追憶

2006/10/08



 木で造られた階段を上がり、宛がわれた奥の部屋へと進む。ギィ、とドアを開けると、狭いと言っていたわりに奥行きのある部屋が眼前に広がっていた。
 充分だろう、と息を吐いて、荷物を置く。
「神田、ちょっと眠る? それともお茶でも飲むさ?」
 どれだけか落ち着いたらしく、神田は長く息を吐いた。いや、逆か。落ち着くために長く息を吐き出した。
「お茶を」
 部屋に備え付けてあったティーポットに茶葉とお湯を入れ、ふたつのティーカップに注ぐ。温かなそれは気持ちを落ち着かせ、さらに喉を潤してくれる。
「この宿も、覚えてる」
 ラビはベッドの端に座り、神田はソファに腰かけて、ようやく一息ついた頃。神田がポツリと呟いた。
「この街では、結構小さな方だ。店主も、前と変わってない」
 この街に、もちろん他にも宿はある。神田が以前訪れたとき、ここを利用する確率は、アクマの出現場所からも離れてしまった今となっては、どれだけ高く見積もっても二〇パーセント程度。
「神田」
「解かってる、解かってるから……頼むから何も言うな」
 ラビの言いたいことは解かっている。この街に入ってから、次々と浮かんでくる景色。迷わずに歩けるほどの記憶と、浮かんでくる季節の移り変わり。
 神田ユウの記憶であるはずがなかった。
 輪廻など信じていないが、例えば過去世だったとしても、記憶が新しすぎる。建物だけならまだしも、この街に住む人間たちの声や仕種まで覚えているのだ。
 神田は俯いて考え込む。
 神田ユウとしての記憶は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。この街へ来て何か少しでも思い出せれば、と思っていたのに、何も解決に向かっていない。
「思い……出せねぇ……」
 この街以外のことが。何度意識をニュートラルに戻しても、神田ユウであった頃のことが思い出せない。
「……神田、少し、眠る? 長いこと汽車に乗ってたし、疲れてんのかも知れないさ」
 気休め程度のことしか言ってやれなくて、ラビは自分の無力さを思い知る。神田の望むことをしてやりたいと思うのに、彼の記憶までは操作できない。
 この街の記憶が邪魔をして、本来の記憶が取り戻せないのか。それとも、その記憶自体が錯覚なのか。
「そう……だな、少し眠る」
「じゃ、ベッド使えよ。オレそっち行くから」
 カップをサイドテーブルに置いて立ち上がると、神田は別に自分はソファでいいと、ラビの申し出を断る。そんなわけにいくかと、ラビも引き下がらない。
「そっちだと寝にくいだろ。いいからベッド使えって、疲れてんだし」
「バカ、疲れてんのはオマエの方だろ。ここんとこ全然眠ってないみたいだったじゃねぇか」
 確かに昨夜は眠れていない。その前も、神田ユウを想って眠れていない。疲れているのは本当だけど、寝心地がいいであろうベッドを、守る立場の自分が使うわけには行かなかった。
「でもオレ汽車の中で寝たし」
「あんなん、寝た内に入るか」
 どちらも譲らない。神田など、すでに眠る体勢だ。
「じゃあ、じゃんけん」
 そう言って手を差し出す神田。つられてラビも 拳を差し出した。いわゆる条件反射というヤツだ。
「負けた方がベッドな」
「普通逆じゃね?」
 いいんだよ、と言った後で、じゃんけんぽんとふたりで声を出す。神田の手は人差し指と中指の二本が伸び、ラビの手は五本の指全てが伸びていた。
「オレの勝ちだな」
 つまりは神田の勝利。ラビはぷぅと頬を膨らませた。
「神田、今の後出ししなかったさ?」
「してねぇよ。往生際が悪いな」
 ふふんと勝ち誇ったように笑んで、ソファに寝転がる。店主に借りたもう一枚のブランケットを肩までかけて、眠る体勢。
 仕方なくラビも、ベッドの方で横になる。
 硬すぎず柔らかすぎず、ちょうど良いスプリング。これからどうしてやるべきなのか自分も考えようと思っていたが、ここのところ眠れていなかったせいか、酷い睡魔に襲われて、ロクに何も考えられないまま意識が遠のいていってしまう。
 一方神田は、眠れるはずもなくごろりと寝転がるだけ。
 どうしてこんなにもこの街を知っているのか。今思い出せる記憶は、いったい誰の物なのか。
「……」
 目を閉じると浮かんでくる。走る汽車、行き交う人々、咲き誇る花と風の匂い。
 この街の季節なんか、神田ユウは知らないだろう。あの通りのあの建物が火事に遭ったなんて、神田ユウは知らないだろう。
 いったい誰の記憶だと言うのか。
「……オレだって神田ユウなんだ」
 窓際に活けた、エニシダを眺める。人生は、いつだって戦いだ。
 ラビを好きな気持ちは間違いない。この指も、この髪も、この肌も、神田ユウのものであるはずだ。
「オレだって、ラビが好きなんだ……」
 自分でない自分になど負けたくはない。
 手に入れるためにこの記憶が邪魔だと言うなら、いつだって捨ててやる。
 神田ユウの記憶が必要だというのなら、必ず取り戻してやる。
 ああ、人生はいつだって戦いに満ちている。
「……」
 神田は息を止めて、もそりと起き上がる。ラビからは緩やかな寝息が聞こえ、やっぱり相当疲れているんだと、とても申し訳ない気持ちになった。
 こんなところまで連れ出したのに、記憶は欠片も戻ってこない。記憶が戻る確証もないのに、こんなところまで一緒に来てくれた。
 守る、と言って。
 きゅ、と胸が締め付けられる。嬉しい反面心が痛い。ラビは自分に恋をしてくれているわけじゃない。愛しくて、守ると言ってくれたわけじゃないんだ。
 神田ユウにも、あの男は同じ言葉を紡いだのだろうか。神田ユウはそれにどう返しただろうか。
 どちらも、今の神田には知り得ない。
 ゆっくりとソファを降りて、ラビを起こさないようにと足音を忍ばせる。窓際に立って外を覗くと、先ほどまで良かった天気はどうやら崩れ始めているようで、どんより曇り空。
 こんな空では気分も晴れないな、と思った。
 活けた命の短い切花をそっと撫でる。振り向くと、穏やかな息を立てるラビの寝顔。
 神田ユウも、こんな風にラビの寝顔を見つめていたのだろうか。心を許したラビが、無防備に眠ってくれることを、嬉しいと思っていたのだろうか。
 すうすうと、規則正しい寝息が聞こえる。
「……」
 神田はその寝顔を見つめ、高鳴る胸を押さえて辺りを見回した。当然ながら、自分たち以外に誰かいるはずはない。
 ゆっくりと、ベッドに手をつく。ラビが目を覚まさない様にと祈りながら。
 ドクンドクンと高鳴る心臓と、降下していく口唇。
 相手の意識がない状態でのこんな行為は後ろめたい。それでも恋心の方が勝った。
 吐息のかかる距離。高鳴る心臓は最高潮に達し、ラビに聞こえてしまわないだろうかと思って余計に悪化した。
 形のいい桜貝。ほんの少し触れるくらい、神様どうか禁止しないで。



