追憶

2006/10/08



 次の日の朝、やはりラビが起こしに訪れることはなかった。気まずいのだろうと思っても、自分にはどうしても伝えなければいけないことがある。
 神田は身支度を整えて、部屋のノブを回した。
 ちゃんと伝えようと決意して、食堂へと向かう。どんな表情を向けられても、きちんと伝えてやろうと。
 食堂に着くと、見知った顔が見えてホッとした。
 リナリーの隣にアレン。そしてアレンの前に、鮮やかな赤毛。視線に気づいたのかリナリーが振り返り、一緒に食べようと神田を呼ぶ。アレンもラビも振り返ってくれた。
 神田は小さく頷いて、カウンターへと足を進めた。
 日替わりのモーニングセットを頼み、トレー片手に歩いてく。徐々に高鳴っていく心臓には、気づかないフリをした。
「神田、おはよう」
 よく眠れたかと訊ねるリナリーにああと頷いて、彼女の前……つまりはラビの隣に腰掛ける。ラビが少しだけ驚いた顔をしたのに気がついて、振り向かずに何だと声を投げた。
「え、や、ていうか……神田怒ってんじゃねーの?」
 食事の手を止めてまで、ラビは不安そうに訊いてくる。昨日の今日だし、神田は夕食にも出てこなかった。ラビがそんな風に思ってしまうのは、仕方のないことだろう。
「怒ってる」
 少しだけラビを振り返って、そしてまた視線を元へ戻す。器に盛られたスープを口に運んで、喉を潤した。
「正直今でも腹が立つ。オレはオレなりに、オマエに感謝してたし、信頼していたんだ」
 その信頼を裏切ったのは、ラビの方。
 だけど繋がっていた絆を最初に断ち切ったのは、神田の方。
「ごめ」
「それでも」
 ごめん、と口にしようとしたラビを遮って、神田は続ける。
「それでも、オマエを思い出してやりたいと思う」
 テーブルの上で握った拳に力が入る。眉間に寄った皺は、さらに深くなっていた。
 憤る気持ちより、思い出したい気持ちが大きい。
 未だに思い出せない自分に腹が立つのか、ラビの顔をまともに見てやれない。
 隣で聞こえた大きなため息と、カクンと落ちた頭を不思議に思って振り返ったら、良かった、と脱力したラビの姿。
「マジで良かった、ホント」
 もうほとんど無くなった朝食を避けてテーブルに突っ伏す。こんなに情けない姿を見たのは、初めてかも知れない。
「大袈裟な」
「や、だってさ。もう口きいてくれんかも知れんって思ってたからさぁ〜」
 今の今まで大変だったんですよ、とアレンが呟く。ため息混じりに呟かれたそれを、何がと訊き返す神田。
「さっき神田が来るまで、【どうしたら許してくれるかなあ】って、そればっかり」
 ねぇ?とリナリーを振り向くと、リナリーもそうそうと笑いながら頷く。ピンと張り詰めていた空気が一気に和らいだ。
「だって神田、昨日すげぇ怒ってたからさぁ……隣に座ってくれるとは思わなかった」
 またため息をつくラビ。よくよく見てみると、今日もまた目が赤い。眠っていないのかと訊ねると、少し躊躇って彼は頷いた。
「良いと思ってたはずなんだけど、オレのしたことで結局神田のこと傷つけちゃったし。いっぱい悩んでたら朝になってた」
 盛られた最後のフルーツを口の中に放り込んで、ラビは苦しそうに笑う。心臓がズキリと痛んだ。
「ラビ、でも」
 追い討ちをかけるだろうかと済まなそうに、神田は呟く。ん?とラビは振り向いて首を傾げた。
「オレ、その、今オマエのこと、そういう風に見れない、ぜ?」
 いくら以前、そういう関係だったのだとしても、今は友人として接してやるくらいしかできないと。大事に思っているかも知れないけれど、きっと以前とは意味が違ってしまってる。
「オマエは良いヤツだと思うし、感謝もしてる。けど……恋、とか、そういうの……できないと思うんだが……」
 神田もラビも、どちらも男。本能を捻じ曲げてまで想うことができるかと訊ねられたら、NOと答えてしまうだろう。
「その、済まないラビ。オレは」
「いいんさ、それで」
