追憶

2006/10/08



「なんで……神田ん中からイノセンスなんか……」
「ゲホッ、ゲホッ、っか、は……!」
 神田が激しく咳き込んで、ラビはハッとした。
「! おい、大丈夫さ!?」
 その隙に、ふるふると震えていたイノセンスはヒュンと割れた窓から外に飛び出してく。
「あ!」
 と振り向いたときには、もう小さくなっていて。
「────……ニアっ……」
 搾り出したような声が聞こえて、一瞬ラビの息が止まった。その声を脳が認識して、声の主を振り向く。



「ジュニアぁ! 確保!!」



 ギッと強い瞳で睨みつけられて、独眼を見開いた。
 間違えるはずがない、その瞳の力。
「ユ……!」
「早く!! オレも後から行く!」
 イノセンスの逃亡した方向をビッと指され、反射的にラビは立ち上がる。
「ラ、ラジャ!」
 小さなイノセンスを発動して飛び乗り、窓をぶち破って追う。状況を把握しきれていないせいか、逸る鼓動が鬱陶しかった。
 神田は呼吸を整えて立ち上がり、荷物を抱える。
「……」
 布に包まれていた六幻を手に取って、ゆっくりと息を吐いた。
 しゅるっと布を取り去って、顔を覗かせた黒のイノセンスを腰に結わえる。
「行くぞ、六幻」
 歓喜したように、六幻は鞘走った。
「店主!」
「ハ、ハイっ」
 近くの医師を連れ、事の成り行きを物陰で見ていた店主は、呼ばれておののく。関わり合いになりたくない、というオーラが、にじみ出ていた。
「騒がせて済まなかった。宿の代金と窓ガラスの弁償は、ここに請求してくれ」
 そう言って、倒れた一輪差しのエニシダを直し、その横に教団の名刺を置く。
 人生は、いつだって戦いだ。
 ガッと窓枠に足をかけ、飛び降りる。ここは三階だ、店主や客たちの、ヒィッという悲鳴が少しだけ耳に残った。






 手を伸ばして、イノセンスを掴む。
「おっ、わっ、とっ」
 勢い余って、槌から転げ落ちた。だけどそこはさすがに受身を取って、大怪我を負うなんて不覚はない。
「〜っとぉ、あぶねーあぶねー」
 手のひらでイノセンスを包んで、ふうと息を吐く。何度見直しても、紛うことなきイノセンス。
「なんであんなトコから出てくるんさ?」
 あんなところ────神田の、中から。変種なのかと手を持ち上げて下から覗き込むと、それは僅かに震えたように見えた。
『それがあぁぁイノセンスかああぁあああぁぁ』
 途端、迫る黒い影。通りを行く住人が、瞬時にアクマへと姿を変える。ラビはハッとして、槌を握りなおした。
「満……」
「界蟲一幻!!」
 攻撃する前に、アクマは破壊される。それはもう、見慣れた技だった。
 予想通り、破壊されたアクマの向こうに姿を現したのは、神田ユウその人。
「油断すんじゃねーよバカ」
「悪い、サンキュ」
 笑って、立ち上がる。
 どこから湧き出たのか、アクマの大群。雑魚ばかりとは言え、これをひとりで破壊するには体力を要するけれど。
「左、任せる」
「右でいいさ」
 エクソシスト、二名。
 神田はイノセンスでアクマを攻撃した。ということは、いつもどおり六幻を扱えているということだ。あのイノセンスを扱えるのは、【神田ユウ】ただ一人。
 ふたり同時に土を蹴る。放った攻撃は確実にアクマを捕らえ、破壊していく。
 ────やっぱ、綺麗さ、あのひと
 こんな時に不謹慎だとは思いながらも、ラビの独眼は神田を追っていった。繰り出す攻撃にはひとすじの乱れもなくて、見惚れてしまう。
 最後の一体を破壊し終えても、二人で分けたせいか、息はあまり上がっていなかった。
「ホラ、荷物。イノセンスも回収したし、本部に帰るぞ」
 感傷に浸る暇もなく、宿に置いてきた荷物を放られる。だけどその仕種は、神田ユウのものに間違いなかった。ラビはゆっくりと息を吐き出し、うんと頷く。イノセンスを団服のポケットに入れて、並んで歩き出した。





