追憶

2006/10/08



 神田が、記憶を無くした。
 彼女は……リナリーは確かにそう言った。自分の耳がどうにかなってしまったのかとも思ったが、彼女の表情を見る限りでは、そういう事でもないらしい。彼女の表情から、焦りと困惑が見て取れる。
「……ユウ、任務行ったんじゃなかったっけ。もう帰って来てるんさ?」
 ようやっと搾り出した声が、震えているのが分かる。
 別れる前は普通だったんだ。日課のようになってしまった任務に、なんでもないような顔して出かけて行ったのはつい数日前の事。
「何があったのか、分からないのよ。単独任務だったし、探索部隊も帰ってこないの」
 どうしようラビ、とリナリーの黒髪が揺れる。
「怪我、……してんの?」
 ラビは少し俯いた。
 こんな風に失うなんて。誰よりも大切だった。世界を敵に回しても、生きる道を違えても、共にいたいと思うほど、大切な人だった。
 ああこれが、やっと下った天罰か。
 別れる前に、口づけた彼の顔が浮かぶ。
 またなと囁き合って、温もりを手放したのは数日前。
 ほんの、数日前。
「怪我はしてなかったわ。本部の前に倒れてるとこ、発見されたみたいなの」
 ラビはふぅと息を吐く。
 怪我は、しなかったのか、それとも梵字の力が発動したのか。
 でも、生きている。
 生きて、いてくれる。
「どうしよう、どうしたらいいの、ラビ……っ」
「リナリー、落ち着くさ。ダイジョブ」
 縋りついてくる細い指先。頼りなく震え、安息を求める。ラビは微笑んでそう返すが、
「ダイジョブじゃないよ! だって何も覚えてないの! 私の事も、アレンくんや兄さんや……っきっとラビの事だって覚えていないのよ!?」
 叫ぶリナリーの両肩をガッと掴み、正面から覗き込む。
 それはともすれば、彼女の口から流出する【現状】を堰き止めるためにも見えた。
 何も、覚えていない、その現実を。
「リナリー。ユウにオレの事、何か話した?」
 あまりに静かな声に、リナリーの喉が凍りつく。肩を掴む両手は力強く、それなのに頼りなく思えた。
「あ……っご、ごめんなさいまだ、何も…っ」
 私混乱していて、と絞り出された声に、ラビはホゥッっと息を吐いて腕の力を弱め。
「いいんさ。話してないならないで、その方が」
 何にしろ彼の状態を見なければならないだろう。
 記憶を無くしたと言うが実際どの程度のものなのか。ほんの少しの衝撃で、取り戻せるものなのか、それとも一生戻らないような深いものなのか。
「ユウは、今?」
「今医療室よ。本当についさっきだったの」
 そこへ、同じく任務に就いていたラビが帰ってきたという訳か。
「そっか。じゃあ顔見に行くさ」
 そう笑ってラビは歩き出した。リナリーがそれを呼び止める。
「ラビ…、……大丈夫…?」
 ふたりの関係を知るためか、躊躇いがちに呟かれた言葉に笑い返し、
「ダイジョブさ、リナリー」
 静かに、足を進めた。





