追憶

2006/10/08



 朝起きたら、神田の部屋に直行するのが、ラビの習慣になってしまっていた。だけどそれは恋人だった頃のことで、今はただの友人同士だ。おはようのキスをしに行く理由がなくなってしまったどころか、神田の国では必要以上の接触の習慣はない。気色が悪いだけだろう。
「カーンダ、おはよー」
 それでも友人として起こしに行くなら問題ないだろう、と苦笑しながら扉を開けたのは、確か五日前のこと。
「ああ、おはようラビ」
 部屋に向かうと、もうすでに身支度を終えている神田に、戸惑いつつもラビは笑う。
 いつもは寝起きが悪くて、起こすのに苦労していたのに。揺り起こしてキスをして、抱きしめてやっと起きてくれる。実を言うとそれは朝の楽しみの一つで、とても好きな行為だった。それが、今までの朝の日課。
「……ラビ、目が赤いな? 寝てないのか」
 今はそれをする権利も、理由もない。
 目の前にいるひとが本当に神田ユウなのかと思うほど、以前の彼とは違ってしまっていた。それでもラビの様子に、すぐに気がつくところは以前と同じ。
 ラビは苦笑いして答えた。ちょっと資料を読んでいたんだと。
「睡眠はちゃんと取れよ。身体に悪い」
「うん、ごめんありがと」
 本当は、眠れなかったのだ。これからどうすればいいのかと考えて。
 何が原因で記憶をなくしてしまったのか、どうすれば治るのか。
 イノセンスまで扱えなくなってしまうのは、本当に重症なものではないだろうか。
 そこまで考えて、神田の戸惑ったような視線に気がつく。ラビは目蓋を伏せて、そして開ける。
「神田、ご飯食べに行こう」
 意識を切り替え、笑ってそう言うと、神田の緊張がふっと緩んだのが解かる。そうだ、ここで自分が取る態度は、神田の不安へダイレクトに繋がってしまう。できるだけ、自然に過ごさなければいけないんだ。
 つい最近仲良くなった、友人として。
「今日の日替わり、なんだろうね。神田何食べる〜?」
 部屋を後にして、並んで食堂へと足を向ける。
「別に何でも。面倒だから、アンタと一緒のもんでいい」
「えー、オレと一緒だと、……オムライスとかになっちゃうさ?」
「ガキくせぇな。いいけどよ、別に」
 ラビしか知らない神田の表情は、確かにいくつもあった。だけど、こんな風に笑う人ではなかったはずだ。
 やはり違和感は拭いきれない。早い起床といい食べ物といい、神田の生活習慣が変わってしまっている。以前だったら何があっても和食しか食べなかったのに、洋食とは。
 神田ユウの影を、今の彼に見出せない。
「なぁ神田、何か、その……思い出した?」
 俯く横顔は確かに神田ユウのものだけれども、神田ユウではないと感じてしまう。共に過ごした記憶を失くしただけで、こんなにも印象が違ってしまうものなのだろうか?
「……何も」
「そっか、脳波とかは異常ないのにね」
 だけど、自分がそんな風に思ってしまってはいけない。本当に【神田ユウ】なのか解からずいちばん不安を感じているのは神田自身だろう。
「でも、結構ラクだな。傍にいんのがアンタだし。気兼ねしないで済む」
 リナリーやアレンでは、向けてくる視線がやっぱり違う、とため息を吐いた。彼らの気持ちは解からないでもないが、自分を否定されている様でやるせない。
「そぉ? あんま思いつめんなよ? 逆効果になっちまうさ」
 自分の存在が少しでも助けになっているなら有難い、とラビは思って笑う。寂しいと思う気持ちや、神田を疑う気持ちは捨てていい。
 このひとはまだ生きて、隣にいてくれるじゃないか。
 生きてそこにいてくれるならそれでいいと思ったのは、嘘じゃない。
 たとえ、何を失くしていたとしても。





