追憶

2006/10/08



 ────ちくしょう、ちくしょう……っ、ちくしょう……ッ!!
 泣きそうになるのを堪えながら神田は走った。リナリーはダークブーツを使わずに、それを自分の足で追う。
 裏切られた。裏切られた。信じていたのに。
 歯がカタカタと震える。ギリ、と口唇を噛んでも、その震えは止まらなかった。
 安らげる、と思った場所は作り物だった。作られた偽りで、守られていたんだ。
 心臓が痛い。
 こうして走り続けても、結局行くところなどない。この塔から丸腰で逃げ出しても、独りで生きていく術がない。
 神田は速度を緩め、立ち止まって傍の木に頼った。その木は揺らぎもせず、神田の体重を受け止めてくれる。
「……っ」
 息を呑み、そして吐き出す。何度かそれを繰り返したら、人の気配に気がついた。気配を隠しもせず、リナリーは少し離れたところで立ち止まる。
「行けよ」
 振り返らずに声を押し出した。こんな姿はあまり見られたくない。
「いやよ」
 リナリーはそれを突っぱねて、動こうとしない。
「行けっつってんだろ!」
「いやよ、まだ神田に謝っていないもの!」
 しばしの沈黙。神田はク、と喉を鳴らして感情を押し込める。リナリーに当り散らしても、何の意味もない。ゆっくりと息を吐き出し、身体を返す。頼った木にもたれ、ズルズルと座り込んで俯いた。
 リナリーはそれを見て、ゆっくりと隣に座り込む。
「神田、ごめんなさい」
 神田の大切な人が誰であるのか知っていたのに、告げることができなくて。
「アイツに……口止めされてたのか」
 静かな声が返ってきて、リナリーも静かにうんと頷いた。神田が記憶を失った、最初の日が思い出される。
 自分とのことは黙っていてほしい、と頼むラビに、頷いたアレン。心配するなと笑ったラビ。彼が望むことならば、と引き下がったリナリー。
「ラビは……すごいね」
 あの状況で笑うことなど、きっと自分にはできやしない。
「自分だってツライはずなのに、神田が笑える場所、作ってくれたんだよ」
「そんなこと、頼んでねぇ……」
 だけど、感じてしまう。ラビの判断は間違っていなかったのだろうと。あの時、自分たちが恋人同士だったなどと告げられても、混乱するばかりだ。
 それを見越して、気兼ねなく話せる友人を、演じてくれていたんだ。
「でもあの時、初めに言ってくれてたら、ちゃんとそういう風にアイツに接してやれたかも知れねぇのに」
 そうして神田ユウを想って、夜は充分な睡眠を取れていなかったんだろう。資料を読んでいた、なんて嘘までついて笑顔を向けた。
「それがイヤだったんじゃないの?」
 リナリーの声に、え?と顔を上げる。
「恋人同士だったって言う事実だけで、ラビを好きになれる? そんな刷り込みしたくないから、あえて嘘をついたんだと思うわ」
 ただでさえ禁忌の関係なんだから、すんなり受け入れられるはずもない、と続けられて、神田は再び俯いた。
「アイツがオレに嘘ついた事実には変わりないだろ」
「それが悔しいのね」
 押し殺した声を静かに指摘され、俯いたまま口唇を噛む。それでも溢れた最初の水分は、頬を伝って落ちた。
「ちくしょう……」
 悔しい。悔しい。信じていたから。
 信じていける場所だと思ってた。ずっと変わらずにいるものだと。
「ちくしょう……っ」
「でも、間違えないでね神田。ラビはあなたを大事に思ってるの」
 それだけは間違いない、とリナリーは力強く呟く。なぜ本人でもないのに、そんなことが解かるのだろう。神田は少しだけ顔を上げて、リナリーと小さく呼びかける。
「どんな……風だったんだ? 以前の、オレとアイツ」
 以前のラビも、あんな風に優しく笑っていたんだろうか。自分はそれに、どんな風に返していたんだろうか。
「うーん、どんなって言われても……やっぱ秘密の関係だったから、表向きは親しい友人、てトコかしら。どっちかって言うと、今の方がよほど仲良さそうに見えるよ」
 神田の性格からしたら、親しい友人ができたことだけでも快挙だったのではないだろうか。
 それほどラビの隣は居心地がいいのかと、考えてみたりもした。
「そうなのか……」
 秘密にしていたのなら、表向きはそうするしかないだろう。リナリーたちには、話したのか気づかれたのか。
「でもね、私一度見てしまったの。ラビが神田の部屋を訪ねてるの。とても遅い時間だったから不思議に思ったけど、ドアを開けた神田の表情見たときに、解かっちゃった」
 ふふふ、と恥ずかしそうに笑うリナリー。神田は目頭をこすって彼女を振り返り、首を傾げた。
