追憶

2006/10/08



 コムイは顔を上げた。この男が任務以外でこの司令室に姿を見せるのは珍しい、と。自分は呼び出していないし、任務に就かせるつもりはない。状況が落ち着くまでは変えさせたくなかったのだ。神田を取り巻く環境を。
「どうしたのラビ。珍しいね」
 元々書物を読むのが好きなのか、任務や鍛錬以外では必ずと言っていいほど書庫にこもっていたのに。
「んーちょっと訊きたいことがあって。ごめんさ忙しいのに」
「いや、構わないよ。エクソシストの要望とあらば、僕はできるだけ聞き入れてあげたいからね」
 そう言ってコーヒーを勧めるけれど、すぐに出てくから、とラビは断る。いったい何事だい?とコムイは肩を竦めてみせた。
「ところでどうかな、神田クンの様子は。何度も検査してみたけど、身体的には異常が見当たらないし、脳波も正常なんだよね」
「まだ何も思い出せないみたいさ。六幻にも……まだ」
 そうか、と肩を落とす。
 神田ユウは教団のエクソシストだ。イノセンスの適合者であり、アクマを破壊し得るもの。ただでさえ少ないエクソシストが、自分のイノセンスを扱えない程の【重体】に陥ってしまうとは。
「イノセンスが怒っているのかな」
「そのことなんだけどさ、コムイ」
 ため息混じりに呟いたら、正にそれなんだ、とラビが相槌を打ってくる。え?と顔を上げて、コムイは先を促した。
「身体がまったく一緒の別人て、作れると思う?」
「……どういうことだい?」
「双子とかそういうアレじゃなくてさ、こう……複製を作っちゃうとか、できんのかなと思って。それだとイノセンスは、もしかしたら発動しないかも知れない?」
 確かにイノセンスは、その個人のみに適合する。他の者が扱えるものではないはずだ。
「今の技術では、それほど精巧なものが作れるとは思えないけどな。ラビ、……つまり、神田クンが?」
 コムイの怪訝そうな声に戸惑い、しばらくして解からないと首を振った。体温も肌触りも神田ユウのものであると断言できる。だがそれであればイノセンスは扱えるはずなんだ。
 一週間も経つのに触ることもできないでいるなんて。
「あれの適合者じゃないオレやリナリーにも六幻に触れることはできるのに、適合者のはずの人間が触ることもできないなんて、よっぽどのことさ」
 だから自分は考え得る限り全てのことを挙げているのだと。
 もしかしたらまったく検討外れかも知れない。それでもどこかに糸口が見つかれば。
「そっか、でも今の技術じゃそーゆうの作るのは無理なんか」
 どこかホッとしてしまう。あれは神田ユウの身体だと思ったことに間違いはないのだと。
 あの身体は【ユウ】なんだと
「あーでもちょっと前にアレンくんと神田くんが行った任務で、姿かたちをコピーするアクマってのはいたね。レベル2でさ。もっともそのアクマは鏡みたいに左右が逆だったみたいだけど」
「そんなんがいるんか、アクマも色々さね。じゃあ、今のあいつの身体にアクマが入り込んでる可能性は?」
 これも可能性のひとつだと、ラビはコムイに訊ねる。そういうことは想定してなかったね、とコムイは顎を押さえる。
 神田は思い出すことを何かに妨害されているようだと言っていた。入り込んだアクマが妨害しているとしたら、今の状況もおかしくない。イノセンスに触れないのも、もしかしたらアクマが関係していないだろうか。
「考えられなくもないけど、多分アレスティーナはスキャンしてるだろうし……」
 教団の門番は、人間であるかアクマであるか、スキャンする能力と、義務がある。それは例え誰であっても例外なく確認する。ヴァチカンのお偉いさんでも、だ。
 アクマであるならばこの塔の中には入れられないし、もしそんなものが来ようものなら即刻エクソシストに排除させている。
