ヴォイス

2007/03/18



「異常は見当たりません」
 ラビの声が出ない、という異常を告げ、数人の医療班によってラビを診断させる。脈拍、脳波、体温。その他にも色んなことを確認した。
 そうしたにも関わらず、異常はないとのこと。ただ声が出ないということを除けば。
「ふざけんな! そんなわけあるか!!」
 現にラビの声が出ていない。どこかに原因があるはずなのに、検査した全てが正常だったのだ。
「私だっておかしいと思いますよ! だから何度も確認してるんじゃないですか!」
 もう一度調べ直せ、と掴みかかる神田を、駆けつけていたコムイが止める。
「神田くん離しなさい、気持ちは分かるけど、数値見た限りじゃやっぱり異常性は感じられないんだ!」
 体温も正常に戻った。喉も腫れていない。声が出ない原因が、どこにあるのか分からなかった。
「だったらなんでコイツの声が出ねぇんだよ!!」
「ラビ、何か心当たりないかい? 任務中に何か変なもの食べたとか、飲んだとか」
 神田を宥め、ラビに任務中のことを思い出すよう声をかける。必ずどこかに原因があるはずなんだ、と。
「食事が原因である可能性は低いな。それが原因ならワシにも同じ症状が出ているはずだ」
 大事な後継者を案じてか、ブックマンも駆けつけていた。任務中は確かに行動を共にしていたし、同じものを食した。離れていたのは、アクマを討伐するために別行動していたあの時だけだ。
「小僧、何か心当たりはあるか」
 考え込む仕種が見られない。ということは、何か思い当たることがあるのだろう。ラビはブックマンに目をやり、口を開けた。音は、やはり聞こえない。それでも構わず、ラビは口を動かした。
「それが原因か」
 医療室がざわめく。音は確かに出ていなかった。知れでもブックマンにはラビの言わんとすることが分かったのか。
「ブックマン、何か」
 ブックマンは振り向いて、告げる。
「アクマの灰を吸い込んだそうだ」
「……灰を!? まさかそれが原因で」
 読唇術を使ったらしいブックマンが、ラビの代弁をする。それくらいしか原因らしい原因は見られないと。
「風に煽られた灰を飲み込んだ後、心臓が痛んだとも」
「アクマの灰……もしかしたらウイルスにやられているかも知れないですね」
 医療班は、外傷や病気の治療に当たる専門職で、アクマやウイルスに関しては管轄外だ。だとしたら、この先は科学班の協力が必要になってくる。
「アクマウイルスの資料と調査器具を持ってきてくれ。……いや、リーバーくんはそこにいて。こっちで僕に何かあった場合はキミに任せなければいけない」
 コムイはすぐさま内部無線で科学室に連絡を取り、指示を出す。
「あと、他のエクソシストたちを医療室に近づけさせないように」
『了解、ドールを向かわせます』
 ドールとは、コムイが遊び半分で開発したコムリンに、改良に改良を重ねたヒューマンドールだ。余計な知識を削減し、書類の整理やお茶くみといった単純作業だけを特化させたもので、科学班ではなかなかに重宝している。
「昨日からこの部屋に来た全員を検査して。空気感染してる恐れもある」
 今のところ、他の団員に異変は起きていない。しかし遅効性のウイルスである可能性もないわけではなく、油断は禁物だ。
「ラビ、すまないけれど、こういった事象は初めてなんだ。データを取らせてもらえるかな」
 向き直ったコムイにラビは頷く。科学班からのドールが到着し、あの時から現時点までに医療室を訪れた全員が、アクマウイルスの感染がないか検査を受けた。
 撮影されたレントゲンを見比べ、あるいは脈拍などの数値を確認し、コムイは眉を寄せる。
「……どうやら空気感染はしないみたいだね」
 そうした結果は、空気を介しての感染はない事が確認された。
 それが確認されたところで、コムイは科学班から応援を要請し、さらに詳しく感染を調べる。神田は黙って、その様子を見ていた。時間がかかるから外で待っていた方がいいよと言ったコムイを無視して、あるいはその声が脳の奥まで届かずに、神田はそこを動こうとしなかった。
「嫌な影だね、ここ」
「あー、そうっスね。喉の辺りに集中してますが、肺や胃にまで」
 アクマのウイルスは研究段階ではあるが、それを検知する特殊なカメラで撮影したレントゲン写真には、モヤのような影が写っていた。通常のレントゲン写真には写っていなかったものだ。
「マウスでの実験はどうだい?」
「五匹中の三匹……いえ、今四匹が感染している状態ですね」
「そうか。引き続き様子を見ていてくれ」
 コムイは白衣のポケットに手を入れて、神妙な面持ちでラビを振り返る。今までに分かったことを報告するために。
「ラビ、聞く勇気はある?」
 こくり、と頷くラビ。神田の心臓が、唐突に跳ねた。
「まだ調査段階だから正確なことは言えないけれど、キミの中のウイルスには感染性があるらしくてね。空気感染はしないけど、マウスでの実験は、唾液からの感染が確認されたよ」
 五匹中の四匹に感染したと付け加え、眼鏡をかけ直すコムイ。
「な、治るのか?」
 神田の声が聞こえて振り返る。怒りからなのか恐れからなのか、その声は僅かに震えていた。
「今の段階では何も言えない。もちろん治るように最善は尽くすけど」
 治るかどうかは、今は答えられない、とコムイは俯く。ただ感染性と経路が確認された限り、被害の拡大を防がなければいけない。
「ラビ、食事は部屋に運ばせるよ。入浴は……どうしようか、部屋にシャワールームつける?」
 唾液からの感染があるということは、汗や血液からの感染もあり得る。感染の拡大を避けるためには、接触をさせないことが第一の手段。
 心を鬼にしてでも、室長としてはこの対策を取らざるを得ないのだ。
「コムイ、それって早い話が軟禁状態じゃねぇのか」
「……そうだね」
 茫然とした神田の声。ただでさえ色んな制限がある彼らに、これ以上の理不尽な感情は持たせたくなかった。個人的なことを言えば、応援したいくらいだったのに、とコムイは口を引き結ぶ。
「体液からの感染があるから、性交渉はもちろん、キスも駄目だ。間違っても娼館なんか行かないようにね」
 暗に、ふたりの深い接触を禁止する。
 ラビの表情が曇っていくのは分かったけれど、どうしようもなかった。感情を堪えているのか、噛んだ口唇から血の気が引いていく。泣き出さない精神力は、さすがだなと妙なところに苦笑した。
「僕たちは、これから全力でキミの治療に当たる。少しでも症状に変化があれば、知らせて欲しい」
「…小僧、この件に関してだけは、記述を認めよう。何かと不便だろうからの」
 ラビが申し訳なさそうに笑ってこくんと頷く。次の瞬間、神田が医療室を飛び出した。
「!?」
「神田くん!」
 驚いて呼び止めるも、彼の耳には入っていないのか、振り返ることすらしない。
 ラビは慌ててベッドを降り、ふらつきながらそれを追う。ブックマンの、止める声も聞かずに。




