Life

2006/05/03



 それからも、暗示はかけ続けていた。意識の奥底に閉じ込めたとは言え、いつどんなきっかけで思い出してしまうか知れない。
 あの約束。離れた間に生まれた感情。抱きしめたあの夜。
 針の修行と称しては、呼び出して暗示をかける。針で何か妙な作用があるのではと怪しむ彼だったが、それでも拝み倒して承諾させた。
 自分たちの関係は少しも変わらない。いや、むしろあの時より距離は離れ出しているかも知れない。コムイやブックマンはさぞ安堵しているに違いない。
 わざわざ食事をしようと呼びに行くことはなかったし、向こうも呼びには来ない。食堂で顔を見れば、席を共にするくらいだ。廊下ですれ違うときに二、三言葉を交わすだけになっていた。
 流れる季節に、恋心だけ置き去りにされる。
 やがて、一年が経とうとしていた。








「あ〜マジ寒い。せめて雪止めばいいのに。で、どうだったんさ。噂の新人クンは」
 過日、一人の元帥が殺された。伯爵がとうとう大々的に動き出したらしいと、全てのエクソシストに元帥の護衛命令が下された。
 立て続けの任務から本部に戻ってきた神田にも、指令が下され、師匠であるティエドール元帥の護衛に向かうらしい。兄弟子のマリやデイシャと合流しなければいけないと、駅に向かう彼を捕まえる。
「とんでもねぇ甘チャンだな。どうにかして頑張れば、総てを救済できると思ってやがる」
 自分に下された指令は、どうやらその新人クンとも一緒らしいと笑って、いったいどんな人物なのかと訊いてみる。新人の初任務に同行したのは、神田だったから。
「ユウは厳しいさ。なんて名前だっけ」
「モヤシ。で、オマエはどこまで着いてくる気なんだ。オマエにも護衛の指令出ただろ」
 肩に積もった雪が落ちる。振り向かない神田の髪は一年前より伸びていて、また少し大人びた表情をするようになっていて。
「ん、これからジジィと合流してリナリーとモヤシくん拾って、クロス元帥の護衛に出るんさ。駅一緒だから一緒に行こうと思って。方向真逆だケド。ていうかそんな名前だったっけ?」
 首をひねるラビの目に、吐き出す白い息が映る。その白だけでも交ざらないかななんて思って、苦笑した。相変わらず想いは消えなくて、顔を見かければ、一緒にいられる理由を必死で探して。
「あんな白くてヒョロヒョロした奴、モヤシで充分だ」
「いやいやユウ人のこと言えないさ。なにこの細い手首」
 ちゃんと栄養摂っているのかと、掴み持ち上げた手首。見た目よりもずっと細くて、ラビは眉を寄せる。元々食は細い方だったけれど、こんな手でアクマと闘っているのかと。
「離せ」
「食欲とかないんか? 身体の具合どう? オレでよけりゃ診てやるけど」
 新人と行った任務では、また大怪我をしたと聞いた。またどれだけ命を削ったのだろうと考えると、正直任務になんか行ってほしくない。だけど自分では止めることができないし、誰が言ったところで変わりはしないだろう。
「……」
 じ、と見つめ返してくる神田には、自分はどんなふうに映っているだろうか。手を振り払わない彼が何を考えているのか、今ではもうわからなくて情けなかった。
「ユウ? どうしたんさ?」
 何か言いたげな口唇は、それでも何でもないと告げて手を振り払う。吹雪き、積もり始めた雪を踏みながら、あの頃よりずっと口数の減った神田の後を歩いた。
「けど楽しみさね。新人クン見んの」
 聞けばイノセンスは寄生型だという。興味はあった。寄生型というそれだけでも珍しいものだし、いったいどんな闘い方をして、何を救おうとしているのか。
「国籍は? トシ幾つかな」
「……知るか。そんなもの」
「えぇー。ユウが珍しく興味持ってるみたいだから、訊いたのかと思ったのに」  そう遠くない駅までの道のりを、そんな会話で繋ぐ。そんなに気になるなら自分で訊けと一蹴されて、神田がイラついているらしいことは理解できたけれど。
「ユウ、なんか機嫌悪い?」
 理由まではやはりわからない。何かしただろうかと問いかけてみても、ただ無言で見つめ返してくるだけだった。
「……言いたい事はちゃんと口に出した方がいいさユウ。それでなくてもこれからしばらく逢えないのに。あ、そうだ、新人クンの感想、無線で言ったげるさ」
 楽しみだ、と続け時刻表を見上げる。神田の乗る列車の方が出発が早い。
 見送ろうと、ホームまで後をついていく。伯爵は動き出してしまった。今度会えるのは、本当にいつのことだろう、と考える。
 恋人同士だったらこんな時は、きっと抱き合ったりキスをしたりするんだろう。当然ながらどちらもできはしない。
「ラビ」
 列車がホームに到着し、風で神田の髪が流れる。ともすれば聞き逃してしまいそうな声だったけれど、ラビが愛しい音を逃すはずはなく、振り返る彼に、ん?と首を傾げてみせた。
「オマエ、オレの気持ち知ってて言ってンのか」
「────え?」
 随分興味があるようだな、と責めるように言い募る神田に、その言葉の意味を量りかねたラビは、頭の中で反芻する。
「オレの前で、他のヤツに逢うのが楽しみだなんて言うなよ」
「ユウ?」
 それでもわからない、という表情をするラビに少しだけ息を吐いて、神田はもう間もなく出発する列車に乗った。
 屋根を逃れた白い雪が、ホームの端に降り積もる。出発を告げるベルの音に、それは震えたように見えた。
 神田は、ゆっくりと口を開く。
「ひとつ教えといてやろうか、ジュニア」
「ん? なに……────え……?」
 ラビは目を瞠った。
 今ではもう聞かない音の名だ。
「……ユウッ、今…っ」
 あの時からずっと、神田がこの名を口に出したことはない。そうだ。そのはずだ。
 だって。
 封じ込めたのだから。