「今までの戦闘事例を見てもさ、アクマもイノセンスに触ることは可能なんだよね。だから今神田くんがイノセンスに触れないことに、アクマが関係しているとは考えにくいんじゃないかな」
「そっか……でも可能性のひとつとして候補に入れておくさ」
 ラビはそう言って髪をくしゃりとかき混ぜた。複製人形の可能性は限りなくゼロに近くなったけど、こちらはまだ捨てきれない。実際にスキャンをして入塔を許可させた門番サマに確認をしに行こう、とコムイに礼を告げて踵を返した。
 可能性が、ひとつずつ消化されていく。あとに残るものはいったい何だろう。
 門番であるアレスティーナは外側を向いている。そこからの見晴らしはどんなにいいだろうかと的外れなことを考えた。
 ラビは塔を出て、正面の厳つい扉を見上げる。
「おーいアレスティーナ──ぁ」
 口許に手を添えて門番に呼びかける。フルネームなど、長ったらしくて呼んでやれないが。
『よォ、ラビ。どうした、最近任務行ってねぇんじゃねーのか』
 どういう技術を使えば、こんなものが開発できるのだろうか。大きな口が開いて、。合成ヴォイスが発せられた。
「んー、ちょっとヤボ用で」
 コムイが、神田を取り巻く環境に気を遣っているのは解かる。深い関係だとは知らないまでも、ラビがいちばん近くにいたのは知っているのだから、できるだけ思い出せる環境を作ってくれているんだろう。
「アレスティーナ、ちょっと訊きたいんだけどさ」
『ん、何だ?』
 門は高くそびえている。見上げるのは正直首が疲れるけれど、そんなこと言ってられない。例え人であらざるものでも、【話す時は相手の目を見る】という礼儀は必要だろう。
「一週間くらい前さぁ、エクソシストが外で倒れてんの発見されたじゃん? そん時のことって覚えてる?」
『ああ、神田だろ。ヤツが意識ねェ状態でここ通るなんて珍しいからよォ』
 アレスティーナの言うことももっともだ。神田は常人よりも治癒能力が高い。それが幸か不幸かは解からないが、怪我をしてもすぐに回復してしまう。
 だから【彼】が意識のない状態で塔の中に運ばれるなんてこと、皆無に等しいのだ。
「その時さ、アイツのことスキャンした?」
『あ? ああ、したぜ? 神田を運び入れてるヤツらも含めてな。それがオレの仕事だし』
 別に変な反応はなかったと続けるアレスティーナ。スキャンしても通常通りだったということは、神田の中にアクマが入り込んでる可能性も限りなくゼロに近くなった。
 そうか、と俯きかけたところへ、聞き慣れた声。
「ラビ?」
 門の横の小さな扉、ちなみにこれは内側からしか開かないのだが、それがギィと開かれ、黒髪のエクソシストが顔を出す。
「起きたのか」
 それは正に今話題の人物、神田ユウ。
 ラビはその人を振り返って【神田】と名を呼んだ。
「ちょうどオマエの話をしてたところさ」
「オレの?」
 隠す必要はない、とラビは神田にひとつの可能性を説明し始める。神田は黙ってそれを聴いていた。
「そうか、そういう可能性もあるんだな。さすがに気づかなかった」
「もっかいスキャンしてもらう? もしかしたらアレスティーナのバグかも知れんさ」
『おいっ』
 バグなどない、と鼻息を荒くするアレスティーナに少しばかりの謝罪をして、もう一度だけ入念にスキャンしてくれるよう、頼み込む。
『まぁ、いいけどよー』
「サンキュー」
 ハハハと笑う顔はどうしても憎みきれない。破壊力はないがこれもある種の武器だろう。確信的なものなのかそうでないのかは、本人にしかわからないけれど。
『オラ、そこ立ちやがれ』
 普段の神田ユウにこんなことを言おうものなら即刻叩き斬られる。だが神田が記憶を失くしたということは伝え聞いていた。アレスティーナは内心ビクビクしながら口にしたが。
「よ、よろしく頼む」
『……え、あ、ハ、ハイっ』
