追憶

2006/10/08



 読みたいものがたくさん出てきてしまった、と神田はため息をついた。
 先ほど読んでいた【les Trois Mousquetaires】の続きがあったのは嬉しいが、その他にも面白そうなものが、この書庫にはたくさんある。四冊程を腕に抱えて、今日はこれくらいにしておこうと書庫を出る。
「あ」
 途中、棚に引っかかった団服のボタンがブチリと音を立てて引きちぎれた。
 カンコロロと転がった銀のボタンを追ってしゃがみこむ。左胸に装飾されていたものだ。無くて困ることはないが、見た目的にどうもマヌケだ。後で付けておかなければ、とボタンを拾った。
 ボタンの裏側に、少しへこんだ感触。
 ────あ、そっか名前彫ってあるとか言ってたっけ
 不思議に思ったがラビの言葉を思い出して、ではここには自分の名前が彫ってあるのだな、とひっくり返す。



 ────……え?



 自分の名前じゃない。どう見たって字数が違う。
 慌てて、他のボタンを確認した。……他のものは、全部同じ、自分の名前。
 意味深に、左胸のひとつだけ。


 Lavi、────と。


 ドクンドクンと心臓が鳴った。しゃがみこんでついた手が一気に冷える。
「……ぁ……っ……?」
 カタカタと歯が震えた。
 どうして。どうしてひとつだけ。



 ひっでーなぁ、オレのことも忘れちまってんの?
 オレと友達になってくれる?
 今ここにはいないよ
 ユウ!!
 だって身体が動いたんさ
 オマエがオレを頼ってくれて、嬉しい



 これまで交わした言葉が、頭の中を跳ね回る。向けられた表情が、走馬灯のように駆け巡る。
「────」
 ざわり、と肌があわ立った。
 震える拳をぎゅっと握り直して、神田はザッと立ち上がる。そのままの勢いで、書庫を飛び出した。
 どうして左胸のひとつだけ、ラビの名前が彫られてあったのか。親しくなかったと言いながら、なぜ咄嗟にファーストネームを呼んだのか。親しくなかったのに、こんなに早く打ち解けられるのもなのか。
 心臓が速い。その音に自分の足音さえかき消されて、汗が伝った。
「ラビ!!」
 バタンとドアを開けるけど、ラビはそこにいなかった。
 初めて入る部屋。もちろん見覚えなどないし、懐かしいとも思わない。自分は、本当に初めてここに立ち入った。
 では、以前の自分は?
 神田は部屋を見回して、ラビの団服を探す。
 もしかしたら、もしかしたら。
 本当に、ほんの少しの可能性を疑って、ベッドの柵にかけられた、ラビの団服を手に取った。
「…………」
 ローズクロスの斜め下。美しい銀細工の重いボタン。


 Yu Kanda


 頭の中が真っ白になってそして、一気に押し寄せてくる、一週間分の記憶。
 広い背中。
 近い距離。
 笑った顔。
「……ッ!!」
 神田はそのまま、団服とボタンを手にラビの部屋を飛び出していく。



 なんで。
 なんで…!
 なんで……ッ!!



