Life

2006/05/03



 雪も落ち着き、何日かした頃だった。空模様は悪く、また一降りあるだろうかと、今日帰還予定の神田を案じる。今回の任務は単独だと聴いた。コンビを組んだ人間との衝突を心配する必要はなくなったが、今度は逆に、独りで無茶をしないかと別の心配まで出てきてしまう。
 それでもひと頃に比べれば、神田の状態も随分良くなっているものと見て取れた。傍で見ている自分がそう思うし、コムイが医療班に弾き出させている神田の身体データを見ても、明確だった。
 そして自分たちの関係も、最良だと言える。付かず離れず、友として分かち合えていると。戦争の最中にさえ、本当に幸せだなんて、思ったんだ。






 ブックマンから呼び出されたのは、夕刻と言うにはまだ少し早い時間帯。また何か新しい情報でも植えつけられるのかと、いつものように軽いノックの後に部屋のドアを開けた。
「来たか」
 いつになく神妙な面持ちだ。元々が表情の少ない上に、怒っているような顔しかインプットされていない。また何か怒られるようなことをしただろうかと思い返してみても、最近ではもう、心当たりが浮かんでこなかった。
「何さ? ジジィ」
 新しい知識云々ではなさそうだ、とジュニアは不思議に思った。かといって任務というわけでもなさそうで。重要な話があるらしい、ということは雰囲気で窺い知れたが、内容までは想像するに至らない。 「そこに、立て」
「? まどろっこしいさ、ジジィ。用があるならさっさと済ませてくんねー?」
 腹が減っている、と付け加えたが、どうやら聞き入れる様子はなく、いいからそこに立て、とドスの効いた声を吐かれて、ジュニアは不審に思いながらも、ブックマンの正面にじっと立った。



