ヴォイス

2007/03/18



 アレンにはああ言ったものの、やはり心配なものは心配だ。特にラビが怪我以外で倒れるなんてこと今まで一度もなかったから、余計に。
 もうすぐ日付が変わろうか、というそんな時間帯に、年頃の少女が出歩くのはあまり好ましくないが、教団内であれば安全だろう。足音を忍ばせて、リナリーは医療室へと向かった。
 ドアの隙間からこぼれる薄暗い灯りは、そこにまだラビが収容されていることを物語る。絶対安静、とコムイが言っていたのを思い出し、起こしてしまったらいけないと、物音を立てないようにそっとドアを開けて中の様子を窺う。
 だけどそのドアは、三秒ほどしか開けていられなかった。
 そこから見えたのは、ラビが横たわるベッドの傍ら、そっと彼の髪を梳く神田の姿。
 リナリーは気づかれないようにそっとドアを閉めて、思わず火照った顔を俯けた。
 ────な……なんて顔してるのよ、神田
 あんな顔は見たことがない。壊れ物にでも触れるかのようにそっと髪を梳き、微かに緩む口許と少しだけ伏せた目蓋。
 横たわる人へと向かう恋情、と見て取れた。
 硬派とされる神田も、ラビの前ではあんな表情を見せるのか。あれでは見ているこちらの方が照れてしまう。孤高のエクソシストは、とんでもない武器を隠し持っていたのだ。
 彼のためにも、ラビが早く良くなるように祈ろうと、少女は笑って自室へと引き返した。
 一方、神田はといえば。
 ラビの赤い髪を指に絡ませて弄び、ベッドに頬杖をつきながら小さなため息。
 ────あー、くそ、どうするかな
 こんなところにはいるものの、もともとはラビを見舞って来たわけではない。以前医療室から借りていった包帯が、余ったため返しに来ただけだった。
 まあそれを口実に、と取れないこともないが。
 少し調べ物をしたい、と神田に言い残し、常駐の医療班は奥の部屋へと引っ込んでしまった。何かあったら呼んでくれとは言われたが、その調べ物が終わるまでここを離れられないということだろうか。
 これが他の人間なら放って帰るところだが、なんといっても今臥せっているのは自分の恋人だ。
 心配じゃない、と言えばまったくの嘘になる。特にいつもがあれだけ騒がしい男だからか、こんな事態は周りの動揺も大きい。
 ────こいつが起きたらなんて言い訳しよう
 こんな姿は見られたくないはずだ。自分だって、ラビにそういった姿は見られたくない。こればかりは男のプライドだ。
 ここでラビが目を覚まし神田を瞳に映したら、どんな反応をするのだろう。バツの悪さを押し隠して笑うだろうか。そうしてくれたらありがたい。嫌そうな顔でもされたら、きっとしばらく立ち直れないだろう。
 ────なんだって俺が、好き好んでお前の嫌がることしなきゃなんねぇんだ
 だったらこのまま放って立ち去ればいい、とも思うのだが、そうさせてくれないのが悲しい恋心。
 ラビに逢いたかったのは事実だ。
 そんなことを思う自分はいささか背筋が寒いと感じるが、この存在を目に映してしまうと、そんな思いも弾け飛んでしまう。
 ────……なんでこんなんなってんだ、俺
 ラビと恋人同士になる前は、こんな人間ではなかったはず。近づくもの全てを自ら遠ざけて、いつこの世からいなくなってもいいように、必要最低限の感情だけを放出していた。
 後はあの人を捜し出せればいいと。捜し出して、言わなければいけないことがある。それを終えれば、その時この世界がどうなっていようと関係なかった。
 ラビという男に出逢うまでは。
 最初の頃はケンカばかりしていた気がする。お互いの態度が気に食わなくて、痛いところを突かれて売り言葉に買い言葉。殴ったことも、何度かあった。
 そんなに気に食わないなら話しかけるなと怒鳴ったその後に、うんでもどうも神田のことが好きみたいなんだよねと、まるで天気の話でもしているかのように呟かれた言葉に唖然として、笑ってしまったことを覚えている。