「見たことない、優しい顔だったよ。ラビもね、普段じゃ見られない表情で、嬉しそうだった。あれはふたりとも、恋する男の表情ね」
「……」
 気恥ずかしくて顔を逸らす。あの優しい顔が、さらに優しく笑うのか、と思って。
 どんな風に、恋を語り合ったのだろう。自分はどんな風に、あの男を恋したのだろう。
「ラビは神田をとても大事にしてた。今回のことだって、それの延長だよ」
 だから彼を赦してやって欲しい、とリナリーは呟いた。ラビはラビなりに、悩んでいただろうと付け加えて。
 そうだ眠れなかったのだって、きっとそのせいだ。それでも神田の前で優しく笑う彼を、遠くから眺めてた。
「前みたいな関係に戻れとか言わないし、言えないよ。だけどラビを否定しないであげて。神田にそんなことされたら、きっと辛い」
 解かってる。存在を否定されることがどれだけ辛いか、自分はよく解かってるつもりだ。それを知っていてか、ラビはこの存在を否定せずに受け入れてくれた。ゆっくり思い出して行け、といちばん近しい関係だった人間が、嘘をついてまで言ってくれた。
「アイツは……それで平気なんだろうか」
 自分は今、ラビに恋愛感情なんて持っていない。この一週間友人として接してきたし、いきなり恋人同士だったと言われて、ハイそうですかと気持ちを切り替えることなどできやしない。
 記憶を取り戻したら、恋の感情も思い出せるかも知れないけれど、今はそういったことを考えてる余裕なんてないんだ。
「それはラビに直接訊いた方がいいわね。私だったらきっと平気じゃいられないけれど」
 自分とのことを黙っていて欲しい、と言われたとき、すぐに限界が来るだろうと思っていた。だけど恋人を抱きしめることもできないのに、予想に反して限界は訪れなかった。
「でもそんな……虫が良すぎないか? 力を貸してもらってるのに……オレはアイツの望むことさえしてやれない」
「じゃあ、神田はどうしてあげたいの?」
 問われて、言葉に詰まる。何か返してやりたいとはおもうけれど、その方法が見つからない。
 恋をしてやればいいだろうか。思い出してやることの方が先だろうか。
 今は、どちらもできはしない。
「ねぇ神田。ラビの望むことって、何だと思う?」
「……早く前のように戻ることじゃ、ねぇのか?」
 呟いた言葉は、すぐさま違うと否定を返される。では何を、と視線だけで問うと、本当にわからないのか、と諦めたようにリナリーはため息をついた。
「そりゃね、そういう風になったら嬉しいだろうけど。今のラビが望むのは……神田が笑って生きててくれることじゃないかな」
 特に自分たち黒の教団は、一般人より少し明確的に、死と背中合わせに生きている。そんな中、大切な人が生きていてくれるということは、幸福に違いない。
 すぐ傍で、笑ってくれていたら、こんなに幸福なことはないだろう。
「……」
 神田はラビの言った言葉を思い出した。なぜそんな風に必死に戦って生きているのかと訊いたとき、彼は【大切なひとが生きてる世界だから】と答えた。
 つまりはそういうことだ。
 唐突に気づかされる。
 ラビが口にした【大切なひと】のことは、全部自分に向けられた言葉なのだと。
 カァ、と頬が熱くなる。
「神田?」
 リナリーの声にハッとした。
「な、なんでもねぇ。もう戻る」
 ザッと立ち上がって、団服についた土を払う。少し遅れてリナリーも立ち上がり、神田の後を歩いた。
 心臓が速い。顔が熱い。
 知らず速まってしまう神田の足。リナリーはそれに気づかないフリをして、マイペースに歩を進めた。





 部屋に戻って、一直線にベッドへと向かった。ブーツと団服を脱ぎ捨てて、ドサリと寝転がりブランケットをバサリと被る。頭のてっぺんが隠れてしまうまで。
「……っ」
 やけにうるさい心音と、巡る言葉が鬱陶しい。
 ラビの、【神田ユウ】に対する想いの深さを知って、感情が戸惑う。あんなにまで大切に想われて、嬉しくないはずがない。それが例え、禁忌とされる想いでも。
 自分はあの男に恋していたのか。大切に想っていたのか。
 ドクンドクンドクン。
 ちゃんと考えてやらないと、と息を吐く。だけど考えようとしても、速い心音が邪魔をした。
 こんなに速い心臓は、自分のものではないと思いたい。
 記憶を失くす以前の自分がどれほどラビを想っていたとしても、今の自分はきっと友人として接することしかできないだろう。そう仕向けたのは、他ならぬラビ自身なのだから。
「ラビ……」
 だからこんなに速い心臓は、自分のものではない。