 確かめなければいけない。今自分の考えていることが、真実なのかそうでないのか。
 頭の中が整理しきれずに、気持ちだけが逸る。自分が食堂を出てからさほど時間は経っていない。もしかしたらまだ食堂にいるかも知れない、と足を速めた。
 途中廊下で、リナリーと出逢う。
「リナリー!」
 彼女は神田に気がついて、不思議そうに声を返した。ただならぬ雰囲気だ、と悟って眉を寄せる。
「どしたの、神田?」
「ラビを見なかったか!?」
 急いているような彼を宥めて、何かあったのかと訊ねた。
「アイツ……アイツかも知れねぇんだ、オレの……大事だったヤツ」
 リナリーの表情が固まる。神田はそれを見逃さずに、何か知っているのかと訊き返した。
「思い出したわけじゃないの……?」
 イエスともノーとも言わず、リナリーは寂しそうに見上げてくる。やっぱり何かを知っていて、隠していたんだと解かった。口止めでもされていたのか。
「私は、何も知らないわ」
「だったらいい、ヤツに直接訊く!」
 もう、誰に訊いても結果は同じところに行き着くだろう。神田はチッと舌を打って走り出した。
「神田!!」
 本人に直接訊くしかない、と走る神田を、リナリーが追いかける。ラビがどんな気持ちで、関係を隠しているのかは解からない。
 だが、こんな風に知れてしまっては、良い方向には向かわないだろう。
「神田待って!」
 神田は、追ってくるリナリーを振り向きもしない。そんなことには頭が回らない。色濃くなってしまった可能性を、もうどちらでもいいから誰か
に答えて欲しかった。
 ────なんでこんなん持ってんだよ。なんでオマエだけユウって呼ぶんだよ。なんであんな顔で、笑ったりなんかするんだよ……!
 食堂手前の廊下に、鮮やかな髪をした男を見つける。白髪の少年と何事か言い合って、こちらに向かってくる。
 名を呼ぼうとして、不意に思う。記憶を失くす以前の自分は、今と変わりなく彼をラビと呼んでいたのだろうかと。
「……っ」
 思い出せなくて喉が詰まる。息が苦しくて、思わず口を突いて出たのは、
「────ラビ!!」
 やはり、ラビという音だった。
「神田!?」
 まずいものに出くわした、というような表情でラビは立ち止まる。その後ろの少年も同じような顔をしていたが、今の神田には、追ってきたリナリー同様目に入っていない。
「神田、どうしたんさ。本、なかった?」
「ラビ、説明しろ」
 間髪をいれずに、手にしたボタンをずいと差し出す。名前が彫られた方を表にして。
「オレのボタン? どっかに落ちてた……さ……」
 自分の名前が彫られた銀のボタンを目にして、ハッとしたようにラビは表情を強張らせた。
「なんでオマエのボタンが、オレの団服についてんだ?」
「あ、よ、予備のボタン、いつだったかあげた」
「ふざけたことを抜かすなァ!」
 遮って叫ぶ神田。バサリと放られたものをラビは受け止めて、口唇を噛む。
「だったらそれはなんだよ! なんで左胸んとこのボタン、オレの名前が彫ってあるんだ!!」
 いつだっただろう、ボタンを交換したのは。お互いを忘れないように、と別に他に大した意味があったわけでもないのに。子供じみた独占欲にも近いそれを、お互いが受け入れた。
「親しくもねぇのにボタンの交換なんかするのかよ!」
 束縛したいわけじゃなかった。そんなことができないのは充分に解かっていたし、これからもするつもりはなかった。
 ただ少しでも支えになれば、と思ったんだ。
「なんで何も言わねェ!」
 神田はガッとラビの胸ぐらを掴んで壁に押し付ける。あ、と息を呑むも、間に割って入ることが、アレンにもリナリーにも、できなかった。
「オレは……いちばん頼っちゃいけねぇヤツに頼ってたのか……!?」
 親しくないと思っていたひとが、実はいちばん近くにいたのだとしたら。もしそれが真実なのだとしら、自分はなんと残酷なことをしてきたのだろう。
「正直に言えよ! オマエ……オマエはオレの何だったんだ!!」
 悲鳴のような叫びが耳の奥まで届く。力のこもる両手は、神田の感情の強さを伝えてきた。
「……神田」
 ラビの静かな声に、神田の手が少しだけ緩む。安堵と不安が入り混じって、眉間の皺は更に深くなった。