 朝食に、と頼んだオムライスを口に運びながら、神田が不意に口にした言葉に、ラビは顔を上げた。
「こう……なんて言うかな、変な感じなんだ。思い出したいのに、思い出すものがないみたいで」
 天井を見上げ、必死で記憶を手繰り寄せるも、糸口さえ見つからない。
「え、からっぽってことさ? 神田は今までもこの教団にいたのに」
 思い出すべきものは、あるはずだ。
「そう言われたって、なにも浮かんでこねぇんだからしょうがねーだろ」
「うーん……」
 なにもない、ということは、彼にとって思い出す価値がないということなのか。そうであって欲しくない、と願う。
「神田さ……記憶失くす時って、どんな時だと思う?」
 え、と神田が顔を上げる。神妙な面持ちで考え込むラビの顔が、心臓に痛かった。
 どんな時って、と神田も俯いて考え込む。今自分が置かれている状況だ、とわかるけれど、どんな条件で記憶を失ってしまうのかと問われたら、それは考え込むしかない。
「例えば頭打ってすっぽり抜けちゃったとか、脳みそいじくられて記憶抜かれちゃったとか」
 後者はあまり考えたくないな、と神田は眉を寄せる。
「脳に異常はねぇって言われたぞ」
「でも、なにか理由があるはずさ?」
「…………思い出したくねぇことでも、あんのかな」
 思い当たったことを口に出したら、ラビの息が止まった。危うく手を逃れそうになったスプーンはどうにか引き止めて、訊いた。
「心当たり、あんの?」
 まさかとは思うが、自分が何かしてしまっただろうかと、【彼】に最後に逢った時のことを思い出す。
 任務から帰って神田を待っているうちに眠ってしまったことを覚えている。【彼】がキスをしてくれて、そのまま恋人同士の行為になだれ込んだことを覚えている。
 酷くしてしまっただろうか? 久しぶりに逢えたからといって、あんなに何度も行為に及んでしまった事を、【彼】は怒っていたのだろうか?
 だけど次の日の朝も、【彼】は変わらず笑ってくれた。
 任務に就くために別れる時も、またなと言ってくれたんだ。
 何かしてしまったのだとしたら、言葉さえかけてくれないのが【彼】の常だ。自分が原因であることは、考えにくい。
 だけど別れてからここで逢うまでに、何かあったとしたら?
「いや、だから、ねぇって。こっちが訊きたいくらいだ」
 ため息混じりに口にスプーンを運んで、神田は朝食を平らげる。普段どちらかというと小食な神田にしては、今日の朝食は多い方ではないだろうか。
「うーん……」
 ラビも残ったオムライスを口に運び、些か乱暴に、カシャンとスプーンを放った。
 食器をカウンターに戻し、食堂を出る。
「でも、どうすんのさ? これから」
「どうするったって……どうすんだよ?」
「や、それは神田が考えることだし。もう何日目だっけ?」
 このままでいいはずがない。彼が任務から戻って、つまり記憶を失くして一週間も経つのに、未だにイノセンスに触れない。エクソシストであるはずの人間が、自分のイノセンスを扱えないなんて。
「……っこれ以上何をどうしろって言うんだよ!? オレだって思い出してぇんだ!!」
 そのための努力はしたつもりだ。教団内を歩き回って、知っている場所がないか確認した。イノセンスを扱えないか、触れてみたりもした。
「ホントに努力してんの? 全然解決に向かってねぇじゃん!」
「なっ……」
 まさかそこを疑われるとは思ってなかった。
「もう一週間も経つのに何も変わらねぇ! 何か……何か一個でも思い出せよ!!」
 神田は眉を寄せる。ラビがこんな風に怒鳴ったのは、出逢って初めてだった。
「なんで未だにリナリーやアレンと一線置いてんのさ!? アイツら寂しそうな顔してんの気づかねぇ!?」
 気づいていないわけじゃない。だけどあれを真正面から受け止めるだけの余裕は、まだなかった。自分は彼らの知っている神田ユウの記憶を持っていない。声をかけて、無視されたら? 笑いかけて、拒絶されたら?
 自分はいったいどうなってしまうだろう。
「ラビ」
「オレばかりに頼るなよ! オレだっていつもオマエのこと見てるわけにいかねぇし」
 本当はいつだって【彼】を見ていたい。
「リナリーたちと接触して、拒絶されんの怖い? 結局逃げてるだけさ!!」
 思い出してください。どうか、ほんの僅かでも。
 平気でいられるわけがない。目の前に、誰よりも大切に思っていた人がいるのに。友人として傍にいることしかできないなんて。
 その上、こんなに違和を感じてしまっているなんて。
 神田には、口が裂けても言えやしない。
「……えばいいだろ」
 立ち止まって搾り出した声にハッとする。
 何てことを口走ったのだ、自分は。
「頼るのが迷惑なら、最初から言えばいいだろ!!」
 握りこんだ拳をカタカタと震わせて、まっすぐ睨みつけてくる。
「ご、ごめん神田ッ、オレこんなこと言うつもりじゃ」
「言うつもりがなくても、アンタがそう思ってんのは事実だろ! なんのつもりだよ、ヘラヘラした笑顔向けてきやがって!」
 責めるような眼差しの中、ラビだけが違っていた。何も心配することはないと笑ってくれた。安心してしまうには、それで充分。ラビにそれが解からないはずはなかったのに。
「神田、ごめん謝る」
「悪かったなラビ、あんたに頼りきってばっかで」
 もうしない、と背を向ける神田を必死で追う。
「神田、ごめんってば。そんなつもりじゃなかったんさ!」
 平気だなんて言っておきながら、結局ひとりでイライラしてる。
 【ユウ】を抱きしめたい。口づけをしたい。できることなら恋の言葉を。
「触るんじゃねぇよ!!」
「神田、危ねぇって!」
 ここは階段だ。そんなところで暴れたら。
「!!」
 言わんことじゃない、ラビの手を振り払った神田の身体が、勢いに負けて揺らぐ。重力に従って、神田の身体は落下の一途を辿る。
 ────ハズだった。