 口づけられて、嫌悪を感じなかった自分は、その時もうラビのことを好きだったんだろう。
 ラビが、誰の味方にもなれない中立の立場であることと、神田が、命を削ってまで人を捜していることをお互いに告げたのは、恋人関係になって少し経った後だった。
 ────今さら後には引けねぇけど
 共に過ごす未来を夢見ることもできなくなって、諦めた夜もあった。逃げようかと嘯いて、実際できもしない絵空事だと笑った日もあった。
 それでもふたり共にいることを選んだのは、お互い自身。
「……早く起きろよ、馬鹿うさぎ…」
 そんなところに寝ていないで、早く目を覚ましてほしい。笑い顔が見たいんだ。いつまでも一緒にはいられないと知っているから、できる限り多くの時間を。
「……っ」
 呻くような音が聞こえて、神田はハッと顔を上げる。
「ラビ」
 意識が戻ったのかと思ったが、どうも呼びかけに応じる様子がない。普段刻まない眉間に皺を寄せて、浅い呼吸を繰り返している。
「ラビ、苦しいのか?」
 こんな呼吸では、苦しくないはずがない。じんわりと汗も浮き出して、熱が高いのだと知らせてくる。
 タオルで汗を拭ってやっても、シャツのボタンを緩めてやっても、一向に治まる気配がない。医療の心得がない素人では、これ以上どうしてやったらいいのか分からない。
 医療班を呼ぼう、と踵を返した。




 注射器から、何かの液体がラビの中に注入される。神田はそれを、眉を寄せて眺めていた。
「これで大丈夫だと思いますよ」
 医療班が、ラビの腕から注射器を抜く。神田にはどんな処置を施したのか分からない。だが医療を専門としている人間がそう言うのなら、それを信じるしかなかった。
「熱がまだ下がらないようなんだが」
 先ほどはすごい汗をかいていた。このまま下がらないようだったら、かなりの重症だろう。
「明日の朝には下がってますよ。他に異常は見られないですし」
 良かったらデータ見ますかと提案されるが、そんなものをいくら見たって神田にはわからない。一晩休んで治るのならそれでいい。
「……もう少しここにいていいか」
 でも、もし、万が一。
 万が一にも状態が悪化して、このまま目が覚めなかったら?
 こんなことでこの男が命を落とすわけはない、と思う。だがそれだって、予測の域を超えない。人の命は絶対ではないんだ。
 一秒先だって知れないのに。
 考えたくはないが、もし悪化してしまった時、……万が一の時は傍にいたい。何もできなくても、命の最期を見届けて、自分に言い聞かせなければいけないから。
「ええ、どうぞ。何かあったらすぐに呼んでください」
 奥の部屋で待機してます、と告げて、人のよさそうな青年は道具を片付けて奥の部屋へと足を向けた。
 神田は傍らの椅子へと座り直し、寝息の整ってきたラビの頬にそっと触れる。医療班の言った通り、熱が少し高い以外に異常は見られない。
 ホ、と息を吐いた。
 ラビがこんな風になったのを初めて見たせいか、少し動揺が過ぎたようだ。マイナスの思考ばかりが頭を巡り、心臓が逸るなんて。
「てめぇがそんなところに寝てるからだぞ、馬鹿」
 だけどせめて熱が下がるまで、傍にいようと緩く口の端を上げた。





 神田はハッと目を開ける。ベッドのへりに突っ伏して、どうやら眠ってしまっていたらしい。
 ラビはまだ眠っている。自分の身体にかけてあったブランケットは、医療班の青年がしてくれたものだろうか。疲れていたのだと、後で言い訳をしておこう。
 ラビの額に置かれた濡れたタオルを取って、手のひらを当てた。高かった熱は平常に戻っているようで、ホッと安堵の息を吐いた。
 辺りを見回せば、窓から入り込む光で部屋は明るく、どことなく肌寒さを感じさせる。一晩ここで過ごしてしまったのかと思うと、どうにもバツが悪い。
