ヴォイス

2007/03/18



 慣れた道のりのはずなのに、どこか知らないところでも歩いているような感覚に襲われる。この階段はいったい後何段あるのだろう。
 水路を通って、船を降りる。そこから先は階段で、これがいつものルートだった。
 足が重い。石でできた階段のはずなのに、ぐにゃぐにゃと頼りない。
「……っ」
 さっきより呼吸がしにくくなっている。頭痛も酷くなっている。壁伝いに歩かなければ、このまま崩れていきそうだ。自分の身体がこんなにも重いなんて初めてだ。たかが風邪を引いたくらいで、こんなにも言うことを聞かなくなるなんて。
 ────マジでヤバイ、なんだこれ
 気を抜いたらいけない。
 何とか階段を上り終えて、もうひとつの門番に出逢う。内部に入るための人体スキャンをここで行い、アクマかそうでないかを判断してもらうのだ。これはエクソシストだろうが探索部隊だろうが、帰還時には必ず行うもので、例外はない。
『お疲れ様です、ブックマン殿、ラビ殿』
 外部に対する門番のアレスティーナと同じ造りではあるが、幾分かの上品さを取り入れたらしい。
 ブックマンをスキャンし、問題なく終わる。
『中へどうぞ』
「うむ」
 ブックマンが本部内へと足を一歩踏み出したその後ろで、ぐらりと揺れる身体。ブックマンが気づいて振り返ったときにはもう、その身体は地面に突っ伏していた。
「ラビ!」
『ラビ殿!?』
 駆け寄ったブックマンの目に映ったのは、浅く呼吸を繰り返しながら横たわる弟子。紅潮した頬は、熱の高さを知らせていた。
 門番はすぐさま内部の回路を使って司令室に異常を報せる。その音と映像は、リアルタイムで送信された。
 司令室で、ビーッ、ビーッと機械的な音が鳴る。全員が、天井に取り付けられたスピーカーを振り仰いだ。
「緊急信号?」
 この音は、門番からの信号だ。付近で何かあった際の。
「兄さん! ラビが!!」
 モニターの近くにいたリナリーが、門番からのリアルタイム映像を確認して叫ぶ。室長であるコムイ・リーもそのパネルを振り向いて、目を瞠った。
 倒れ伏した、エクソシストの姿。
「すぐに医療班を向かわせて! 処置室の準備を!」
 珍しい光景だ、とは思ったが、そんなことを考えているヒマはない。すぐに指示を出し、自分も処置室に向かおうと踵を返す。
「リーバーくん、ちょっとここ頼むね」
「了解っす室長」
 ラビが倒れるなんてこと、本当に珍しい。
 というより、自分は一度も見たことがなかった。よほどの重体なのだろうか。
「兄さん、私も」
 私も行く、と駆けてきたリナリーに、こそりと耳打ちをする。
「リナリー。神田くんに報せてあげて」
「あ、う、うんそうね」
 気づいて、リナリーは方向を転換した。神田に、彼の帰還と異常を報せてやらねば。
 ラビと神田、ふたりの関係を知るものは少ない。コムイもリナリーも、直接ふたりから打ち明けられたわけではなかった。ただ室長・室長補佐という立場上、団員の行動や気持ちの変化には敏感でいなければいけない。
 そうした中で気づいた、ひとつの恋。
 ラビの嬉しそうな表情と、神田の優しい顔つきは、ふたりきりの時でなければ見られないようで、他の団員たちは気づいていないだろうけど。
 リナリーは裏の森へと走った。食事時でないこの時間帯ならば、彼はたいていそこで修練を積んでいる。険しい森だ、ブーツでは走るどころか歩くことさえままならない。
「神田、神田!」
 リナリーの声に、神田は六幻を振る手を止めた。珍しいな、と思って声のする方へ向かう。息を切らせたリナリーが、自分を捜していた。
「リナリー、どうした?」
 何事かあったのだとは分かるけれど、捜しに来るまでのことなのだろうか。任務であれば、ゴーレムで呼べば済むことだろうに。
「すぐ中に戻って神田! ラビがっ……」
 グイ、と腕を引かれた。口にされた名前に、身体が凍り付いて、上手くついていけなかったけれど。