「貴様を正式な後継者としよう」



 軽い雲のように吐かれた言葉は、だがしっかりと意思を持っていた。
「本日これより、【ラビ】を名乗れ」
 ジュニアは目を見開いて息を呑む。
 心臓が速い。心音が大きい。
 今のはどういう意味なのかと訊き返すほど、愚かではなかった。
「あ、の、ほんとにオレ……っ」
 ぐるぐると思考が回る。後継者になるということは、ブックマンへの道が約束されたということだ。
 ブックマン────歴史を記録する者。
 それになるために、今まで生きてきた。それを存在意義として、色々な知識を詰め込んできた。後継者候補と言われてはいたが、実質候補はジュニア一人しかおらず、その道は決まっていたようなものだったけれど。
「オレ……ほんとに」
 なれるのか。
 師の後をついて、いろんなことを知った。それでも知識欲が満たされることはなく、もっとたくさんのことを知りたいと、子供心に思う。
 裏の歴史の、権威とも言えるそれに、自分が。
「返事はどうした」
「……!」
 なれるんだ。  やがてこの老人が隠れた際には、自分がブックマンと。  ジュニアは背筋をただし、目の前の師に向かって言った。
「つ、……謹んで、お受け、致します……!!」
 震えたような声にブックマンはフンと鼻を鳴らし、もう話しは済んだと背を向ける。ジュニアは軽く頭を下げ、部屋を出る。飛び出したと言っても、過言ではないだろう。
 走る足がもつれる。握った拳がカタカタと震える。ドクンドクンと鳴る心臓が、やけに耳に付いた。
「コムイ!!」
 司令室の紙の海を突っ切って、奥に位置するデスクに、悠然と座る室長に、半ば掴みかかる勢いでジュニアは叫んだ。
「コ、コムイあの、どうしようオレ、今ジジィに呼ばれて」
 動揺しているのが自分でもよく解かった。指先は冷えて冷たいし、心臓はやたらと跳ねるし、足が震えているのなんか、誰にでも見て取れる。
「どうしたのジュニア。や、……もうラビって呼ぶべきだね」
 持っていた資料をぱさりとデスクに放り、立ち上がってジュニアをラビと呼ぶ。興奮を落ち着かせようと、傍のソファに腰かけさせる。その目の前にしゃがみこんで、合わせようと少しだけ視線を上げた。
「コ、コムイは知ってたんさ?」
「さっきブックマンから聞いたよ。おめでとう、ラビ」
 にこりと微笑んで、何も心配することはないと知らせてやる。こんな風に動揺するところは、本当に歳相応で、こんな時に実感する。最前線には子供も多くいるのだと。
「なんか、ちょっと、ビックリして」
 へへ、と笑うジュニアは、まだ戸惑っているようだ。自分が後継者として認められたこと、自分に名前が与えられたこと。実際コムイも、先ほどブックマンから聞かされたときは、唐突だと驚いたものだ。
「実感が湧かないんさ、コムイ」
 自分はどうしたらいい?と訊ねるジュニアに笑って、何も変わらなくていいと返してやる。今の生活が変わるわけではない。ただ少し、ブックマンからの指導が増えるかも知れないというだけだ、と。
「そのままでいいんだよ。君はもう、自分のやるべきことを解かっているじゃない、ラビ」
 言われ、やっと安心したようにそうかと息を吐く。実際今までと何も変わりはしないだろう。自覚を待たせる意味で名を与え後継者としたのだろうとコムイは推測した。
「よし、じゃあお祝いしようか。きっと皆喜ぶよ」
 ジュニアが落ち着いたところを見計らって、コムイが立ち上がる。お祝い?と不思議そうに、ジュニアがそれを見上げた。
「なんで皆が喜ぶんさ? 何も変わらねーのに」
 そう訊ねたジュニアに、コムイは大袈裟に両腕を広げて見せた。
「ああ、ラビ。キミはもう少し人の心も学ぶべきだ」
 呆れたように哀れんで、
「戦友の夢が叶うんだ、皆嬉しいに決まっているだろう?」
 そう言って傍にいた科学班の人間に、ジュニアの【昇格】を告げる。小さくはない声で、どれだけか周りに聞こえる声で。途端、上がる歓声。ジュニアはビクリと肩を震わせた。
「おいマジかジュニア!」
「やったな、おめでとう!」
「なんか名前もらうんだっけ?」
 手の空いている人間はジュニアに駆け寄り、肩を叩いたりくしゃくしゃと髪をかき混ぜたり、次から次へとハッピー・コール。
「なんて名前もらったんだ、ジュニア?」
「え、あ、えと、【ラビ】って、もらった」
 科学班は皆見知った連中だ。他意もなく喜んでくれていることが解かる。ジュニアは戸惑いながらも、先ほどブックマンに告げられた名前を、口に出してみた。
 初めて舌に乗せるその名前は、案外に滑りが良く、口唇になじむ。正直言ってまだ実感はないが、自分はブックマンの後継者になったのだと、ようやく思えた。
「ラビ、か。これからはそう呼ばなきゃな」
「室長ぉー、これ団員のデータに加えておいた方がいいッスかね〜?」
 陽気な団員たちの雰囲気に笑い、そうだねそうしておいてくれと和やかに告げる。【黒の】と称してはいても、個々の人間たちは何と温かいのだろう。
「じゃあパーティーだパーティー」
「誰かジェリーに言ってこいよ」
 お祝いパーティーにかこつけて、何だかんだと騒ぎたいのだろうか。そこにいる誰もが、浮かれているように見えた。
 ジュニアが正式なブックマンの後継者となった、という噂は瞬く間に広まり、団内を賑わせた。ジュニアも、当然悪い気はしない。真意はどうあれ、自分のことをこんなにも喜んでくれるなんて、旅に出ていた間では、考えられないことだったのだから。
「ちょっと聴いたわよぉあんた! ラビ……えーとラビだっけ? ウサギちゃんね。今からあんたの好きな物作ってあげるわ! どんどん言っちゃって!!」
 食堂へ赴いても、廊下を歩いても、かけられる声。ジュニアは、それのひとつひとつに笑って返した。
「マジで? 嬉しいさジェリー。ありがとう」
 そうしてやっと気持ちが落ち着いたのか、冷静に判断をできるようになってくる。ブックマンの後継者として認められる。これは確かに嬉しいことだった。
 そして同時に、心臓が潰されそうになるくらい、残酷と思えることだった。
 ブックマンは、どこにも属さず歴史を記録する者。
「じゃあオムライスとミネストローネ。後は極上のシャンパンを」
 中立の────立場である。



 ちらちらと雪が降り始めた。やはり降ってきたか、と神田は教団の門をくぐった。天候が崩れる前に帰還できて良かったと息を吐く。白く目に映る吐息が痛くて、冷えた手を握りこんだ。
 階段を上がるにつれて、騒がしくなっていくのに気が付いた。いつもはこんな風に騒がしくはないはずだ。何事か起きたのは間違いないようだが、まさか敵が入り込んできたとは思い難い。
 今は任務に出ているエクソシストは少ないはずだし、ほとんどがこの本部にいる。そんなところにノコノコやってくる馬鹿は、さすがにいないだろうと。
 更に、笑い声も聞こえてくる。なるほど何か祝い事があってこのお祭り騒ぎなんだな、と妙に納得してしまった。黒の教団という割には陽気な連中だ、事あるごとに馳走だ酒だと宴を繰り広げているらしい。
 もちろんそんなことに興味のない神田が、それに参加することはなく、いったい何に対しての宴なのか、知る気にもならず。
 しかし今日はいったい何なのだろう。誰だかの誕生日にしては宴が大きすぎる気もするし、クリスマスももうとうに終わった。ニューイヤーパーティーも、開いていたのはつい最近のように思うのに。
「あっ、神田! お帰りなさい!」
 途中、はしゃいだようなリナリーにぶつかりそうになって、寸前で何とか立ち止まった。
「良かった、遅いから心配してたのよ。任務お疲れ様」
「どうでもいいが、なんだこの騒ぎ」
 もしかして、リナリーは自分を出迎える途中だったのだろうかと思いながらも受け流して、この騒ぎの原因を訊いてみる。
「あのね、聴いて聴いて! ジュニアがね、ブックマンの正式な後継者になったの!!」
 飛び跳ねそうな勢いで、リナリーは嬉しそうに口にした。



