Life

2006/05/03



 朝なんか来なければいい。
 そうすれば、このままずっと触れていられるのに。
「……っ、う」
 耐えようとしているのは、苦痛なのか快楽なのか、それとももっと別の感情なのか。
 ジュニアの指が、神田を撫でる。
 神田の指が、ジュニアを引き寄せる。
 何度も、何度も口づけた。口唇が触れて通らない所などないように、どこも、かしこも。
「ユウ……」
 無意識のうちに紡がれる名を、
「ジュニ……ア」
 こちらもまた返す。
「あっ……あぁ」
 奥の方まで入り込まれ、神田が仰け反る。逃すものかと追ったジュニアが、神田の口唇を塞いだ。
「ふ……ぅ」
 啄んで、貪って、息もつけない程の想いを、体温にすり替える。
 何度だって抱き合えた。
 果てては、触れたそこから熱を引き連れ穿ち、また果てる。
「ジュニア……」
 夜が落ちる。
 朝なんか来なければいい。
「……ユウ…」
 だけどそれでも幸福だった。






 しゅるりとシャツに腕を通す。窓の外に目をやれば、夜通し降っていた雪もどうやら止んだようで、陽の光に思わず視線を逸らした。
 朝が来なければいいと願ったところで叶うはずもなく、その光はふたりの終わりを告げてくる。
 これ以上はどうにもならない、と少し前に呟いたジュニアも、ベッドを起き出していた。追うように起きあがり、下肢を衣服で纏い、神田は団服を羽織る。
「痕、残らないんさね」
 髪を梳いて苦笑うジュニアに、神田は視線を下げる。その身体には、夜通しかけて確かめた、体温の証などひとつも残っていない。
「そうみたいだな」
 そんなものにも梵字の力が発動してしまうのか、とジュニアは眉を寄せた。
 そうと知っていれば、あんなふうにいくつも散らせたりしなかっただろう。いや、しかしそんなことを考える余裕などあっただろうか。
「まあ、その方が都合いいだろ。オレにも、オマエにも」
 痕がなければ引きずることもない。いっそなかったことにさえしてしまえる。  交わらない視線が、ふたりの葛藤を物語っていた。
 このまま離れなければいけない。元々こんなふうにどうにかなるつもりはなかったんだ。 自分たちはアクマを破壊する【エクソシスト】だ。個人の感情よりも、世界を優先しなければいけない。
 だがこの恋を諦めてまで、手に入れたい未来かどうか。
「…………オマエとふたり、逃げられたらいいのに、ユウ」
 流れた数秒の沈黙と、ようやく重なる視線。細い身体をゆっくりと抱きしめ、ジュニアは神田の肩に額を預けた。本当に、このままかっさらって行けたらいいのにと。
「よせ。できもしねぇことを軽々しく口にすんな」
「できるよ。できねぇわけねェさ。ユウが一緒にいてくれて、できないことなんてひとつもない」
 言い聞かせるように強く抱きしめてくるジュニアに対して、神田は腕をぴくりとも動かさずに、静かに答えた。


