
「余計なことって何!? このままユウが命削ってくの、黙って見てろって言うんさ!? 親友目の前に、そんなことできるわけないだろ!!」
「もう止めろ! オマエが言ったんじゃねーか、ブックマンは中立の立場だって!!」  何も良い方法が見つからない。ここの文献を引っ張り出しても、削られてゆく命を繋ぎ止める方法なんか、書いてなかった。
「今のオマエが、【中立】のブックマンになれるとは、到底思わねぇ! こんなもん調べて、何の得になるんだ!」
 もう関わるな、と言ってやりたい。お互い以外、何もなかったあの頃とは全然違う。頼れるものだって他にあるだろうし、ブックマンになるために何をするべきなのか、もう解かっていてもいいはずだ。
「得とかそんなん関係あるか! ユウ、友達でいてくれるって言ったじゃん! なんで、なんで怪我した時報せてくれなかったんさ!! きっと、もっと他の方法だって」
「オマエに報せて何になる! もういい加減、昔の約束なんかに縋るなよ!」
 そんなことをしている暇があったら、少しでも早くブックマンになってしまえと心で吐き捨てる。突き放せないこの距離も、そうすればきっと自然に開いていくはずだ。そう思って。
「あんな約束、ガキの遊びだ」
「────」
 呟いた瞬間、震えていたジュニアの手のひらが振り上げられて、思わずも身構えたが。殴られる衝撃は、いつまで経っても降ってこなかった。不思議に思い閉じた目蓋を持ち上げると、振り上げた腕をもう片方の手で掴み、歯を食いしばって耐える、ジュニアの姿。
「ジュ……」
「ユウが、そんな風に思ってたなんて、知らなかったさ」
 喉の奥から振り絞られる声は、今にも泣き出しそうだった。
「五年間ずっと、忘れたことなかったんだけど」
 長く息を吐き出して、顔を上げてジュニアは笑う。当人が気づいているかどうかは解からないが、いつだか神田が気に食わないと呟いた、あの笑顔そのものだった。
「ジュニア」
 机の上を片付け始めるジュニアに、心臓が疼く。
「頼むからもう、忘れろ」
 忘れたことがないのは、こちらも同じだ。
 だけど、それを口にしてはいけないと、神田は口唇を引き締める。ジュニアはこちら側の人間ではない。無闇に強い繋がりなど持てないのだ。それは当人がいちばんよく解かっているはずなのに。
「ユウが! ……ユウが、言いたいことは解かってる……! オレも、依存しすぎてるって思う! ブックマンは一生中立を貫かなきゃなんないって、充分解かってる!」
「解かってねェだろ、いい加減にしろよ!」
「でもオレまだブックマンじゃねぇさ!」
 吐き出すように叫んだそれに、神田は目を瞠った。思わず愕然とする。自分の何がいけなくて、この男にこんな台詞を吐かせてしまったのかと。
「ブックマンじゃねぇから……なんだって言うんだ……」
 神田の震えた声が耳に届く。自分でも言って、しまったとジュニアは思ったけれど、口を出た言葉は帰ってこない。
「ユ、ユウ……あの」
「そんな半端な気持ちで五年も修行に出てたのかよ! 違うだろ!!」  
 違う、とジュニアは全力で否定する。そんな半端をするくらいだったら、初めから修行になど出ていない。離れたくないと思った親友と離れてまで、そんなことのために修行をする気はなかった。
 自分は師によって生かされた。後継者となるべく育てられた。自分は師にとって、意味のある存在にならねばならないのだ。エクソシスト? そんなもの、この戦争が終われば意味なんか失くしてしまう。
 置き去りにされるのはごめんだ。
 本能がそうさせるのか、何事かのトラウマなのか、ジュニアはそうされることを酷く恐れる。
 だから、自分は【ブックマン】に関わらなければいけないのだ。死ぬまで唯一確かな道を。
「この位置は誰にも譲らねぇ」
 深く関わってはいけないことくらい、この数年で身に沁みるほど良くわかった。多くを、正確に記録しなければならない。時に誰かを見殺しにしてさえも。
 それでも。
「それでも……ただユウが大事なんさ…」
 今はどちらかなんて選べない、と続ける。
 この教団に来て初めて、心から笑わせてくれたのはこの人だった。共にいたいと思ったのはこの人が初めてだった。
「死なないで、ユウ」
 初めてだった。
 こんなにも誰かを愛しいと感じたのは。
 届かないと知っていて尚、触れたいと心から願う。
 すれ違いざま、黒の髪にそっと口づける。何の反応も返さない彼に何度目か、笑みを漏らして書庫を後にする。さすがに何か腹に入れなければと、食堂へと向かっていった。
「……」
 残された神田は一人、ジュニアの座っていた椅子を眺め、次第に視線を俯ける。埃っぽい臭いが鼻についた。
 ギ、とその椅子を引き、腰を落ち着ける。机に両肘ついて手を組み、額を預けた。
 これ以上はどうしたらいいのだろう。
 ジュニアの帰還を喜んでいる場合ではなかったのだ。自分はジュニアから、ジュニアは自分から離れなければならない。このままではまた繰り返すだけだというのに。
 子供の頃の感情が、こんな風に作用してくるとは、思わなかった。そんなこと考えていなかった。