 ラビ。
 神田の中に、深く根付く、名前。
「な、ん……ラビが、何、どう……」
 どうしたんだ。
 そんな短い単語でさえ、上手く言葉にできなかった。
 ラビは、恋人は今任務中のはずだ。帰還したのだろうか。
 だが帰還したのなら、直接ここに来るはずだ。ラビは、神田がこの時間帯ここにいることが多いのを知っているのだから、顔を見せるくらいはするだろう。
 それもなく、リナリーが呼びに来たという事は。
「ラビが倒れたの」
 門の前で、と続けるリナリーの言葉を反芻して、息を止めた。
「今処置室に運ばれてるはずだから。神田」
 腕を強く引かれ、足が動く。周りの景色は動いていくけど、自分の身体が前に進んでいるのか分からなかった。
 ラビが、倒れた。
 その言い方では、どんな容態なのか分からない。ラビも、怪我をすることはあった。だけど意識はあったし、大怪我と呼べるものはこれまでになかったはず。
 しかし倒れるほどの怪我ならば、現地で治療を施してから帰還するだろう。
 いったい何があったんだ。
 神田の心臓が逸る。肌があわ立つ。
 ラビが倒れたという門のところには、血の痕などは見られなかった。出血はないのか、とようやく思考が廻りだす。
 門番にスキャンをされて中に戻った。近づいてくる医療室への道のりが、どうしてかいつもより長く感じられる。こんなに遠かっただろうか。
 バタバタと忙しなく走る医療班。処置は一分一秒を争う。それを捕まえて容態を訊くのは憚られて、ふたりは少し離れたところで立ち尽くした。
「忙しそうだね。ラビの容態はどうなのかしら」
 リナリーは少しだけ中を覗き込むけれど、ここからではあまり良く見えない。
 ラビの容態も心配だが、神田の方も心配だった。
 腕にそっと触れると、微かに震えているのが分かる。
「神田、大丈夫?」
「……なんでだ」
 細く息を吐く。感情を堪えている彼は、あまり見たことがない。
 もうどれだけの割合を、お互いが占めているのだろう。それでもひた隠す秘密の恋は、リナリーの胸をも痛ませた。
 それ以上何も言えなくて、リナリーは俯く。何も力になれないのかと。
「コムイ」
 発せられた神田の声に目を見開いて顔を上げた。まさにたった今医療室から出てきたコムイの姿が見える。
「兄さん!」
 コムイはこちらに気づいて、優しい目を向けてきた。
「コムイ、ラビの容態はどうなんだ」
 訊ねた神田の声はとても静かだった。いっそ事務的なくらいに。
「うん、大丈夫そうだよ。怪我もしていないしね」
 にこりと笑ったコムイに、リナリーが大きく安堵の息を吐いた。本当に良かったと。しかし、その後にコムイは言葉をにごらせる。
「ただ……熱がものすごく高いんだ。解熱剤は投与したけど、しばらく絶対安静。ラビが倒れるなんてなかったから、僕もちょっと焦っちゃったよ」
 意識はまだ戻っていないけどねと続けるコムイに神田は、そうかと呟いて団服を翻す。ラビの様子を見にいくのかと思いきや、そちらは医療室とは反対方向。
「ちょっと神田どこ行くの!?」
 リナリーがそれを振り向いて叫ぶ。まさかこのまま顔も見ずに行くつもりなのか。
「ただの風邪だろ。死んでねぇならいい」
 自分がここにいても意味はない、とリナリーを睨みつけて。
 実際、神田にできることなんかひとつもなかった。医療の心得があるわけでもなし、表立って看病できる間柄でもなし。
 自分がここにいて彼が治るなら、いくらでもそうしただろう。
「神田」
「医療班だっているし、看病なんて誰がしたって同じだ。てめぇがしてやれよ、リナリー」
 神田はそう言って、責めるようなリナリーの眼差しを跳ね除ける。医療班がいるなら、それこそ私がしたってしょうがない、と呟いて、リナリーは頬を膨らませる。
 もしかしたら愛情という感情の作用が、回復に影響するかもしれないというのに、神田はそれを否定するのか。