「なに、結局、コイツがユウん中入り込んでたわけ?」
 汽車に用意してもらった個室にふたり、向かい合って座る。ラビがコイツ、と指したのは、言わずもがな先ほどのイノセンス。
 神田は、興味もなさそうにそうなるな、と呟いた。
「なんでまた、そんな愉快なことが」
「多分そいつ、人間の中を渡り歩いてたんじゃねーのか。攻撃型じゃなさそうだ」
 探索部隊と連絡が取れなかったため、一応自分でも聞き込んでみたのだ。行方不明になった住人がいないかどうか。アクマに喰われた可能性もあるし、アクマになった可能性もあるだろう、と。
「行方不明になった人間はいなかったが、奇怪があった」
「奇怪? どんな?」
 聞き込んでいく内、妙なことが解かった。
「絶えず誰か、記憶を失うヤツがいたんだ。周りの人間からはいつもどおり生活していたように見えるが、ある時、それまでの記憶がすっぽり抜けているらしい」
「……それって」
 呟いたラビに、神田も頷く。
 明らかに、今回回収したイノセンスの仕業だ。
「記憶を喰って、その人間として生活してたんだろう。無論、イノセンスに自覚はねぇんだろうが」
「記憶を喰らう……うーん、後知能力かな……それが、めぐり巡ってユウに当たっちゃったワケさ?」
「ああ、最後に聞き込んだヤツに、ついてたんだろうな。他の奴らより精神鍛えてるから、そいつはオレの記憶を喰うことができなかったんだ」
 それでもイノセンスの未知なる力に抗えず、入り込まれてしまった。おかげで神田の魂は奥に追いやられ、イノセンスの人格が表に出てしまったというわけか。
「そっか、ユウの記憶を取り込めなかったから、あんなふうにちぐはぐだったんさね」
 神田ユウとして有り得なかった知識は、この街の人間から取り込んだものだったんだろう。だから、神田ユウの記憶がなく、この街のことばかり覚えていたんだ。
「じゃあ、六幻に触れなかったのも、コレのせいなんさ?」
「多分な。イノセンス同士、反発しあったんだろ」
 これが、元帥クラスの人間だったら、反発もなく使いこなせていたかも知れない。だが神田ユウには、そこまでの力はなかった。
「なんで急に出ちゃったのかな。周期とかあるわけじゃないんだろ? ユウがなんかしたんさ?」
「何かできるくらいなら、とっくの昔にどうにかしてる。オレの意思じゃ指一本動かすこともできなかったんだぜ」
 ため息混じりに神田は言葉を吐く。解からないのかこの鈍感、と付け加えられて、ラビは首を傾げた。
「てめぇに失恋したのがよほどショックだったんだろ」
「え、あ」
 そうだった、そういえば。あまりに色んなことが、一気に起きすぎて整理しきれない。
「ユウは、見えてたんさ? コイツが表に出てる時のこと」
「…………ああ」
 全部見えていたし、聞こえていた。アレンが怒っていたのもリナリーが泣きそうだったのも、ラビが苦笑うのも。
 どうにかしたいと思いながら、どうすることもできなくて、幾度も幾度も口唇を噛んだことを覚えてる。
「……可哀想なことしちゃったかな」
 ラビはそう言ってポケットから取り出したイノセンスを、そっと撫でる。神田は眉を寄せて、
「そんなこと言うんなら、そいつの気持ち受け入れてやれば良かったんだよ」
 チッと舌を打つ。
「そんなこと簡単に言わないで欲しいさ、オレは」
 言葉を続けようとしたとき、汽車が駅に着く。乗り換えなければならない、と神田は素っ気無く立ち上がった。
 聞こえていなかったのか聞く気がないのか、振り向きもせずに個室を出る神田。寂しそうにため息をついて、ラビは後を追った。
 思う不安が、胸を過ぎる。
 この数日間で、自分の想いはイヤというほど気づかされた。だけど彼の方はどうだろう? 久しぶりの再会を喜ぶ様子もなく、あまりにも素っ気無い。
 汽車を乗り換えても漂う雰囲気は変わらず、終いには眠るから起こすなと吐き捨てて、浅い寝息を立ててしまう。仕方なくおやすみと呟いて、せめてもの存在誇示に、髪に口づけてみた。
 それを拒まれることはなかったけれど、もしかしたら気づかなかっただけかも知れない。
 ────ユウ、何考えてんの?
 自分は、逢えて本当に嬉しいのに。彼はそうじゃないんだろうか。
 このまま離れていかれたらどうしよう。
 イノセンスだった時の彼に嘘をついていたことを、もしかしたら怒っているのだろうか。
 許してもらえるまで謝らなければ。
 ────伝えたいことがあるんだ、ユウ
 笑われるかも知れないけれど、とても大切なことを。
 自分はその時、冷静でいられないかも知れない。せめて今は、恋人に穏やかな眠りを。