 ────ちゃんと、誓おう────


「勝手なことばっか……言うな……!」
 ただ、ジュニアといるのが楽だというだけで、共に過ごし依存して、そして依存させた。【死んでほしくない】、その感情が戦闘時にどのような影響を与えるか。そしてまた、実際【死んだ】時に、どんな闇を連れてくるのか、想像できるから恐ろしいのだ。
 この繋がりは断ち切らなければ。そう思うのに、突き放しきれないのはいったい何だというのか。
「ジュニア……」
 小さく呟いて、木造りの机に突っ伏した。






 修練場に向かう気にも、部屋へ戻る気もしなかった。
 ふらりと足が向いたのは、あの大聖堂。聖堂への扉を開けて、ゆっくりと祭壇の前まで歩く。
 あの時よりも高くなった目線で見渡しても、何かが変わった様子はない。あの時のまま、いるのかいないのか解からない【神】と、自分自身が向き合うだけで。
 神田は目の前に掲げられた十字架の男を見上げ、そして傍らの長椅子に腰をかける。
 考えてみたらここに一人で来たことはないんだなと思い、案外に心が落ち着くことを知った。ここはとても清浄で、かつ静寂である。外の世界で起こっていることなど知るものか、と言わんばかりの薄情さが、逆に救いに思えた。
 ここが何処なのか。求めたものが何なのか。自分は誰であるのか。
 そんなものは関係ない、と見下すようなその位置が。
「……」
 不思議なものだ。
 ずっと押し込めていたものが流れていく様で、神田はゆっくりと目を閉じた。こんなに穏やかな気分になったのは、どれくらい振りだろう。  もしかしたら、【神】は存在するのかも知れない。
 それでも静寂は、ギィと開く扉と、僅かな足音に破られた。
 嗚呼やはり望む【神】など存在しやしない。
 振り向いたら、視線の先の人間も、僅かに目を瞠ったのが解かる。食堂で三日ぶりに食事を取ってきたせいか顔色が少し戻り、苦笑する顔に寄せられる眉は、明るい髪色に不似合いで。
「いるとは思わなかったさ、ユウ」
「……足が向いた」
 正面に向き直りそう呟くと、少し後ろで【オレも】と返ってきた。ジュニアはそのまま、通路を挟んだ隣の椅子に腰をかけ、神田と同じように十字架の男を見上げる。
 先ほどのぶつかり合いが嘘のように思え、ジュニアも神田も、ゆっくりと息を吐いた。そのまま口を開いたのは、ジュニアが先。
「ユウ、ごめんな」
「なにが」
「オレ、やっぱこのまんまユウを黙って見てるなんて、できんさ」
 正面を向いたまま、言葉だけが滑り込む。神田は静かに目を伏せて、その声を拒絶することなく耳に入れた。
「ユウが大怪我してそれ治すために命削るなんてやっぱヤだし、このまま離れるのも、イヤ」
 それでなくても五年間も逢えなかったのにと心で呟いて、ジュニアは少しだけ神田を振り返る。神田がその視線に気づいたかどうかは知れないが、いつになく静かな横顔に、安堵した。
「だから無茶して突っ走んないでほしいんさ。ユウの大事な人探すために情報が必要なら、オレも手伝う。ユウがイヤだって言うならしない。もちろんブックマンの修行だってちゃんとするさ。だから」
 ここで何もかも放り出して、こちら側の人間になってしまえたら、どんなにか楽なことだろう。だけど自分はブックマンになるために育てられたのだ。それは世界が赦さない。
 そして、師匠や自分自身、そして視線の先の神田も、赦してはくれないだろう。
 自分は、ブックマンになると昔から決めていた。
「……だからさ、また一緒にご飯食べよう」
 きっとこの先、貴方を愛しているとは言えないままに。
「ユウ……」
 明確に答えてはくれなかったけれども、視線の先で微かに笑んだ様な気がして、胸が締め付けられた。
「……そっち、行っていい?」
 しばしの沈黙の後、ややあってゆっくりと、神田が答える。
「勝手にしろ」
 ジュニアはカタリと立ち上がり、通路を横切り神田を通り過ぎて、その隣に腰をかけてみた。
 長椅子の背にもたれ眠るように目を閉じる神田は、いささか無防備に思えてならない。振り払われることを承知で、晒された手のひらに自分のそれを重ねたけれど、ぴくりと震えるだけで、拒絶されることはなかった。
 約束を忘れてはいない。自分の進むべき道も忘れてはいない。だから自分のやるべきことを行うのだ。
「オレはきっとユウを裏切ってるけど、それでもオマエが大事なんさ」  勝手でいい。
 そうやって心の中であの日の約束を反芻したら、神田のこめかみが肩に当たる。眠ったのか、と思ったけれども、その後すぐに指が動いて、違うとわかった。
 重ねた手のひらを、彼が握り返してくれたから。
 冷たい指だと思いながら、それならば自分が温めてやれたらいいと、肩に乗った神田の頭に、自分のこめかみを預けた。触れた箇所から体温を感じ取って、ゆっくりと目を閉じる。
 こんな気分のまま、ずっと過ごせたら、どんなに幸福だろうかと、苦く笑った────。