 神田の、息が止まる。



「でね、【ラビ】っていう名前、もらったんだって!」
 何か口にしようとして、言葉が出てこないことに気が付いた。言い出そうとしては止め、そしてまた言葉を探す。
 何を言葉とすればいいのか、解からない。
 そうか、良かったなと言えばいいのか、やっと後継者になったのか、おめでとうと言えばいいのか、それとも。
「ジュニア、じゃ、ないや。ラビもね、すごくすごく嬉しそうだったの」
 リナリーの声にハッと顔を上げる。
 そうだ、喜んでやらねばならないだろう。自分が戦友と、親友と呼ぶあの男は、ずっとそれになりたがっていた。そのために、長く修行の旅にも出ていたんだ。
「そうか」
 それでもやっと出てきた言葉がこれだった。端から見たら、何と薄情な友人だと思うことだろう。
「ヤツは、今どこに?」
「今ね、談話室よ。ダメね、皆もう、酔っちゃって」
 そう零すリナリーも、いくらかアルコールを含んだのか、少々頬が赤いように見える。この少女も純粋に、【ラビ】のことを喜んでいるのだろう。本当に嬉しそうな表情に、神田も、歩きながら僅かに表情を崩した。
 なるほど談話室に近づくにつれて、騒ぐ声が大きくなってくる。このご時世にのんきなものだとは思うが、こんな時でなければおおっぴらに宴をする気分にはなれないのだろう。
「あ、ほら。そこ」
 リナリーの声に、指された指の先を視線で追ってみて、見つけた。数々のグラスとオードブルと、酔っ払った団員たちに囲まれた、赤橙の髪。
「……」
 彼は、笑っていた。
 嬉しそうに、それはそれは楽しそうに笑っていた。
「ラビ、嬉しそうね。クリスマスにもニューイヤーパーティーにも、あんな顔見なかったわ」
 ああ本当に、と開け放された窓枠かに手をついて、その一角をじっと眺める。あれは心から笑っているのだなと思い、ホ、と息を吐いた。  いちばん傍にいたせいか、彼の笑顔の種類くらいは見分けが付けられる。心からのものなのか、その場を和ませるものなのか。そして他の団員といるときは、そのほとんどが後者だった。
 だけどここから見る限りでは、今は前者と言えるだろう。それもそのはずだ。ずっとなりたがっていたブックマンへの道を、約束されたのだから。
 神田はそのまま踵を返す。驚いたリナリーが、呼び止めた。
「ちょ、ちょっと神田どこ行くの? おめでとう言わないの? ねぇ」  神田が身体を翻した方向は、談話室への入り口ではない。向かう先は、自室か、司令室か。
「あの人垣をかき分けてか。馬鹿言うな」
「あっ、ちょっと神田っ……もう!」
 立ち止まりも振り返りもしない神田を、これ以上はどうやっても引き止められないと思い、リナリーは諦めて談話室へと足を向けた。
「ラービ」
 そうして神田がしたがらなかった、【人垣をかき分け】て、椅子の後ろからジュニアにのしかかる。
「おぉリナリー。食う?」
「ん」  
 それを振り仰ぎ、手にしたフライドチキンを差し出す。それをぱくりと加えたリナリーも、やはり相当酔いが回っているのか。
「もう、信じられないわ神田ったら」
 腹の中に入れ終わって呟いたリナリーの言葉に、ジュニアが息を止めた。
「あ、……えっと、……ユウ、帰ってきてたんさ?」
 外を見ればもう暗い。今日帰還予定だったのだから、もう帰ってきていてもいい頃だろう。
 ドクンドクンと心臓が波打つ。
「さっきまでそこにいたわ。親友に一言もかけないで。もう」
 ざわり、と背筋が凍った。
 ということは自分が正式な後継者になったことは、この少女から聞いたはずだ。ラビという名をもらったことも知っただろう。
 彼はどう思っただろうか。
 神田が、こういったお祭り騒ぎ自体を苦手としていることは知っている。親友に一言も、と彼女は言うが、それをどうこう言うつもりはない。
 彼は喜んでくれるだろうか。やっと後継者になったのかと呆れるだろうか。まだ未熟な自分が、と快く思ってはいないかも知れない。
「まぁまぁ。リナリー、考えてもみ? ユウがこの人ごみかき分けてさ。にっこり笑ってオメデトウ、なんて。……悪いけどちょっと想像できないさ」
 ……何も、思っていないかも知れない。
「……────そうね。少し気味が悪いわ」
「ね。ユウのとこには後で行ってくるさ」
 いや、彼が何をどう思おうと、自分が何をどう思っていようと、何も変わらない。世界は何も変わらない。
 ただ無情に、生まれる恋心を利用していくだけだ。