「じゃあ、逃げるか」


 ぽつりと呟かれたそれに耳を疑って、思わず身体を起こす。
「────え……?」
 少し高い目線を見上げる神田と、その視線を辿るジュニア。その短い距離で、僅かに沈黙が流れた。
「……なぜ、すぐにオレの手を取らない」
 破ったのは神田の方。
「え、あ、だって、ユウがそんなこと言うなんて思わなかったんさ」
 慌て返すジュニアに、言い訳は見苦しいと吐いて、肩に置かれていた手を振り払う。
「本気じゃねーから、オレがどう返すか考えてなかったんだろ。本気なら実行に移せよ」
「ユウ」
「できんのかよ、この団服捨てて逃げ回って! アクマに見向きもせず抱き合って、てめェの記録した歴史も、語り継がれずに消えてくんだよ! オマエのプライドは、それを許せんのか!」
 喉を突いて出てくる言葉にジュニアは眉を寄せ、そして次第に俯いていった。不安がった神田が、次の言葉を紡ごうとした時。
「好きだよ、ユウ」
 ジュニアの、静かな声。昨夜聞かされた情熱を、奥底に沈めたような声だった。
「ここでオレがユウを連れて逃げたら、オマエはどうするんだろうね」
 神田は何も言わなかった。ジュニアがそれをすることはないと、知っていたからだ。自分たちは、己のやるべきことを知っている。馬鹿みたいに縋った、それが存在理由。
「……ブックマンになるさ、ユウ」
 あぁ、と頷いて、
「オレも、あの人を見つけだす。人捜しに多少の権力は必要だ」
 ジュニアもうんと頷いた。
 木の枝に積もった雪が、音を立てて崩れてく。その音をゆっくりと振り向いて、ジュニアは昔を懐かしんだ。
 頭の中を時間が逆行して、様々な情景が浮かんでは、消えていく。
 飲み明かしたニューイヤーとクリスマス。共に過ごした誕生日。目の当たりにした石箱。初めての任務。五年振りの再会。離れていた日々。突然の別れ。あの日、交わした約束。
「昨夜、飲み損ねたさね、ワイン」
 全て、この先持っていくのは重すぎる。そう思って笑った。
「……飲んでくか?」
 割れたグラスを片づけながら呟くジュニアに、神田は独り言のように返して、新しいグラスにワインを注いだ。
 常温に戻ってしまっているそれは、きっと世辞にも美味いとは言えないだろう。そうだと知っていても、
「ユウが飲ませてくれるなら」
 ただ一時の夢にしがみつく。
「……座れ」
 冗談半分、本気半分。
「ユウ」
「座れと言っているんだ」
 ジュニアは促されるままに、ベッドに腰をかけ。
 神田は少し躊躇って、それでもワインを口に含んだ。
 ジュニアの顎を取り上向かせ、口唇を押し当てる。流し込んだワインを、やはり二人ともが美味いとは思わなかったけれど。
 濡れた口唇を啄んで、ミディアムボディの赤を味わう。
「んっ……」
 いささか過剰な口移し。ちゅ、と音を立てて離れては、再び引き合っていく。絡んだ舌がアルコールで熱く、ぶつかり合う歯が、時折邪魔にさえ思えた。
「…………ありがとう、ユウ」
 口唇を逃れた液体を舐め取って、最後に軽く啄んだ神田の身体を押しやる。
 立ち上がって抱きしめた身体があまりにも暖かくて、心が揺らぐ。夢のような時間も、これで終わりにしなければならないのに。
「ま、待てよジュニア! このグラスのワインがなくなるまでくらい、いいだろう!」
 身体を離して踵を返したが、神田にそれを止められた。
 振り向いた先には、グラスにまだ残るワイン。引き止めたは、振り向いたはいいけれど、お互いが後悔をした。
 向き合うべきではなかったのに。
「ジュニア」
 掠れる声で呼ばれた名には、返事をできなかった。そんな弱々しい音は、聞いたことがなかったから。
 目一杯躊躇って、神田は初めて口に出す。