 酷なことを告げている、と俯いて目をぎゅっと瞑る。ラビのふわりとした声に遮られて、用意したはずのその言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
「……え?」
 一瞬何を言われたのかと思って、顔を上げる。ラビを振り向いたら、まるで何でもないことのようにきょとんと首を傾げていた。
「オレ最初に言わなかったっけ? 【友達になってくれる?】て」
 そういえばそんなことを言われたような気もする。いや、確かにそう言われた。
「黙ってたのはさ、そこら辺もあるんさ。オレに対して気を遣って欲しくない。オレを好きでいてくれたのは記憶失くす前だし、それは仕方ないって」
 本当に、彼にはなんでもないことなのだろうか。神田は不思議に思ってしまう。アレンもリナリーも、同じように感じた。【仕方ない】で片付けられる程度の、関係だったのだろうか。
「だから神田が許してくれるんなら、友達としてやってきたい。オレは全然平気だからさ」
 ドウデスカ?とおどけてみせるラビの真意が見えなくて、余計に不安が募る。それでも解かったと頷いてしまったのは、ラビの瞳が変わらず優しかったから。
 もしかしたら、失ってしまうかも知れないと思っていた。恋愛対象として見てやれないと告げたら、離れていってしまうかも知れないと。
 だけどラビは、何も変わらなかった。
 記憶を失って、初めて笑いかけてくれたあの時と、何も変わらなかったんだ。
「オマエが平気なのなら……オレはそれでいい」
 変わらず傍にいてくれるんだと思ったら、他の事なんてどうでもいいと。自分勝手で我侭な感情を気づかれないように、神田が少し笑った。
「良かった。ありがとう、神田」
「……っ!」
 極上のスマイルを返されて、カァと熱が上がる。
 グラスの水を飲みながら、アレンもリナリーも【あ】と思う。もちろん声には出さないで、ラビがトレー片手に立ち上がるのを眺めていた。
「神田、オマエの部屋、カギ開いてる? 自分のもの片付けなきゃ」
 そういえば神田の部屋にはまだ、ラビと一緒に使っていたカップがあるんだ。もしかしたらそれ以外にも、ラビのものがあるかも知れない。もう恋人同士ではないのだから、いつまでも置いておくわけにはいかないだろう。
「あ、開いてる。は、入っていいから」
「そ? ついでに団服のボタンも、付け直してくるさ」
 ああそうだ、交換した左胸のボタンもあったんだ。
「あ、ああ、頼む」
 もしかしたら赤いかも知れない顔を見られないように、神田は俯いて呟く。じゃあ片付けてくる、と言ってトレーを返却しにそこを離れるラビの背中を、静かに見つめた。
「……落ちてますね」
「……落ちてるわね」
 ため息混じりに呟いたアレンとリナリー。それを聞きとがめて、神田は振り返る。何がと訊ねても、何でもないと声を揃えて返され、なんだか釈然としない。
 神田はふぅと息を吐いた。
「アイツ、いったいオレのどこが好きだったんだろう」
 友人関係でいいと笑って言われてしまっては、本当に好き合っていたのかも怪しいものだ。
「気になりますか?」
「……気にしないでいられるほど器用じゃない」
 気を遣うなとは言われたけれど、気になってしまうのは仕方がない。
 いったいどんなところを、特に気に入っていたのだろう。以前の自分は、今の自分にはないところがあったのだろうか。どうしたら、以前の自分に近づくことができるだろうか。
 そんなことを考える。
「以前のオレは、口の悪いヤツだったって聞いた。あんまり他人のこと考えてやってないって……そんなヤツのどこに惹かれたんだ」
 今は、他人を見下すような発言はしていないつもりだ。怖がっていた交流だって、こうしてするようになったのに。
「なんでオレの横で、平気で笑ってられんだ、アイツ」
「それは私も気になるわね。バレちゃったのに、なんで友達でいいなんて言ったのかしら」
 ここにいるのは、神田ユウに違いないのに。
 一度本気で好きになったのなら、たかが記憶を失ったくらいで、気持ちが離れてしまうことはないのではないだろうか。