「────…誰さ!?」



 触れる直前グイと腕を引かれて、視界が一八〇度変わる。発動したラビのイノセンスが喉許を掠めて、ヒヤリと汗が伝った。
「! え、あ、か、神田!?」
 気配をようやく察知して組み敷いた相手は、神田ユウ。ラビは慌ててイノセンスの発動を解いた。
「カン……ダ、なに、どうし……」
 神田は口唇を噛む。
 こんな寝起きの状態でさえ、ラビは自分を神田と呼ぶのか、と。
 触れることさえできなかった。やっぱり神様は許してくれなくて、ラビに攻撃さえさせてきた。
「……っ」
 戸惑って身体を起こしたラビに少し遅れて、神田も身体を起こして立ち上がる。
 口づけさえも許してくれない。
「神田、あの、さ、今……」
「わかってんだろ、訊くなよ!」
 これ以上みじめにさせるな、と神田はラビを振り向く。案の定、戸惑ったような表情。そんな顔を、させたかったわけじゃない。
「そんな顔が、見たかったわけじゃねぇ」
 悔しくて、俯いた。
「……神田」
 申し訳なさそうな声が聞こえてきて、悔しさに耐えた歯がカタカタと震える。
「ごめんオレ、オマエのことは大事に思ってるんだけど」
 ラビもベッドから降りて立ち上がる。今の神田の行動の、意味が解からないほど鈍感ではない。少し前から気づいてた。神田の、自分に向かってくる視線の熱さ。
「今は友達としてしか、見れないさ」
 こうなる危険性を予測して、友達でいいと言ったのに。
「……んで……なんでだよ!」
 バッと顔を上げる神田。その表情は悔しさに歪んでいて、今にも泣き出しそうだった。
「なんでオレはダメなんだよ! そりゃ、まだ記憶とか全然戻んねぇし、イノセンスにだって触れねぇけど! オレだって神田ユウだ! この指も髪も声も! オマエの好きだったもんじゃねぇのかよ!?」
 そう言って勢いよく手を突き出す神田。細い指は確かに神田ユウのもので、ラビが恋したもののひとつ。
「オレがオマエのこと忘れたから、だから怒ってるんだろ!? だったらオレ、絶対オマエのこと思い出すから! だからっ……!」
 否定しないでくれ。大切に思える人を、やっとのことで見つけ出したんだ。誰にだって渡したくない。
 長い間探してた。共に生きて行けるひと。何年も、何年も探していたんだ。
「神田」
 突き出した手を、ラビが絡め取る。
「────」
 その手は温かくて、優しくて、受け入れてくれるんだと思った。
 ほう、と息を吐いてラビ、と呼ぶ。
「オレ、ちゃんと思い出すから」