「本当に、何も覚えていないんですか?」
 ベッドの上に半身を起こし、責めるような眼差しに神田はあぁと呟き返す。
「情けないですよね、何があったかさえ覚えていないなんて」
 アレンがふわりと笑った。だが次の瞬間白の髪が揺れて。
「ふざけないでくださいよリナリーにあんな顔させて!!」
 ガッと音が聞こえるほど激しく、アレンは神田の胸ぐらを引き掴んだ。目に見える抵抗もせずに、彼の身体は引力に負ける。
 神田の身体に外傷は見受けられない。こうして間近で見ても、まったくの健康体なのだ。
 検査のために団服は脱いでしまったけれど、白いシャツに映える長い髪も、睫毛の奥に揺れる瞳も、神田ユウその人のものに間違いない。
「悪いけどな、本当に何も覚えてねぇんだよ。アンタが誰なのかわかんねぇし、あの女の名前も、自分のことさえ何も覚えてねぇ」
 自分の意思で忘れたわけじゃない、と神田は続けるが、それでもアレンの腕は怒りにか、僅かに震えていた。
 アレンだって、解かってはいた。彼が、忘れたくて忘れたわけじゃないことくらい。思い出したくなくて思い出せないわけじゃないことくらい。頭では解かっていても、感情がそれについていかなかった。
「記憶喪失って、ショック与えると治るって聞きますよね」
 別に、特別仲が良かったわけじゃない。いや、正直悪かったと言ってしまっていいだろう。
 神田が、アレンの呪われた左眼を良く思っていないのは出逢った時からだったし、任務だって一度しか共にしていない。本部内ですれ違っても、言葉を交わしたことは、果たしてあっただろうか。
 そんな自分でさえ、心の隅で、仲間だという意識があった。それを根本から引っこ抜かれてしまった様で、気持ちが沈んでしまう。
 伯爵のシナリオを止めるために集った【同志】として、怒りを覚えるのに充分な理由だ。
 だとすれば、自分より付き合いの長いリナリーは、どうだろうか。
 ラビの帰還を知り、涙を我慢して走り去った彼女は、どれほど傷ついてしまっているだろう。
「試してみませんか?」
 そう言って笑い、突き放すように掴んだ神田の胸ぐらを解放した。
 左手のグローブを引き抜くと、神田が僅かに息を呑んだのがわかる。そうか、【彼】はこの赤い左腕を見るのは始めてなんだ。
「おま……なんだ、その手……ッ」
 恐怖さえ見え隠れして、可笑しかった。【神田】からは、想像もできないような態度。
「僕のイノセンスですよ。寄生型のね」
 ヴ……と空気が揺れて、アレンの腕が形を変える。巨大な手、第一段階の形だ。神田はその変貌を、まるでヒトではないものに遭遇したような瞳で見つめていた。
「覚えてませんか? 僕がこの教団本部に来た日、敵と間違えられてあなたに斬りつけられたんですけど」
 もう遠い日のことのようにも思える。ごく最近だったようにも思える。
 六幻で傷つけられた、アレンのイノセンス。コムイに治療をしてもらったけれど、その【記憶】は確かに残っていた。
「…………ッ」
 なんてことだ。冷徹人間と評される神田ユウが、今目の前で震えている。人間の力ではないものに、怯え震えている。いっそ貴重な光景だ、とアレンはしばし見入った。普段が普段なだけに、なぜだか裏切られたような気分だ。
 凶悪な感情を、抑えきれずにアレンが左腕を振り上げる。グオォッと裂かれる空気の音に、神田の身体が戦慄いた。
「アレンくんっ!?」
 その腕が神田に向かって振り下ろされる、寸前。扉を開けて入ってきた少女の声に止められる。
「ダメだよ何してるの!?」
「離して下さいよリナリー! 一発殴ってでもやれば、治りますよこんなもの!」
 振り上げられた左腕にしがみつき、止めるリナリー。
 よほど悔しいのだろう、顔が苦痛に歪むアレン。
 口唇を引き結び、どこか他人事のようにさえ眉を寄せる神田。
 ラビはその光景を部屋の外で眺め、ふぅと息を吐き出した。
「こらこらアレン。ショック療法もあるとは言え、オマエのそれじゃ、ちょーっと衝撃が強すぎるさ」
 そんな風に笑いながら、アレンと神田の間に入る。
 神田の目に、広く黒の背中が映った。
「怯えちゃってんじゃん。こんなんじゃ、思い出すもんも思い出せないさ」
 なぁ?と振り向いた先で、ふたりの視線がぶつかる。気づいて、アレンもリナリーも、動きを止めてしまった。
 息が苦しい。
 瞳の力は変わっていないな、と思い、ラビが口を開きかけたところへ。