 ────呼び止めることもできないさ
 神田を追いながら、ラビは思う。いつもだったらこんな時、名を呼ぶことで彼を立ち止まらせ、そうして追いついて、力強く抱きしめるのに。
 どこをどう走っているのか、きっと神田自身も分かっていないんだろう。当てもなく、ただひたすらに走り、理不尽なまでの仕打ちに思考をめぐらせて。
 ────これ以上何を犠牲にしたら、胸張って恋人って言えんのかな
 未来を約束してやれる立場じゃない。ずっと傍にいられる日常なんてない。さらに名前を呼んでやることさえできないなんて。
 きっと世界には、自分たちより過酷な運命を辿っている人たちだっているだろう。いちばん不幸だなんて思えないけれど、それでもあまりの運命に、視界が歪む。
 名前を呼びたい。大好きなあの人の。
 愛してるって言いたい。心の底から。
 どうしてそんな簡単なことが、今、できないのか。
 追いつきそうで追いつけない。せめて触れたいのに、それさえできなくて。
 ────待って、ユウ
 これ以上手の届かないところに行かないで。
 腕をめいっぱい伸ばして、揺れる黒髪を追う。前だけにとらわれていたせいで、足元の注意がおろそかになった。ずれて少しだけ突き出たタイルに爪先が引っかかり、足がもつれて前のめる。突然のことに体勢を整えることもできず、ラビはそのまま転んだ。
 ドサッ、という音がやけに耳について、神田は立ち止まって振り向く。
「ラビ!」
 振り向いたそこに膝をつけたラビを見つけ、目を瞠った。追ってきていたのかと。
 普段なら、声くらい投げてくるはず。
 普段と違うことを、再度認識させられた。神田はラビのもとに駆け寄り、しゃがんで抱き起こす。
「走ったりすんなよ、病み上がりなんだぜ」
 声はやっぱり返ってこない。ただ抱き起こした腕を、ぎゅっと握ってくるだけ。
「──ラビ」
 その肩が震えているのに気づいて、心臓が痛んだ。
 声が、出ない。
 あの時無線越しに聞いた声が最後だなんて思いたくなくて、思わず逃げ出してしまったけれど、今自分がするべきは、逃げ出すことじゃない。
「怪我、ねぇか」
 少し間を置いて、ラビは頷く。声を出そうとしたようではあるが、できずに首の動作だけで伝えるしかなくて。
 ────もどかしい。声が出れば、大丈夫って笑って言えるのに
 声が出せる。そんな当たり前のことがどれだけ幸福だったか、こんなことになって初めて思い知らされる。
 ────ユウ。お前の名を呼びたいのに
 必死で涙を堪えていると、神田がそっと抱き寄せてくれて、目を瞠った。肩口に顔を寄せる形になって、泣けとでも言うように強く抱きしめられる。
「……すまない、お前の方が辛いのに逃げ出したりなんかして」
 神田は思う。この男を支えてやりたいと。今まで、そんなことは思ったことがなかった。ラビが傍で笑っているのは当たり前のようになっていて、それに自分が支えられてばかりだったのだ。
「俺が傍にいることは、今のお前にとって苦痛になるか?」
 だけどもし、声を出すことのできないラビにとって、恋人という存在が重荷になるなら、傍で支えることは逆効果。できればそうあって欲しくないと眉を寄せて訊ねたら、ぶんぶんと首が横に振られて安堵した。
「泣けよ、ラビ。支えてるから」
 愛しいと、心から思う。
 今までラビに、どれだけ支えられてきたかを知った。それでも驕ることなく傍にいてくれた大事な恋人を、今度は自分が支える番だ。
 震え出す肩と、聞こえてこない嗚咽。声を上げて泣くことさえできない恋人を、神田は強く強く抱きしめた。