「ごめん」



「え……」
 正面から見つめられて、言おうとした言葉はラビの声で遮られる。一気に身体が冷えた。
「ごめん神田。好きなひとがいる」
 絡めた手から力が抜けて、ダラリと引力に負ける。
 ラビは眉を寄せて、それでも神田から目を逸らすことはしなかった。
「ユウのこと、忘れらんない」
 静かで、だけど情熱的な声だった。ざわりと背筋が凍る。
「オマエの身体は、確かにユウだよ。それは間違いないさ。だけど……オレはユウの身体に惚れたわけじゃないんだ」
 身体が震える。競りあがってくる何かに、神田は恐怖した。
 見つけたと思ったのに。今度こそ間違いないと思ったのに。目の前の恋する人は、違う誰かを見つめてる。
「オマエのこと大事だと思うよ。けど────オマエを抱きたいとは、思わないんさ」
 恋はできないと、きっぱりと遮断される。
 呼吸ができなくなる。息をしようと口を開いても、呼吸の仕方を忘れたとでも言うように、口をパクパクとさせるだけだった。
「ぁ……あ……っ」
 様子がおかしいことに、ラビが気づく。不思議に思って、神田と呼んでみた。
「あッ……」
 息が上手くできていない。身体が震え出し、神田は両腕を巻きつけてそれを止めようとする。
「──あ……っぁ」
 頭が痛い。
 心臓が苦しい。
 吐き気がする。
「神田、ダイジョウ……」



「あ、あああぁああぁああぁあぁあ────!!」



 悲鳴のような叫びだった。
 神田に出せるとは思えないほどの甲高い声で叫び、彼はとうとう耐え切れず膝を折ってしまう。
「神田!?」
 抱き止めるのはラビの腕。
 何事かと、泊り客がざわつき始める。
「神田、神田! しっかりしろって!」
「あっ、ああぁッ、か、はっ……!」
 ガクガクと震える身体を支え、苦しそうにもがく神田を呼ぶ。いったい何が起きたのだろう。世界で起こった戦争の知識はあっても、正直役に立ったことはない。
「神田、オイ!」
 何事ですかと部屋のドアを開ける店主に、何でもないと返してやる余裕は、ラビにはなかった。
 こんな症状は見たことがない。戦争の中に身を置く立場として、怪我や病気に対して、多少の応急処置の術は心得ているが、これはいったいどうしたらいいのか。
「う、あっ……ああぁぁああ……ッ!」
 過呼吸というわけでもなさそうだ。震え、冷えていく身体。相当苦しいのか、流れていく汗と、瞳の端に溜まる涙。
「お客様、ただいま医師を!」
 店主の声も耳に入らない。身体をささえさすってやっても、症状は一向に改善しない。ラビは焦り始めた。
 ────なんだ、コレ。拒絶反応? 何に? それとも梵字の能力?
 窓が鳴り出す。風が吹いているわけでもないのに、カタカタと。その音は徐々に大きくなっていき、ついにはヒビまで入った。
「……!?」
 ピキリパキリと入ったヒビに、耐え切れずに窓ガラスが割れる。
 ガシャ────ン!
 通常では起こり得ない現象に、客は怯えて逃げ惑う。静かだった宿は悲鳴に包まれ、荷物をまとめる客まで出だす始末だ。
「ァ……かはッ……!」
「神田!?」
 神田の震えが止まって、ラビは神田を振り向く。そうして目を瞠った。
 開かれた神田の口が、ぼんやりと光っている。
「な……!!」
「……っ」
 限界にまで開いた口の端から、ぽたぽたと唾液が伝い落ちる。
 ────なに、これ
 何かが、出てくる。
 神田が何か吐き出そうとしているのはわかるが、何だ、これは。出てくる光がだんだんと大きくなる。薄っぺらい、透明な物体に包まれて、それは神田の中から出て行こうとしていた。
「ぐ……ぅっ……!」
 拳より少し小さいと感じられるそれが、神田の口から全て排出される。ふよふよと浮かんだその丸い物体に、ただただ、目を瞠るばかりだった。
 割れてしまわないかと思うほど薄い、ガラスのような容器に包まれて、白く光るそれは、まるで泣いているかのように小さく震えている。
 ふわり ふわり ふよふよ ふるん



「イ……イノセン……ス?」



 よくよく見てみると、交差し合ったふたつの歯車の中心に、小さな立方体。
 それは紛れもなく、イノセンスだった。