追憶

2006/10/08



「さてと。神田、疲れてるかも知れないけど、今の状態聞かせてもらえる?」
 ベッドの上から不審そうに見上げる神田に気づいて、ラビは傍らの椅子に腰かけた。
「さっきも言ったけど、オレ歴史を記録してるんさ。神田が記憶なくした経緯とか、その時の状態とか、なんか事件性があるなら知っておきたい」
 もっともらしい理由をつけて納得させる。神田は戸惑いながらも口を開いた。
「じ、状態って言われてもな……自分の名前も言えないような、としか」
 さっき教えられた神田ユウという名前も、何故だかしっくりこない。必死で記憶を手繰り寄せようとしても、目の前が真っ暗で、手にしたい記憶など見えてこない。
「気がついたらこのベッドで寝てたんだ。それ以前のことは思い出せない」
 自分が本当に神田ユウという人間なのかさえも疑わしい。それを教えた人間は自分を知っているけれど、その知っている人間を自分は知らない。
 奇妙で、気味が悪い。
「思い出そうとするとどんな感じ? 頭が痛いとか、動悸が速くなるとか」
「……目の前が……真っ暗で、頭の奥の方がズキズキ痛む」
 ゆっくりとした口調から、思い出そうと試みているのが分かる。
「何か……妨害でもされているような気分だ」
「妨害、ねえ……何か忘れたいことでもあって、防衛本能とか働いてるんかね」
 ラビはここ最近の記憶を巻き戻してみる。神田に何か悩んでいるフシは見当たらなかったが、もしかしたら、自分では分からないような深いところで、何か忘れたがっていたのだろうか。
「オレからも聞きたい。ここはいったい、何の集団なんだ? 見たところ、国籍バラバラだろう」
 孤児院か何かなのか?と口に乗せる神田に、考え込んでいた意識を引き戻される。
 まずそこから説明しなくてはならないのか、と気づいて、ラビは椅子に座り直した。





 一通りを聞き終わって、神田は頭を抱え込む。
 この教団のこと。この世界で起こっている戦いのこと。神田の、特殊な身体のこと。
「えーとつまり、生み出されたアクマを破壊するエクソシストで、伯爵の描く終末へのシナリオを、オレらは止めなきゃいけねぇんだな?」
 整理するように吐き出された言葉に、その通りさと頷いて、
「後はイノセンスの回収も、大事な任務のひとつさ」
 話が突飛なせいか、神田の眉間にシワが増える。
「怪我しても治るってのは便利だが、命削ってんじゃなあ……」
 そうしてまで戦いたい理由が、自分にあったのだろうかと考え込んだ。何も思い出せることは、なかったけれど。
「アンタもエクソシストだって言ったよな。イノセンス、持ってんのか?」
「ん、持ってるよ。オレのはこれさ」
 そう言って脚のホルスターに手を伸ばし、槌を取ってみせた。
「伸縮自在なんさ、これ。大きさもね。叩き壊したり、自然の力を借りて攻撃もできる」
 指で器用に回されるそれを、神田はじっと眺める。
「……オレのは? オレも持ってんだろ?」
「神田は確か刀だったはずさ。えーと……あ、あったあった」
 きょろりと見回した医療室の隅に、立てかけられた長い棒。十字の装飾が施してあり、教団で造られたものだと分かる。
「聞いた話じゃ、剣気を物体化して攻撃するらしいさ。六幻、だったかな、こいつの名前」
 それを手に取り、神田に渡そうと持ってくる。恐る恐る腕を上げる神田。


 ビリッ!!