「オマエの暗示、全然効いてねぇぜ」



「────ユ……!!」
 目の前で、扉が閉まる。列車が動き出しても、そこから動けずにいた。
 封じ込めたはずだった。
 何度も何度も暗示をかけて、潜在意識のずっと奥底まで追いやったはずだった。
「……ッ」
 封じ込め……きれなかった。
 では総てを覚えているのだろう。封じたと思った、総てを。
 この一年、かけてきた暗示は無駄に終わった。それでも負担にならぬようにと、忘れていない真実を押し隠して背を向けてくれていたのかと考えたら、どうしようもない愛しさに駆られてしまう。
「タチ悪いさ、バカヤロウ」
 降りしきる雪を見上げて呟いた言葉は、神田に対してか自分に対してか、それとも神に対してか。








 何も変わらなかった。それからも何も変わらなかった。
 自分たちが一緒にいられないのは解かっているし、愛しているなんてとても言えはしない。
 あんなこと言うつもりはなかったんだと無線で告げられた時にも、ただ笑ってうんと頷く。【オマエがそうして欲しそうだったから、何も知らない振りをした】と言われた時も、ただ解かってると頷いた。
 すまない、ジュニアと謝られた時だけ彼の名を呼び返し、ごめんと返した。どういう意味での謝罪だったのかは、今でもわからない。
 雪が降る。雪が降り積もる。
「トシいくつ?」
「十五くらい」
「あ、オレお兄さん。十八だもん」
 春になればこの雪は消えていく。何事もなかったかのように、静かにゆっくりと。
「十五ねぇ〜。白髪のせいか、もっとフケて見えんぜ」
 犠牲になった恋になど見向きもせずに、密やかに。
 春になり夏を迎え、秋を通り過ぎてまた冬を愛して。
「あ、オレのことラビでいいから」
 ラビは笑う。何事もなかったかのように。
 静かに、ゆっくりと。




「ジュニアって呼ぶヤツも、いるけど」



 歩ぶめど、春にまだ遠く────。