「オレたちな────恋人同士だったんさ」



 これ以上は、隠していられない。
 ゆっくりと告げられる真実に、神田の手がするりと離れてく。惚けたような表情は、とても見ていられなかったが、正面から見つめ返す。
 それが今できる、精一杯の誠意だ。
「な……んで……なんで! だってオマエ言ったじゃねェかよ! すれ違っても挨拶程度だって!!」
 それを信じてた。笑いかけてくれたから、それを信じていられたんだ。
 記憶を失う以前の交流があまりなかったから、だからこそ気兼ねしないでいられると、そう思ってこの一週間を過ごしてきた。
「嘘ついてて、ごめん」
恋人同士だった。
 それを告げられても驚くどころか納得してしまう自分がいる。あの安心感はこのせいだったんだ。あの時高鳴った心臓はこのせいだったんだ。この男が【ユウ】と呼んだのも、このせいだったんだ。
「ふざけてんじゃねーぞラビ! どうしてそんな……自分を忘れた恋人の隣で、平気で笑ってられんだよ!」
 そうだ、どうして。
 どうして笑っていられるんだ。目が覚めていちばん最初に笑顔を向けてくれたのは、間違いなくこの男だった。それに安心して、頼り切ったのは、自分。
 普通だったら怒るか、落ち込むかするのではないか。逆の立場だったら、きっと自分は怒りに震えていただろう。
「そりゃオレだって悩んださ」
 くすりと苦笑して、ラビは肩を竦めた。
「けど神田を責めたってどうにもなんないし。嘘ついてたのは謝るさ。ごめん神田」
「そうやってオマエは! オレが記憶取り戻そうと必死になってる時に横で笑ってた! オレのことを何もかも知っているのに!!」
 本当は怒っていたに違いないんだ。
 だから全てを隠して、何でもないような顔して隣で笑っていたんだ。
「さぞ愉快だったろうな!? 何も知らねぇで必死になってるオレを見てんのは!」
「神田違うって! オマエに負担かけさせたくなかったんさ!」
 そのためにいちばん良い方法を選んだのだ、とラビは神田の言い分を否定する。
 あの時不安そうな神田を落ち着かせるためには、これがいちばん良い方法だと思った。それが間違っていたとは、今でも思わない。あの時点で恋人同士だったと告げても、混乱を深めるばかりだっただろう。
「オレは神田のこと大事だし、それは変わんない。オマエがそこに生きててくれるんなら、それでいいって思ったんさ」
 自分の感情は二の次だった。ただ彼が安らかに過ごせるようにと思うことが精一杯。
「ごめん神田、騙すようなことして。悪かったさ」
 ラビはゆっくりと目を伏せる。
「本当……なのか」
 神田の静かな声に、目を伏せたまま頷くラビ。否定を求めて振り向いたリナリーも、決まりが悪そうに視線を逸らした。
「知ってたんだな……オマエらも知ってたんだな!?」
 ワナワナと、肩が震える。なんという裏切りだ。皆真実を知っていて、誰も告げてくれなかった。
 なんという裏切りだ。
「……ッ!!」
 ひとり置き去りにされた気分。
 神田は握り締めた銀のボタンを、力の限りでラビに投げつけた。
「もうてめェらの言うことなんか絶対信用しねぇ!!」
「神田ッ」
 そう吐き捨てて走り出してしまう神田。リナリーはラビを振り返る。【追ってやって】、と視線を返されて、戸惑って、それでもリナリーは神田を追いかけていった。
「あなたが追うべきなんじゃないですか、ここって」
「今オレが追ったところで、神田は話しなんか聴いてくれんさ」
 責めるような眼差しのアレンに笑いかけて、投げつけられたボタンを拾う。少し昼寝でもしようと部屋へ足を向け。
「ラビ、……本当に神田のこと好きなんですか?」
 歩き出した足を止めて、少しだけ振り返る。振り返ったその瞳は、強い意志を持っていた。
「オレの気持ちは変わらないさ、アレン」
 そう言ってスタスタと歩いて行ってしまう。何事も無かったかのように。そんな愛し方は解かりにくい、と取り残されたアレンは思ってため息をついた。