追憶

2006/10/08



 足取りが重い。心につっかえる、黒い闇がとても重い。
 気持ちが晴れない原因さえわからずに、神田は廊下を歩いた。ここを通るのももう何度目だろう。それでも覚えているのはこの数日間の記憶だけで、それ以前のものはやはり思い出せていない。
「……」
 自分のことで解かったことなど、多分ごく僅か。
 口が悪かったこと。あまり他人と交流しなかったこと。六幻と名づけたイノセンスを扱っていたこと。ラビを、好きだったこと。
 口に出す言葉は不快に思われない様気をつけている。今は他人とも交流を心がけている。イノセンスには、未だ触れない。ラビのことは、いい友人だと思っている。
 こうして並べて整理してみると、以前の記憶に対して何も解決に向かっていないような気がしてくる。神田は息を吐き、部屋のドアの前で立ち止まった。
 中で、人の気配。
 そういえばラビが、自分の物を片付けると言っていたっけ、と思い静かにドアノブを回し、こうとした瞬間、腕が止まってしまう。
 部屋の中にいた人物は、確かにラビ。ボタンをつけ終わったのか、団服をハンガーにかけてくれている。
 優しい、表情だった。
 それは確かに、恋をしている、瞳。
 ご丁寧にもバーにかけた団服の形を整えて、感慨深げに俯いて、そして片足で跪く。
 団服の裾を柔らかく持ち上げて、口づけて名を呼んだ。



「────ユウ……」



 と。
 血の気が引く。身体が硬直して、瞬きさえもできやしない。
 なんて。
 なんてことだ。
 今、今気づいた。
「……っ」
 神田は声を出さないようにと片手で口を覆う。歯が震えだして、瞠った目から雫が落ちてく。
 ラビが、平気で笑っていた理由に気がついて、思わず後ずさった。
 ────わかった
 ぽたぽたと、顎を伝い落ちていく雫。自分の意思で止めることができなくて、神田は息を止めて踵を返した。
 その物音に気づいてか、ラビは立ち上がる。ラビがドアノブを握るより早く、神田は走り出していた。
 ────わかった、ラビがオレの隣で平気で笑ってた理由
「神田!?」
 物音の原因を確かめようとドアを開けたラビは、そこに走り去っていく神田の背中を見つけて呼びかける。【ユウ】ではなく、【神田】と。
「……ッ」
 口を押さえ、溢れそうになる嗚咽を飲み込む。流されていく涙が鬱陶しい。