「誰だ、アンタ」



 容赦なく襲う、神田の言葉。後ろで、息を呑む音が二つ。
 ラビは微かに笑って肩を竦めた。
「ひっでーなぁ、オレのことも忘れちまってんの? あんなに仲良かったのにさ」
 仲が良かった、というだけで片付けられる間柄じゃなかった。見ている方が照れくさくなってしまうくらい、仲の良い恋人同士だったのに。
「……すまない、何も覚えてねェんだ」
 その恋人のことさえ忘れてしまっている。自分のことさえ、何ひとつ覚えていないのだ。
「クッ、ククク」
 次第に俯いていく神田を見下ろして、ラビは肩を震わせた。
「アハハハハハハハッ、もーダメ耐えらんねー」
 突然高らかに笑い出した彼に、三人ともが目を丸くする。
 ショックが大きすぎたのだろうかと、アレンもリナリーも余計不安になった。
「んな顔すんなって。オマエがオレを覚えてないのは無理もないさ。会話だってほとんどしたことないんだから」
「あぁ?」
 腹を押さえながらカラカラと口にするラビを、神田はゆっくりと睨み上げる。
「ラビっ……!?」
 何を言っているのかと、問いただそうとするリナリーを横目で止めて、ラビは神田に向かって笑いかけた。
「どんな反応すんのか、確かめたかっただけなんさ。今後の参考にね」
「参考? アンタ、医者か何かなのか」
 そういえば自己紹介をしていなかったなと、気づいてラビは口唇を動かす。
「初めまして神田。オレ、ラビっていうんさ」
 歴史の記録を生業としているエクソシストだと続け、後ろで、事の成りゆきを見守っていたアレンとリナリーをそれぞれ紹介した。
「忘れたんなら、また覚えていけばいい。すれ違っても挨拶程度のオレはともかく、こいつらは覚えてやって」
「ちょっと、ラビ!」
 腕を引かれ、身体が揺らぐ。振り向けば、不安そうなリナリーの顔が目に入った。
「どういうつもりなの!? 神田とあなたは……!」
「ごめんリナリー、アレン、ちょっと外に出よう」
 ラビにしては珍しく、眉を寄せて言葉を遮る。
 ふたりの身体を押して、医療室の外に出た。
 扉にもたれ、ラビは軽く息を吐く。
「ラビ、なんで? なんであんな嘘つくの」
 いちばん仲が良かったのはラビであるはずだ。共に朝を、夜を過ごし、求めた安息は互いの腕だったはずだ。
「……頼みがあるんさ、二人とも」
 神田に自分とのことを話さないでほしい、とラビは続ける。
「ラビ、でも」
「気づかんかったさ? アレン。アイツすげぇツラそうに眉寄せてた。自分のことも分からん上に、仲間だっていうヤツを思い出してもやれん、て、やっぱり苦しいんじゃないかな」
 アレンもリナリーも、ハッとして気づく。責めることしか思いつかずに、神田の気持ちにまで考えが及ばなかった。
「この上さらに負担をかけるなんてこと、オレにはできんさ」
 ただでさえ常識外れの関係だったんだ。モラルを通り越した、その事実を受け入れるのは、今の神田には難しいだろう。
 自分の感情は二の次でいい、と笑うラビに、何も言ってやれない。薄情だ、と思っても、今はどうすることもできないのが現状だろう。
「だから、頼むさ二人とも」
 自分とのことは言わないで、今までと同じように接してやってくれ。
 そんな風に微笑まれては、イエスと言う他にない。
「分かりましたラビ。僕たちにできることがあれば協力しますから」
 彼はもう決めてしまっている。自分たちにできることはもう、援護くらいだ。
「苦しくなったら言って下さい」
 そうしてアレンは少女の肩を抱く。
「行きましょうリナリー。ここはラビに任せた方がいい」
 少女は躊躇いがちに頷いて、せめて幸福が訪れますようにと神に祈った。
「ラビ、神田はきっと思い出してくれるよ」
 そう言って、アレンと共に背を向ける。それを見送って、ラビは医療室に戻っていった。