「……ッ!?」
 神田の指が触れた途端、走った電流のような衝撃と、それに伴う痛み。受け止められなかった六幻が、床に落ちて音を立てた。
「な……」
 何が起こったというのだろう。
 反射的に引っ込めた腕を掴み、神田は床に落ちた六幻を見下ろした。
 触れない。自分が扱っていたはずの物なのに。
「それ、本当にオレのなのか?」
「間違いないさ。オマエのだよ」
 だとしたら何故触れないのか。イノセンスが、適合者を拒むなんて。
「も、もしかしたら記憶なくなったせいでシンクロ率下がったんじゃないかな。上手くシンクロできないと、発動もできんしさ」
 落ちた六幻を拾い上げ、思い当たる理由を告げてやる。
「一気に詰め込み過ぎて、脳とか身体が拒否反応起こしたってことも考えられるさ?」
 ゆっくりひとつずつ覚えていった方がいい、と付け加え、笑いかけた。
「悪かったさ、疲れてるとこ。少し休んだ方がいい」
 自分は部屋に戻るから、と背を向けたラビを、神田が呼び止めた。
「あ、……と、その……ラビ、だったか?」
 呼び止めた自身の行動に戸惑ってか、神田の視線が泳ぐ。うん?と振り向いたラビに、
「その……親しくなかったアンタにこんなこと頼むのもどうかと思うんだが」
「頼み? なに?」
「……この教団の事が、まださっぱり分からない。どこに何があるのかも」
 決まりの悪そうな顔で呟かれるそれに、ああそうかとラビは気づいて微かに笑う。
 自分の事さえ覚えていない神田に、教団の内部構造など分かるはずもなかったのだ。
「アンタの空いてる時間でいい、ここの事を教えてくれないか」
 教団の事、世界の事、自分の事。
「さっきのヤツらには、やはり訊き辛いんだ。あの責めてるような、寂しそうな目は見たくない」
「……ま、そうだろうな。けどアイツらがオマエの薄情さを責める気持ちもわかるからなあ。察してやれよ?」
 ため息と共に吐かれた言葉から視線を逸らし、
「解かっている。だからアンタに頼んでんじゃねーか」
 親しくなかったのなら、状況を客観的に見てくれるだろう。そう思っただけなんだ。
「オーケイ、いいよ、空いてる時間でよけりゃ?」
 まさかいちばん親しい人間に頼んでいるとは、思いもよらないだろう。だがそう思わせているのは、他ならぬラビ自身。
「すまん」
「ただし条件があるさ」
「な、なんだ?」
 ピッと人差し指を立てたラビに、神田は尻込み。どんな条件を出されるのかと、息を呑んだ。
「オレと友達になってくれる?」
 僅かに首を傾げ、お伺いを立てる彼に、毒気を抜かれる。
 プライベートな時間をもらうのだ、金か労働か、相応の条件を出されるだろうと思っていただけに、アテが外れた。
「……ったく、どんな難題が出てくるかと思えば、そんなことかよ」
「ダメさ?」
「いや、アンタが迷惑でなければ」
 良かった、と笑う顔が目に入る。友達になってくれ、などと、男が面と向かって口にする事だろうか?と考えて、可笑しくなった。
「じゃあ手始めにこの塔案内するさ」
 立てるかと訊ねられ、神田はああと頷く。怪我をしている訳ではない。記憶がない他は、通常と何ら変わりはないのだ。
「とりあえず六幻部屋に置いてこようか。触れないんじゃ、荷物になるし」
「そうだな、まずは自分の部屋を見てみたい」
「んじゃそこの団服羽織って……黒いのね。エクソシストの証しさ」
 ベッドから降りた神田は、柵にかけてあった黒いコートのようなものを手に取り、バサリと羽織った。
「すげぇなこれ。装飾、銀だろ」
「うん。ボタンのひとつひとつに名前彫ってあるしね。ヴァチカンのお偉いさんも、結構な金つぎ込んでくれてるんじゃねえ?」
 ひとえに、それだけの大事だということだ。
 ふたりは揃って医療室を後にし、歩き出す。端から見れば、仲の良い友人同士。
 ゆっくりと案内しながら、初めに目指したのは神田の部屋だ。物に執着がないせいか、あまりインテリアが置かれていない。神田はくるりと部屋を見渡して、
「……ダメだな、懐かしいとさえ思わない」