 逆に面食らって声が上ずる。無気味だとさえ思ってしまった。
「ラ、ラビ、オレどうしてたら」
 不安がってラビを振り向く。そのままそこに立ってて、と笑うラビを見ても、不安はやはり消えていかない。
「お、もーしかして怖い? 傍についててあげようかー?」
 ここで以前の彼なら、全力で否定して、断ってきたはずだ。ラビは意地の悪い笑みを浮かべて、突っぱねやすそうな状況を作り出してみたけれど。
「……そうしてくれ」
 コレだ。ラビは少しだけ目を泳がせて、短く息を吐いた。
 以前と比べても、もうどうしようもないのだと。
 神田の右側に立ってやると、その存在を確かめるように腕を握ってくる、神田の手。
「…………」
 伝わってくる体温を探るのは、もうやめた。
 何度も確認したんだ。自分の心の奥まで、ちゃんと。
 自分は、【神田ユウ】を大切に思っているのだと。
『おーい終わったぞー』
 いつの間に、と顔を上げた。まあ別に何か開始の合図があるわけでなし、いつからスキャンしていたのか解かるはずもないのだが。
 どうだった?と自主的に訊ねたのは神田の方。やはり気になるのだろう。
『何も異常ナシ。ふつーに人間の魂しか感じ取れなかった』
 そうか、と胸をなでおろす。黒の教団が敵としているアクマが自分の中に入り込んでいるなど、こんなに恐ろしいことはない。僅かに浮かんだ額の汗を、手の甲で拭った。
「じゃあこのセンもなしかぁ。他になんかあるかなー」
 うーんと唸るラビ。アレスティーナに礼を言って、ふたりで踵を返した。
「アクマ入ってたら、どうするつもりだったんだ?」
 森を散歩でもしよう、と自然そちらに足が向いてしまう。示し合わせたわけでもないのに、向かう方向は一緒だった。
「え、あ、……どうしよう? そこまで考えてなかった」
「……アンタは頭が良いのか悪いのか、どっちなんだ」
 どっちであるとも言えず、ラビはハハハと頬を掻く。
 本当に、アクマが入っていたらどうするつもりだったのだろう、自分は。通常であればアクマは即刻排除しなければならないのだが。
 果たしてこの教団に、エクソシストでもある神田ユウを【排除】できただろうか。リナリーやアレンは全力で阻止するだろうし、戦闘要員でない科学班だって、きっと黙ってはいない。寝る間を惜しんでアクマを分離させる手立てを考えたりしたんだろう。
 アクマではなくて、本当にホッとした。
「本当にアクマだったら、オレはアンタたちと戦わなきゃならなかったんだろうな」
「そうさね」
 そんなことは御免被りたい。
「神田、あえて一個訊くさ。オマエは、オレたちの敵じゃあ、ねェよな?」
 立ち止まって神田を振り向くラビ。応えるために、神田もまた立ち止まる。
「自分の正体が掴みきれないうちは、確実にそうだとは言えない。けど、敵対したいとは、思わねェ」
 絡んだ視線に、強さが加わる。それは心からの返答で、疑う余地はどこにもなかった。
 ふたり同時に口の端を上げる。こうして最悪の可能性は消えた。
「そういえばさっき談話室でリナリーと紅茶飲んできた」
「うわ、なにソレずりい」
 パキリ、と、歩くたびに体重に負けて枝が折れる音がする。音を立てずにこの森を散策するのは難しいな、と思った。
「オマエ寝てただろうが」
「……そうだけど」
 実際はその時司令室でコムイと話しをしていたのだけれども。美味しかった?と訊ねるラビに、こくりと頷く神田。リナリーとちゃんと話せたことも報告して、それでも何も思い出せなかったことを告げた。
「今度はオレも誘ってよ。アレンが任務から戻ってきたらさ、四人で」
「……えー……」
「何その嫌そうなカオ」
 眉を下げるラビを見て神田は吹き出した。なんて情けないカオだ、と。
「冗談だ、バカ」
「サイアク」
 はぁーっと大げさに息を吐き出して、後頭部で手を組んだ。