 本部に戻ったら、リナリーが涙目で迎えてくれた。神田はどうもリナリーには弱い様で、どう返せばいいのか悩んでしまう。
「リナリー、泣きたいならオレの胸貸すさ?」
「ラビったら、もう、バカね」
 冗談冗談、とラビは笑う。そういうのはアレンに任せてやろう、と舌を出した。
「神田くんお帰り、お疲れ様。まさかイノセンスだったとはね。報告は文書で出してくれる?」
「ああ、解かった、明日には」
 イノセンスをヘブラスカに渡してくる、とラビとふたり踵を返して、並んで歩く。
 ラビは少しだけ神田を振り向くけれど、変わらない彼の態度に視線を戻し、俯いた。
 心臓が、痛い。
 今すぐにでも抱きしめたいほど逢いたかったのに、神田からは同じ波長を感じ取れない。もしかしたら、自分が思っていたよりずっと、神田の想いは小さかったのだろうか。
 ────ユウ、それでも……オレは
 伝えたいことがある、と口唇を噛んだ。
 例え一方通行でも、彼に伝えたいことが。
「……」
 俯いたラビを視線だけで確認して、神田は気づかれないように息を吐いた。
「適合者、早く見つかるといいさね」
「……そうだな。そいつを、あのイノセンスはずっと探してるんだ」
 人から人へ渡り歩いて、記憶を喰らって、自分だけのひとを探しているんだ。
 ヘブラスカにイノセンスを保護してもらい、今回の騒動はひとまず終わりを告げる。ヘブラスカに取り込まれていったイノセンスを、神田はしばらく見つめていた。
「ユウ?」
 どうしたんだと声をかけるラビに、何でもないと呟いて身体を翻す。
「アイツは多分……オレにシンクロしちまったんだろうな」
「え?」
 廊下を歩きながら、呟いた神田に首を傾げ、詳細を促すラビ。
「オマエに惹かれたことだ。さっきも言ったが、オレも、自分の中で意識がなかったわけじゃねーから」
 ラビは目を瞠る。
「ユウ、それって」
「わかんねーなら、いいけど」
 イノセンスに支配されていても、神田ユウの意識はあった。
 イノセンスはそんな神田にシンクロした────つまり、シンクロさせるほど、神田はラビを想っていた。そう、捉えていいのだろうか。
「ユウ……」
 良かった、と息を吐く。まだ想ってくれているんだと知って。
「部屋、来るだろ」
 疑問符の付けられない問いにラビはいいの?と訊き返す。神田は何も言わずに歩を進めるが、それは肯定の意味にしか捉えられない。
 重かった足取りは、スキップができそうなくらい軽くなっていた。