「どう見ても、神田に恋をしてる目じゃないですよね」
 リナリーの言葉に、アレンが続ける。それにリナリーが躊躇いがちに同意して、神田は俯いた。
「そんな程度の関係だったのか? オレとアイツ」
 一度糸が切れたくらいで、結び直そうともせず流れに任せてしまえるような、そんな。
 違うと思う、とリナリーはそれを否定する。
 そんな上っ面だけの想いで、一緒にいたとは思えない。
「私が見てる限りでは、そんなことなかったと思うの。そりゃまあ、ふたりのことはふたりにしか解からないんだけど。それでもね、なんか、見てて羨ましいなあって思ったのよ」
 お互いがお互いを信頼して、寄りかかって、支えて、その魂全部を大事にしているように見えた。
「だけど今のラビは、神田に恋してる風に見えない」
 どうしちゃったんだろう、とため息混じりに呟いて、眉を寄せた。早く何もかもが元通りになると良い、と小さく願いながら。
「……」
「……ショックですか、神田?」
 俯いたままの神田に、アレンが声をかける。その声に気づいてえ?と顔を上げる神田。
「ショックですか? 恋人だったはずのラビが、友人としてしか接してくれないのは」
「別に、そんな。……ショックなんて、感じる必要がねぇだろうが。オレもアイツにそういう感情、持ってやれないんだから」
 心なしか沈んだ声で、神田はそれを否定する。
 この一週間を隣で過ごしてきて、ラビがその人をとても大切に想っているのは感じ取れたし、それを羨ましいと思ったこともある。彼にそう言ったこともあった。
 それをした自分が、彼の【大切なひと】だったのに。
 どこかで想いが食い違う。あんなに、【神田ユウ】を想っていたラビの心は、どこへ行ってしまったのだろう。
「……もう、部屋に戻る」
 そう言って立ち上がる。自分の思っていることをきちんとラビに伝えることができて、気がかりはなくなったはずなのに、気持ちはとても重たくて、思わず俯きがちになってしまう。
「神田、その、落ち込まないでね」
 なんと声をかけてやればいいのか言葉が見つからず、咄嗟に口を突いて出たのは、ありきたりで力づけられそうにもないもの。
「落ち込む必要なんてない。心配だったら、アイツの方をしてやれよ」
 トレーを持ち上げて、さっきから何を言っているんだと呟く。抑揚のないそれは胸の不安を煽り、三人の重い気持ちを悪化させた。
 神田はこれ以上何も考えたくないと、テーブルを離れる。部屋に戻って、またイノセンスに触れる練習でもしてみようと食堂を後にした。
「自覚、ないんですかね」
「ないみたいね」
 神田の背中を見送って、アレンとリナリーは呟く。
「どうなってるんでしょう。記憶失くした神田はラビのこと好きみたいなのに、全部を覚えてるラビが、神田に恋をしていないなんて」
「そうよね……何かちぐはぐだわ」
 目に見えて、神田はラビに惹かれている。以前のような恋愛感情を持っていると、傍から見れば一目瞭然。
 そして、ラビが今の神田ユウに恋をしていない様なのも、感じ取れる。
「記憶失くしたくらいで気持ち離れちゃうのかなあ」
「そんなに薄情な人とは思えないけれど」
 こうして討論してみても、感情ばかりはどうしようもない。神田がラビに恋をしてしまうのも、ラビが神田に恋をしないのも。
「ラビの気持ちは、どこへ行っちゃったんだろう……」
 不思議で、しょうがない。
 自分の気持ちは変わらない、と彼は言ったはずなのに、その彼自身は神田に恋をしていない。【変わらない気持ち】は、いったいどこへ?
 その気持ちは、いつか戻ってくるだろうか。神田へ向かう、柔らかな心になるだろうか。
「怖いね。神田が自分の気持ち自覚して、それをラビに拒絶されたら、壊れてしまいそうだよ」
 リナリーが寂しそうに口にした言葉に、アレンは何も返してやれなかった。そんな光景が、目の前に浮かんでしまったから。
 願うのは、それが現実にならないようにということだけだ。