「お、想っているだけなら、構わないか……?」


 どうやっても消せなかった心を。
「……ユウ」
 愛の告白をしているとは到底思えない、重い表情。そんな顔をさせたかったわけじゃないとジュニアは眉を寄せ、グラスを握る神田の手首を引き寄せる。グラスで踊った情熱を一気に含み、強引とも思える仕草で口づけた。
「んん……!」
 流れ込むワインに酔いしれる口づけと、曖昧な抱擁が、赦されない感情を増幅させる。
「ふ…」
 愛していると叫べない無情が、口づけを激しくさせた。
「…っジュニア……!」
「ユウ、ごめん」
 これで最後だ、と腕を突っ張って、神田を拒絶する。
「────!?」
 二本の指を神田の目の前、眼球ギリギリに突き出して、反射的に目蓋を閉じた神田にジュニアは。
「目を閉じた。心を開けた! そのまま後ろに傾いて行け!」
「……ッ」
 強く言い放たれた言葉のまま、目を閉じた神田の身体が後ろへと傾いでく。その身体をしっかりと受け止めて、ベッドに腰掛けさせた。
「ユウ、オレの声聞こえる?」
 あぁと静かに返ってきた言葉に、短く息を吐いた。かかった、と。
「忘れていいよ、ユウ。全部、全部忘れて」
 心に叶わない恋を残したまま生き続けるには、神田も自分もまだ弱すぎる。
「オレのこと好き?」
「ああ、とても」
「……忘れて。それも、全部。ユウがこの先生きてくのにも、別に必要ないよ」
 強い暗示で、思い切り否定する。忘れて欲しかった。囁いた言葉も、持ち掛けた約束も。
「ユウはオレを愛してなくていいんさ」
 この先は、自分ひとりで持っていく。
「…いらない……?」
 小さく投げられた疑問符に、間髪入れずに肯定を返してやった。
「オレたちは、ただの戦友さ。ユウは大事なあの人を捜し出して、幸せになればいい。オレはジジィの跡を継いで、ブックマンになるさ」
 あの人が大切なんでしょう?と問いかけると、見たこともないような穏やかな顔で、とても大切だと返ってくる。
 そうだそれでいい。もうこれ以上愛していると言ってやれない自分を、いつまでも想っている必要はどこにもない。
「ユウ。オレの名はラビ。ブックマンの後継者さ」
「…ラビ……?」
「そう。それ以外に名前はない。わかった?」
 ジュニアという名を持った少年は、もうどこにもいないのだと。最初からいなかったと知らせてやる。そうすれば、想ってくれていた心も消えていくだろう。
 神田がゆっくりと頷いた。これでいいとジュニア──ラビ──は息を吐いて、
「オマエが忘れても、オレは覚えているから」
 パチンと指を鳴らして神田の催眠状態を解除した。ハッと目を開けた神田が見たものは、戦友・ラビの、当たり障りのない笑顔。
「何ぼーっとしてんのさ、ユウ。メシ食いに行く?」
「……なんか頭痛ェ」
 そう言って神田は頭を押さえた。白い靄がかかったような意識が、酷く不安定なものに思える。
「昨夜あんなに飲むからさ」
「……昨夜…? なんかあったか?」
「わぁそれも忘れてるんさ? オレがジジィの正式な後継者になったこと、喜んでくれたのに」
 呆れたようなラビの顔が目に飛び込む。そういえばそうだった、と神田は髪をかき上げた。普段そんなにアルコールを好む方ではない。意識が飛ぶほどハメを外したのは、これが初めてと言えるだろう。
「悪い、あんま覚えてねぇ。任務直後で疲れてたのかも知れねぇな」
 まぁ改めて祝いを言ってやると立ち上がり、朝食を取りに行こうとドアに向かった。身体があちこち痛むのは、任務の疲れが出たのだと、そう思う。
「ユウがあんなに飲むなんて知らなかったさ。今度任務行った時に土産買ってくるから、一緒に飲も」
「時間があったらな」
 そう言って笑う姿は、何も知らなかった子供の頃のようで、ラビは息を吐く。そのまま忘れてくれてればいいと。どうしたって実らない想いを抱えていては、幸せであるはずがないと自分を言い聞かせた。
「何してんだ。メシ行くんだろうラビ」
「────」
 素面で呼ばれるその音に、身勝手にも動揺して作り笑い。
 そうだ神田の中の【ジュニア】は消えたはずなんだ。自分が望んで、自分で消した。
「先行ってて。ジジィに呼ばれてんの忘れてたさ」
「ハ、また何か怒られるようなことしたんだろう」
「違ぇさ、もう、ユウは」
「膨れるな。先に行く」
 パタリと扉が閉まる。
 暗示にはかかってくれたようだと眉を寄せ、神田の消えた扉を眺めた。
 あの背中を抱きしめることは、もう二度とできない。解かっていたことだ。自分の想いを告げることなんてないと思っていたし、まさか神田が自分と同じ想いでいてくれたなんて、それこそ夢にも思わなかった。  抱きしめたあの時間は、もう夢でいい。
 全部なかったことにして、友達ヅラして、隣に座ればいい。後は暗示をかけ続けてこの衝動を抑えれば、本当に終わる。彼が生きてさえいてくれたら、自分はそれで幸福だ。
 溢れてくる水分を拭えずに、それは顎を伝い喉を流れ、シャツを濡らす。
 雪が降っていれば良かった。
 降って、降って、降り積もって、この心と一緒に解けて流れていけばいいのにと。真っ白になって、あの人の隣で笑えたらいいのにと。
「ごめんな、ユウ……」
 さようなら、愛した人────。