「神田が何考えてるのか分からない」
「分からなくて結構だ」
 神田はそのまま、背中を向けて歩いていってしまう。ラビが倒れたと告げた時はあんなに動揺していたくせに、と思い出して、リナリーは息を吐いた。
「しょうがないねぇ、神田くんは、もう」
 呆れたようにため息をつくコムイを見上げて、
「兄さん、ラビは本当に大丈夫? 逢えるかしら」
「そっと見るだけならね」
 ラビの意識はまだ戻っていない。医療室に入り込んで、奥のベッドに横たえられた彼の様子を窺った。
 額に乗せられた濡れたタオルと、紅潮した頬。呼吸は少し苦しそうだが、脈は正常のようで、ホッと胸を撫で下ろす。
「さ、リナリー、キミももう戻りなさい。ラビのことなら心配いらないから」
「うん」
 ここなら医療班も常時待機しているし、何かあってもすぐに対処してくれるだろう。早く良くなって、と祈りながら、コムイもリナリーも医療室を後にした。





 夕食時も、神田は相変わらずだった。カウンターで頼んだ蕎麦を、一人テーブルについて口に運ぶ。いつもならその隣には、ラビがいるはずだった。
 彼の意識はまだ、戻っていない。
 あの後神田はまた森で鍛錬をしていたようだ。少し濡れたような髪は、入浴後であることを物語る。つまりは時間的に考えても、一度もラビのもとへ行っていないということだ。
 ────友人として顔見るくらい、したっていいのに
 そんな神田を眺めて、リナリーは頬杖をついた。ついた頬杖とため息が気になって、どうしたんですかと訊いてきたアレンには、笑ってなんでもないと返したけれど。
 ────少しの時間でも、神田たちにとっては大事なものなんじゃないの?
 ラビと神田がどんな思いで一緒にいて、どれだけの情熱で触れ合っているのか、外側からは少しも分からない。平坦な道のりでないことが、分かるくらいで。
 ────戦友を心配して顔を見るくらい、誰も咎めないわよ
 見ているこちらの方が泣きたくなってくる。いったいどれだけのことを諦めて、どれほどの感情を我慢しているのだろうか。
「神田、神田待って、ねぇラビの所に」
 夕食を終えて食堂を出て行く神田を追って、リナリーは駆ける。鬱陶しい、とあからさまな視線が返ってきた。
「ねぇラビのこと心配じゃないの?」
「しつこいな、お前も。大袈裟なんだよ」
 死ぬような大怪我を負っているわけではない。またすぐに、あの男は笑って駆けてくる。きっとそのはずだ。
 薄情者、と眉を吊り上げるリナリーに少しだけ息を吐いて、神田はリナリーに向き直った。
「お前はわからねぇかも知れねぇけどな、アイツはお前が思ってるよりずっとプライドが高ぇんだよ。怪我ならともかく、たかが風邪ごときで臥せってるとこなんざ、見られたくねぇだろ」
 特に、自分には。神田が心の中で呟いた言葉に、リナリーも気づく。
 弱っているところを見られたくない、という感情は、確かに女であるリナリーよりも、神田やラビたちの方が大きいかも知れない。男って面倒くさい、と嘆息した。
「お前もあんまり、行くなよ」
「神田」
 もう、振り向きもしない。プライドを気にして我慢できてしまう想いなのか、とリナリーは少しだけ口唇を噛んだ。
「リナリー、どうしたんですか? 神田と何か」
 少し遅れて食堂から出てきたアレンの声を聞いて振り向く。彼らの関係を、アレンは知らない。悟られてはいけないことだった。
「ううん何でもないの」
「ならいいですけど。そういえばラビは大丈夫かな? 僕様子見てきます」
【臥せってるとこなんざ、見られたくねぇだろ】
 神田の言葉が頭を過ぎる。恋人である神田にも、女である自分にも、年下であるアレンにも、それはやはり見られたくない姿なのかも知れない。
「アレンくん、ラビなら大丈夫だよ。心配ないって兄さんも言ってたもの」
 先日美味しいお菓子を手に入れたから談話室で一緒に食べよう、と誘う。アレンは嬉しそうに笑ってはいと頷いた。