 ────たかが風邪でこんなんなってどうすんだ
 熱も下がったようだし、医療班に声をかけて早々に立ち去ろう、と思ったその時、ラビの身体がもそりと動く。
 目を覚ます前にここを出ようと決めていた手前、踵を返して出て行きたいが、そのプライドと、声くらい聞きたいという恋心がぶつかって、動けなくなった。
「……ラビ」
 神田の声に、ラビの目蓋がゆっくりと持ち上がる。三度ほど瞬いて、灰色がかった緑の瞳は、まっすぐに神田を見つめた。
 口の端が緩められて、神田もつられて笑う。
「平気か? 熱出して倒れたそうじゃねぇか」
 あたかもたった今ここに来たと言わんばかりの言葉を選び、息を吐いた。微笑んでくれてよかったと。
 髪を掻き分けて額に触れた神田の指に、くすぐったそうに身を捩り、ラビはゆっくりと起き上がる。自分で起き上がれるのなら大丈夫そうだと思った。
 口を開いてそのまま止まり、喉を押さえたラビを見るまでは。
「なんだ、喉痛えのか? 風邪引いてるからだろ」
 情けねぇ、と付け加えて笑う。
「何かメシ食ってから薬でも飲んでおけ」
 それで治るだろう、と言ってから、ようやく気づく。口を開けても、ラビが一度も声を発していないことに。
「……ラビ?」
 喉を押さえたままのラビの視線が泳ぐ。時折、口を開く仕種は見せるけれど、その口から音が発せられることはなかった。
「なんだよ、そんなに痛ぇのか?」
 訊ねた神田の言葉に、ぶんぶんとラビの首が横に振られる。どうやら、痛みがあるわけではないらしい。
 何かを言おうとして口を開けるけれど、音となって聞こえてこない。
 お互いが困惑した。
「おい、ラビ! ふざけてんのか!? 言いたいことがあるなら、遊んでねぇではっきり言え!」
 ラビは焦ったように辺りを見回した。何かを探すように。それに気づいて神田が何だと訊ねるが、パクパクと開かれた口からは何も聞こえず、埒が明かないと気づいたラビは、自分の欲しいものをジェスチャーで神田に伝えた。
「……書くもの?」
 それを見て躊躇いがちに呟いた神田に勢いよく頷いて、持ってきた神田から紙とペンをひったくるように受け取って、何かを走り書く。
 神田は不思議に思った。ブックマンの一族は記録を生業とはしているが、それは全てが口承で、何かを紙に書くのは禁じられているはずではなかったか、と。
 それを破ってまで、何を書いているのか。
 神田はラビから小さな紙切れを受け取って、書かれた文面に目を瞠る。
「冗談はよせ」
 くしゃり、とその紙を握りつぶし、そこに書かれた文面を否定した。崩れた字体には、彼の焦りが見えたけど、信じたくなくて。
「ふざけてんじゃねえぞ……なんで…」
 いったいどうして。何が原因で。
「なんでだラビ! 出せよ、声!!」
 声が出ない、なんて。
 困ったようなラビの表情は、変わりない。意識が戻ってから今まで、声を発していなかった。発することができていなかった。
「声出るだろ!? 呼べよ俺の名前!!」
 ガッと胸ぐらを掴み引き寄せても、彼の口から声が発せられることはない。病人相手にいささか乱暴かとも思ったが、そんなこと気にしていられなかった。
 逢いたかった。────それは叶った。
 顔を見たい。────それも叶った。
 すぐ傍で声を聞きたい。────それだけが。
「呼べよ、ラビ……っ」
 いつものように、ユウと。
 それは些細な願いだったように思う。世界の平和を願うのに比べれば。
 ラビの口は開かれるが、音は出ずにやがて諦めたように閉じ、苦痛に歪んだ顔は背けられる。
 遊びや冗談で、こんな時に嘘をつく男ではない。どうしても出すことができないのだと、苦痛に歪められた顔に心臓が痛む。
 神田はゆっくりと手を離し、言葉を呑んだ。
「い、医療班のヤツ呼んでくるから、そこにいろ」
 逢えたら言いたかった、多くの言葉を。