 ────オレが【神田ユウ】じゃないからだ



 ただ、ひたすらに走った。
 ラビの、【神田ユウ】を想う気持ちは、どこかへ行ってしまったわけではなかった。変わらず一直線に、彼は今も【神田ユウ】を想ってる。
 ────アイツの中で、オレと【神田ユウ】は別物なんだ
 大事に思ってる。彼はそう言ってくれた。だけど大事の意味が、【神田ユウ】に向かうそれとはまったく違う。
「神田、ちょっ……待ってどうしたんさ!」
 追ってくる想いは恋心じゃない。彼の中で【神田ユウ】は別にいて、まだ恋してる。
 ────理屈じゃねぇ、感情のもっと深いところで、アイツの気持ちは【神田ユウ】に向かってんだ
 だから、平気で笑っていられたんだ。友達でいいなんて言って、笑うことができたんだ。恋するべきの【神田ユウ】は、別にいるから。
 ────どうして。どうしてだ、アイツはオレを通り越してく
 記憶をどこかに落としてしまっただけで、自分だって神田ユウであるはずなのに。
 こんな風に思うのは初めてだ。自分にイノセンスが扱えなくても、自分の知らない記憶を持っていても、こんな風に思うことはなかったのに。
 ────神田ユウ、オレは初めて──オマエを憎む
 こんな風に思ったのは、初めてだ。
「神田! 待てって、何かあっ……!」
 ラビが追いついて、神田の肩を掴む。腕を引いて振り向かせ、ラビは目を見開いた。
「なっ、…………な、何か、あった……?」
 ぼろぼろと溢れ出る涙。自分で抑えることもできないようで、拭っても拭っても止まることなく流れ落ちてく。
「な、何でもねぇ、離せっ……」
「バカ、何でもねぇわけあるか!」
 そんなに涙を流しておいて、何でもないわけがない。両腕を掴んでみても、神田は何でもないと首を振るばかりで、ラビの不審感を煽った。
「神田、なあ、言ってよ。何があったんさ?」
 涙を止めることもできないほど、悲しいことがあったのか、辛いことがあったのか、悔しいことがあったのか。
「な……でもねぇ……っ」
 ちくしょう、と声を絞り出して息を止める。自分ひとりでは崩れていってしまいそうで、目の前にあるラビの肩に頼った。
「ちくしょう……っ、ちくしょう、思い出してぇ……!!」
 腹の底から声を押し出して、神田は拳を握る。爪で傷ついてしまいそうなほどの、強い感情。
「思い出し……てぇ……っ」
 神田ユウとしての記憶を、総て。生まれてからこれまでの事を、全部。
 神田ユウが、どんな風にラビを恋していたのか。
 神田ユウが、どんな風にラビに想われていたのか。
 ────神田ユウ、どうしてオマエだけが、ラビの気持ちを持っていく……!
 掴まれていた両腕は解放され、ラビの手は神田の背中と後頭部に回される。あやすようにぽんぽんと叩かれ、口唇を噛んだ。
 ────オレだって神田ユウなのに! どうして……どうしてラビの想っているヤツが、【オレ】じゃないんだ
 ラビの想いを独り占めしている【神田ユウ】に、嫉妬する。あの優しい顔を欲しいままにする、【神田ユウ】を憎む。
 ラビの気持ちは、どこへも行っていなかったんだ。以前と変わらず、神田ユウに恋しているんだ。だけど、その気持ちが向かう先は自分ではない。
「なんで……思い出せねぇんだっ……」
 少しでも思い出すことができたら、【神田ユウ】に対抗くらいできるだろうか。少しは、自分の方を見てくれるだろうか。
 ────なんでだ。神田ユウは神田ユウなのに
「神田……」
 ────記憶失くしても、バカみてぇにコイツが好きなのに
 どうしてラビは、【彼】の方を想っているのだろう。
 自分が、そう、こんなにも────想っているのに。
 恋に気づいた。途端、失恋を知る。ラビの恋は、自分の方には向かってこない。
「思い出してぇ……」
 せめて、欠片だけでも思い出せたら。
 ほんの、ひとかけらでも思い出せたら。
「……神田、外、出てみる?」
 ラビの、静かな声に、身体を離して顔を上げた。あやすためではなく、真実を知るための、真剣な表情だ。
「──え……?」
 聞こえなかったわけではない。ラビは今、外に出てみるかと言った。どういう意味だろう。外に出ても、何も思い出せなかった。昨日だって森でイノセンスに触れないか試したばかりなのに。
「外っつーか、下界? そう言えば教団内から出たことなかったさ? 最後に行った任務の経路辿れば、何か思い出せるかも知れん」
 目を瞠る。
 そうだ、どうしてそれに気がつかなかったのだろう。任務に行くまでに何かあったのかも知れない。任務から戻る途中、何かあったのかも知れない。もしかしたら任務の現場で。
「行く」
 行かない理由はどこにもない。どこかの道程で記憶を落として来たかも知れないんだ。
「確かめたい。可能性が少しでもあるなら、オレ」
 でき得る限りの総てのことを、やってみたい。そうして思い出すんだ。【神田ユウ】としての記憶を。
「ん、じゃあ、コムイに経路とか場所とか、訊いて来ようか」
 ぽん、とラビが背中を叩いてくれる。
 ひとすじの、光が見えた。
 司令室へと歩きながら、自然口許が緩んでしまう。記憶を取り戻す糸口は、まだあった。それが、嬉しくてしょうがない。
 一気に軽くなった足取りは、一直線に司令室へと向かっていった。