 奥に置かれたベッドにも、手前のテーブルにも、棚やクローゼットさえ、見覚えがない。
「ふうん、神田の部屋ってこんなだったんだ」
 ラビは、まるで初めて訪れたかのように振る舞う。この部屋で、何度も触れ合ってきたというのに。
 抱きしめて、キスをして、繋がり合って。
 世間の恋人同士と同じように、いくつもの季節をやり過ごしてきた。
 まさかこんな日が来るなんて、思ってもみなかったんだ。
「あの蓮、なんだ?」
 神田の声にハッと顔を上げる。
 寒々としたこの部屋に、唯一の飾り。閉じ込めたような蓮の花。
「えーと、神田が探してる大事な人に関係あるとか、聞いたような気はするさ。そーいう話はリナリー達の方が詳しいんじゃないかな」
「人、探してんのか……」
 あんなものを置いているなら、相当大切な人だろうに、名前さえ思い出せない。
 じっと見つめてみても、そっと触れてみても、何も浮かんでこない。
「情けねえな」
 自嘲気味に笑って、その蓮から視線をずらした。
 目に入ったのは、棚に置かれたコーヒーカップ。揃いの物が、ふたつ。生活感のないこの部屋には、不似合いだ。
「神田?」
 ゆっくりとそれを手に取る。
「なあ、オレ、誰か大事なヤツがいたんじゃねぇのか」
 探し人、以外に。
 ラビは傍の椅子に六幻を立てかけて、神田がそう思う理由を訊ねた。
「このカップ、結構使い込んでるみたいだし、揃いなんて意味深じゃねぇか」
 そうだ、それは神田とラビが使っていたものに違いはない。自分に関連するものを片付けておくべきだったとラビは思ったが、そんな余裕はなかったんだ。
「どうだろね。仮にいたとしても、なんで神田の一大事に駆けつけないんさ?」
「……任務に出てる、とか」
 棚の奥に置かれたコーヒー豆も茶菓子も、ごく最近使った形跡が見られる。
 こんなものが常備してあるということは、この部屋に頻繁に出入りしていた人物がいるのだろう。
「ああ、可能性としてはあるかもね。……どう? 何か思い出せそう?」
 神田はカップをしばらく眺め、やがてゆっくりと首を振りながら、カップを元に戻した。
「……いや……ダメだな、何も思い出せない」
 日常の中で培ってきたものが、こうも簡単に消えてしまうなんて。【日常】にすら、執着していなかったのだろうか。
「そっか。まあ慌てることないさ。その内パァッと思い出すかも知んねーし。行こう」
 他のところも案内する、とラビは神田を連れ出す。
「こっから五つ目がオレの部屋さ。師匠と一緒だけど」
 何かあったらいつでも来るといい、と笑う。
「迷路みたいだな。絶対迷う」
「あっはっは、アレンと同じこと言ってるさ」
 もっとも彼の場合は、生来の方向音痴も加わって、迷いやすいらしいのだが。
「アレン……て、あの髪の白いヤツか?」
「そうそう。アイツのイノセンスは寄生型でさ。見ただろ、左腕」
 言われて、医療室での事を思い返してみる。赤かった左腕がみるみるうちに変形していき、巨大な腕になったのを、この目で見た。
 人に在らざるものだ。
 あれが恐ろしいと感じてしまう自分が、どうして彼らを仲間だと言えるのか。
「あんな異質なものが世界を救っても、人間たちはそれを受け入れてくれるのか?」
「神田?」
 足を止めてしまった神田を、少し先からラビは振り返る。
 神田の言うことも、分からなくはない。神の使徒と言われるエクソシストは、普通の人間からすればさぞかし異質なものに見えるだろう。
 そして人類は、異質なものを排除するクセがある。
 黒の教団は、ヴァチカンの庇護のもとで存在しているが、事実世間の人々に受け入れられてはいないだろう。
「受け入れてもくれないヤツらのために、命がけで戦う意味が、あるのか?」
 眉を寄せる神田に、ラビは静かに口を開いた。
「神田。オレ達は何も、英雄になりたいから戦ってるわけじゃないさ。使命感なんて、掲げてるヤツはほんの極僅かだし」
 では、何故。と、神田は視線だけで問いかけた。