「ユウ!!」



 パシリと手を取られる。そのままグイと引かれたような、気がした。
 ドダダダダダダ……ッ
 階段を落ちているんだ、とは理解できたが、衝撃が少ないのはどうしてだろう。身体に巻きつくこの感触はいったい何の。
「……ってー…」
 落ちていた衝撃がなくなって、頭のすぐ上で聞こえたラビの声にハッとした。
 僅かに舞った埃が鼻につく。
「神田。神田大丈夫さ? どっか打った?」
「あ、い、いや、大丈夫だ」
 神田が起き上がる速度につられて、ラビも身体を起こした。階段の踊り場で止まった二つの身体は、さすがに受身を取るのが巧いのか、大事無い。
「ごめん神田。オレちょっと、……自分のことで巧くいかんことがあってさ。イライラしてオマエに八つ当たりした」
 すまなそうに目を伏せるラビに、神田は眉を下げる。今自分が置かれている立場と、彼が置かれている立場を考えれば、自分がじれったくて、彼がイライラしたっておかしくはないのに。
 それでもこの男は自分にすまないと思うのか。
「オレも……悪かった。オレの方こそ巧くいかねェんだ。早くアイツらのこと思い出してやりたいのに」
 この男とも、きっと交わした言葉のひとつやふたつ、あるだろう。
 思い出したい。自分がどんな風にここで過ごしていたのかを。
 何を見て、何を考えて、誰を大切に想っていたのか。
「てゆーかオマエ、馬鹿だろ。普通こんなことくらいで庇うかよ」
「だって身体が動いたんさ」
 泣きそうになる。きっとこんなことは【神田】らしくないんだろう、と思って踏みとどまった。
 そうしてふたりで立ち上がる。申し訳程度に埃をぱたぱたと払い、階段を上がる。ラビは少しだけ振り向いて、自分はこれから書庫に行くけれど、どうする?と神田に訊ねた。
「オレも行く。読んだことあるのがあるかも知れねーし」
 神田ユウが書庫で何か読むことをしていた記憶は、はっきり言ってないのだけれど、とは言わないで、ラビは口の端で笑う。書庫へと歩き出したラビを追って、神田は少し後を歩き出した。
「ホントのこと言うとさ」
 独り言のように呟かれたラビの声に顔を上げる。
「ホント言うと、オマエがオレを頼ってくれて、嬉しいんさ」
 へへへ、と笑いながら口にする言葉に、甘やかすなよと返してやった。
 前を歩くラビの背中が目に入る。気づかないフリをしていたことを、脳が思い出してしまう。
 ラビがあの時、【ユウ】と呼んだことを。
 【ユウ】は神田のファーストネーム。数日を過ごしてみてもこの教団には、神田をファーストネームで呼ぶ人間はいなかった。司令塔であるコムイも、どれだけか仲の良さそうだったリナリーたちも、皆が【神田】とファミリーネームを呼ぶ中でただ一度、この男だけがユウと呼んだ。
「……」
 親しくは、なかったはずだ。ラビは自分でそう言っていたし、自分がする仕種をいちいち物珍しそうに眺めていた。親しかったのなら、珍しくもないだろうことでも。
 そうだ、親しかったのなら、記憶を失くした自分の隣でこんな風に笑ってなどいられるものか。忘れた自分を責めて、一度くらい拒絶したっておかしくない。さっきの衝突はそれに近かったが、意味のない八つ当たりだと謝ってきた。
 ラビの生業とする仕事が、どれだけ大変なものなのか、正直言って神田には少しも解からない。うまく行かなくてイライラすることだってあるんだろう。
 それでもそんな中で友として、自分に接してくれている。言えないけれど、これでも感謝はしているんだ。
 そうだ親しかったはずがない。今急速に親しくなっているから、以前からなのかと錯覚しただけ。
 ラビが自分に嘘を言う理由はどこにもないのだから。
「読んだことあんの、あるといいな」
「……ああ」
ラビを信じてる。
頷いて、振り向かない背中をじっと眺めた。
 一方、神田の前を歩くラビは、右の手のひらをじっと見つめていた。
 さっき階段を転げ落ちたとき、神田の身体に触れた右手。
 触れた感触は確かに神田ユウのものだった。感じた体温も、確かに神田ユウのものだった。頬に触れた髪の感触も、確かに神田ユウのものだった。
 彼は確かに神田ユウである。それはどう考えても、揺るぎようのない事実。
 それなのにどうして、こんなに違和感があるのだろう、とラビは考え込んだ。記憶を失くしているのだ、多かれ少なかれ、違和を感じることだってあるだろう。
 だけどなんだかスッキリしない。
 自分を忘れられたから気分が悪いとか、そんな次元の事ではないのだ。もっと、もっと奥深くで、自分の魂が違うと悲鳴を上げているようで。
「……なんだかなぁ」
「あ? 何か言ったか?」
 小さく呟いた声を聞きとがめられ、ラビは苦笑しながら少しだけ振り向いた。
「ううん、……何も」
 きっとこんな風に感じているのは自分だけなんだろうと思いながら。