「え、神田くんの任務? 割と近場だったけど」
 司令室に顔を出すと、リナリーに淹れてもらったコーヒーを美味しそうに飲みながら、コムイがそう教えてくれた。
「でもあそこの件はもう終わってるよ?」
 神田が、意識不明の状態でこの教団内に運ばれてからすぐに、他のエクソシストに向かわせた、と。
「どんな任務だったんさ?」
「アクマの討伐。巡回で廻ってもらってる探索部隊からの通信が、そこで途絶えちゃったんだ。他の部隊に向かってもらっても同じ状況でね」
 アクマが出現している可能性が高かったから、エクソシストに行ってもらおうと、神田に指令を下したらしい。連絡は途絶えなかったものの、記憶を失った状態で帰ってきてしまった神田。おかしいと思って別のエクソシストを派遣したが、そのエクソシストはアクマを討伐して無事に帰還した。やはり探索部隊は帰らぬ人となっていたようで、原型を止めていた亡骸は、もうすでに回収させている。
「神田くんがこの程度の任務で失敗するとは思えないんだけどね」
「そのアクマって、レベルは幾つだったの、兄さん」
「レベル2が一体だけ。多少苦戦はするだろうけど、勝てない相手でもないと思うね」
 答えたコムイに、そうねぇとリナリーも同意する。聞いた限りでは、さして難しい任務でもなかったようだ。
「場所と経路、教えてくれるさ? コムイ。ちょっと今から行ってくる」
 神田と一緒に、と付け加えると、コムイは驚いて声を上げる。神田くんも?と。
「え、でも、だって神田くん、まだイノセンス使えないでしょ?」
 いわば、丸腰の状態だ。そんな状態で外に出れば、攻撃をするどころかすぐさまハチの巣。
「危ないわよ、せめてイノセンスが使えるようになってからの方が」
 心配そうにリナリーが眉を寄せる。コムイもそれに頷いて、今の状態で外に出るのは危険だと諌めた。
「けどもう、ここでじっとしてても」
 記憶が戻る兆しはない。イノセンスの拒絶も、酷くなっているように思える。ここでじっとしているよりは危険を冒してでも可能性を辿って行きたい。
 反対されても行く、と身を乗り出しかけた神田を腕で止めて、
「────オレが守るさ」
 ラビは迷いなく呟いた。
 神田はラビを振り向いて、え、と僅かに声を上げる。
「オレが、守る」
 だから行かせて欲しい、と力強く言い放つ。
 嬉しくて眩暈がした。だけどその言葉が恋心からではないとわかっているからやるせない。
「イノセンスが使えないから記憶が戻らないのか、記憶が戻らないからイノセンスが使えないのか、それはわかんないさ。けど可能性が少しでもあるなら、それに賭けさせてやりたい」
 意志は変わりそうにない、とコムイは息を吐いて、リナリーを振り返る。
「リナリー、悪いけど報告書のファイル持ってきてくれるかな。いちばん新しいの。それ渡した方が速いから」
 ため息混じりに呟いたコムイに、リナリーは解かったと頷いて、司令室隣の文書庫へ向かった。
「アクマはもういないはずだけど、本当に二人で大丈夫かい? もう一人護衛つけようか」
「いいよ、ダイジョブ。他の任務とかあったときに困るさ」
 任務でもない場所へエクソシストをそんなに送り込むわけにもいかないだろう。心配ないさと笑いかけて、リナリーの持ってきてくれた資料を、コムイから受け取った。
「あ、ホント近場なんさね」
「うん、ここから汽車使って片道三時間ちょっとってところかな? 駅まではどうする? 歩いて行くかい?」
 神田くんは馬車を使ったようだけど、とコムイは付け加える。同じような状況を再現するか、それとも歩いてゆっくり景色を見るか。
「馬車、頼めるさ? できるだけ状況似せた方がいいと思うから」
「わかった、用意するよ」
「さんきゅ、コムイ」
 じゃあ自分たちも出かける準備をしよう、と神田を振り向くラビ。神田はそれに、力強く頷いた。
 三十分後に、と約束を取り付けて、二人は司令室を後にする。二人の背中を、リナリーは不安そうに見送った。
「兄さん、平気かしら」
「行ってみないと解からないね。記憶の方はともかく、どうにかしてイノセンス扱えるようになってもらわないと、僕も辛いんだよ」
 ヴァチカンが庇護を最優先としているのは、イノセンスを扱える適合者だ。神田がこのままイノセンスを扱えないままだったら、彼の庇護を解かれてしまうかもしれない。
「そんなことしたら、怒るわよ兄さん」
「解かっているよリナリー。だから気が重いんじゃないか」
 コムイはギシリと座り直して、腕を組む。
 今回の派遣が、何か糸口を掴むきっかけになればいいと願って。