「大切なひとが、生きてる世界だから」



 そう言って笑い、ラビは背を向けて歩き出す。少し遅れて、神田も歩を進めた。
「大切な人が生きた世界、愛した世界。理由は人それぞれだけど。元を辿れば至極単純なことだと思うさ」
「……ラビ、アンタもか?」
 並んだ肩を振り向いて、返答を待った。
 言葉はなかったけれど、照れくさそうな笑い顔で、充分に伝わる。
 そうか、世界には命を賭しても構わない程の愛情が、星みたいに散らばっているのか。
「教団のヤツ?」
「まあね」
「リナリーとかいう、あの綺麗な髪の女か?」
 立て続けの質問攻めに、ラビはまさかと肩を竦める。
「リナリーに手ぇ出したら、コムイが黙ってないさ。兄妹なんだけどね、あの溺愛っぷりは見てて面白い」
「ハ、恋人でもできたら大変だろうな」
 笑う神田に目を瞠り、つられて笑う。
「そうさね〜、今アレンが頑張ってるみたいだけど」
「へえ。アンタのは? いるんだろ、大事なヤツ」
 どんなヤツなんだと、興味が本位で訊ねられ、苦笑した。
「今ここにはいないよ」
 まさか隣りを歩く人物がそうなのだとは言えないで、ハハハと頬をかく。
「すっげえ美人なんだけどね、口が悪くてさ。歯に衣着せないっていうか。他人を見下す発言も多いかなあ」
 笑いながら言うことだろうか。想像して、神田は頭を抱えた。
「最悪じゃねぇのか、それ。アンタもう少し人を見る目養った方がいいぜ」
「でもその子ね、自分が周りからなんて言われてるか自覚してるんさ。心がないだの冷血漢だの、色々ね」
 自業自得だろうと眉を寄せる神田に、ラビは。
「そうやって他人遠ざけて、誰も自分に執着しないようにしてるんさ」
 神田には解からなかった。何故そんな面倒なことをするのか。
「自分が死んだ時、誰も悲しまないように、わざとそんな風に振る舞ってる」
 身を守る術のないヤツらが煩わしいってのも本音なんだろうけど、と付け加える。戦闘になったら、それを守りながらでは到底敵わない。
「それが解かっちゃってから、コロッといっちゃってさ。必死で口説き落とした」
 大変だったさ、と続けるラビの横顔は、それでも清々しいと感じられるもの。きっとその頃のことを思い起こしているんだろう。
「だから誰よりアイツが大事。オレにしか見せない顔とか、結構いっぱいあってさ。超嬉しい」
 よほど大切なのだろう、眺める横顔は、何よりも優しかった。
「……もし、そいつがアンタのことを忘れても?」
「え?」
 ギクリとした。
 まさかと思ったが、ラビとの関係に気づいている様子はない。自分が記憶を失った今、大切だった人間は変わらずいてくれるのか、不安でたまらないんだろう。
「そいつがアンタを忘れちまっても、アンタはそいつが大事だって言えんのか?」
「言えるさ」
 迷いなく吐き出された言葉に、神田は小さく息を吐いた。
「生きてそこにいてくれんなら、それでいいよ。オレがアイツ忘れちゃうよりずっと幸せさ」
 そうだ、大事なひとはまだ生きてここにいる。言葉を交わすこともできる。抱きしめることだって、きっとできるだろう。
「神田が不安な気持ちも解かるさ。でも信じてやれよ、大事なヤツなんだったら」
「……自分のことさえ信じられないのに、どうしてまだ顔も思い出せないヤツを、信じることができるんだよ」
 投げやりに呟かれた言葉を、どうやって良い方に導いてやろう。
「自分の名前を、生き方をアンタらに刷り込まれて! それを信じるしかねえのに! なんで他人の気持ちなんか信じれる!」
「神田」
 目を開いても真っ暗で、手繰り寄せようとしても何も掴めない。まるで切り立った崖に独り置いていかれたような感覚に支配される。
「オレがそいつをどんな風に想ってたかもわかんねぇのに、大切だったなんて言えるわけねぇだろ!」
「神田!」
 グイ、と身体を引き寄せる。
「落ち着けよ、独りじゃねぇんだから」
 腕の中にすっぽりと収めて、大丈夫だと背を叩いた。
「……ッ」
 神田の熱がカッと上がる。突然の体温に驚いて、もがきラビの身体を突き飛ばした。その体温が怖い、と感じてしまったことを、神田自身まだ気がついていないだろう。
「あ……」
「……────悪い、落ち着かせようと思って」
 苦笑したラビは、そのまま背を向ける。戸惑ったような神田の顔には、気づかないフリをした。
 ────オレの腕も、体温も忘れてんのか
 抱きしめた腕をじっと見つめて、気づかれないように息を吐いた。
「す、すまん、少し驚いたんだ。……怒った、か?」
 神田の細い声にハッと後ろを振り向き、不安げな彼に笑ってみせた。
「怒ってないさ、別に。神田の国じゃ、あんまりスキンシップしないみたいだし、オレの考えが及ばんかっただけさ」
 そうだ、自分の感情は二の次でいいはずだ。ラビはコクンと唾を呑む。今自分がしなければいけないことは、過去を想うことではなく神田の不安を取り除いてやることだ。
「神田、腹減らん? ここの食堂、なんでも揃っててオイシイんさ」
 笑うラビに、そういえばと腹を押さえる神田。空腹など、気にしている余裕はなかった。認識した途端きゅるんと鳴る腹の虫。
「よし、じゃ、行こうか」
 並んで、歩き出すふたり。
 感じる息苦しさなどなんでもない。
 痛む頭など疲れのせいだ。
 重なる足音が、記憶の奥底に沈んでく。



 愛してるなんて、怖くて言えなかったんだ。