ヴォイス

2007/03/18



 数日経った今でも、ラビの声は回復していなかった。ラビには普段とは別の部屋が用意され、シャワールームも完備された。声の出ない状態では任務に就かせることもできず、日々を本部内で過ごすことになる。
「ラビ」
 いつものように検査を終えて部屋に戻ると、窓際で椅子に腰掛けて本を読んでいたらしい神田が、顔を上げて迎えてくれる。
「戻ったのか。どうだった?」
 特に変わったことはない、とラビは肩を竦めてみせる。
 この数日というもの、何時間か毎に身体の検査を強いられ、たびたび医療室に出向くも、症状や検査結果は変わらず、息を吐くだけだった。
 それでも部屋に戻れば、恋人が出迎えてくれる。
 朝起きて、カーテンを開けて、食事を持ちに行く。運ばせるよとコムイは言ったけれども、それは断った。部屋に閉じこもってばかりいたくないから。
 すれ違う団員たちには手を振って挨拶を済ませ、紙に書いた好物を、食堂のカウンターで注文する。そうした頃ちょうどいい具合に神田も食堂にやってきて、相変わらず蕎麦を頼むのだ。
 朝食を持って二人で、ラビの部屋に戻る。何かの拍子に唾液が混ざらないよう細心の注意を払い、少し距離を置いて食事を取る。ラビの使った食器は検査・分析に回され、廃棄された。
 そうして朝食を終えた後は、読書の時間になる。読書とは言ってもラビにとっては大事な知識の吸収で、ブックマンという一族に課せられた大切な任務だ。
 それはブックマンに渡された分厚い書物だったり自分で書庫から引っ張り出してきた書物だったりしたけれど、その量は一般人から見れば膨大なもの。特に、日々アクマを破壊することに専念している神田にしてみれば、尋常ではない多さだった。
 午前中はラビに付き合って部屋で読書をし、午後からはラビは修練に勤しむ神田に付き合って、外で読書。激しい運動でウイルスが活性化する恐れがあるから、手合わせには付き合えないけれど。
 そんな風に数日過ごしたけれど、一切が何も変わらなかった。
「ラビ、少し休むか? 検査ばっかで疲れてんだろ」
 連日検査を強いられるラビを気遣って、神田はそう声を投げかけるが、ラビは笑って首を横に振る。身体的には何の問題もないし、修行をサボればブックマンに怒られてしまう。
「そうか。きつかったらちゃんと休めよ?」
 うん、と頷いて、ラビはいつものように神田の隣に腰掛ける。昨日からの続きを読もう、と本を開いた。



 部屋のドアがノックされたのは、それから少し経った後。神田はそれに気づいて顔を上げたが、部屋の主であるラビは本に没頭して気づいていない。一度入り込んだら周りに意識が向かなくなるのは、ラビの悪い癖だと思って、それでも神田は席を立った。
「ウチの馬鹿弟子はおるかの」
 訪ねてきたのは現ブックマン、ラビの師匠。神田がこの特設の部屋にいることを不思議にも思わない老人を、いるにはいるがと招き入れる。
「ラビ」
 書物に没頭しているラビの肩を叩いて、師匠の来訪を告げる。やっと気づいたようにラビは顔を上げ、ブックマンの姿を認めた。
「何か話しがあるなら、オレは席を外す。ラビ、また来るから」
 そう言って立ち去ろうとするも、特に聞かれて困る内容でもないと言うブックマンに、ドアを開けるタイミングを逃し、いささか居心地悪そうに神田はベッドに腰かけた。
「まだ、声は戻らんらしいな、その様子では」
 ブックマンの声に、ラビは眉を寄せて顔を背ける。この老人の言いたいことが分かっているから。
「我々の行う記録は全てが口承じゃ。声が出んのでは使い物にならん」
 分かっておるな?と念を押されて、ラビは口唇を噛んで頷く。神田も、ブックマンが何を言いに来たのか悟って、目を見開いた。
「ま、待ってくれブックマン。こいつはあんたの跡を継ぐのが夢で」
 そのために生きてきたんだ。今までどれだけのことを犠牲にしてきたかは、神田には分からない。だけどそれをするために、血のにじむような努力をしてきただろうことは、理解できる。
 その道を、絶たれるのか。
「逸るでない。ワシとてそうそうたやすく後継者を手放すわけにはいかんのだ。かと言ってこのままでは歴史の語り手がいなくなる」
 このままラビの声が戻らないのであれば、新しい後継者を捜すしかない。時に非情になってでも、その血を絶やすことは許されないのだ。
「三ヶ月だ、ラビ。それ以上は待てん」
 治すまでの期限を区切られる。それを過ぎれば、ブックマンは新しい後継者を立てにいくだろう。たとえその後に、声が戻ったとしても。
 話すことはそれだけだ、とブックマンは背を向け、部屋を出て行く。横暴だ、と引き止めることもできずに、神田はそこに立ち尽くした。
 ────なんの役にも立ってねぇ
 何か良い策を提案できるでもなく、ブックマンを引き止められるでもなく、本当に傍にいることしかできないなんて。
 ────くそっ、俺がしっかりしなきゃなんねぇのに
 当事者であるラビは、もっと苦しんでいるだろう。神田は自分の不甲斐なさに、情けなくなって髪をかき上げた。
「……ラビ?」
 そんな神田のシャツを、つんつん引っ張ってくる指がある。不思議に思って振り返ると、ラビの笑い顔。
 大丈夫、きっと治る、と言われたようで肩の力がすっと抜けていく。ラビの強さを、改めて知った。声を失ってもなお、ラビは自分を支えてくれる。
 ラビは、安堵したような神田を見上げ、手元に置いてあった紙に何かを書き記し、神田に手渡す。筆談にはもう慣れた神田がそれを受け取って、
「眠いなら、少し寝ておけ。昼になったら起こしてやるから」
 少し眠い、と書かれた紙切れをラビに返してやると、ラビは少しだけ口を尖らせた。そしてさらに、次の言葉を書いて渡す。
 膝貸して、と書かれた紙に神田は目を落として、ふっと息を吐いた。
「仕方ねえな、ったく」
 ラビは時々こうして甘えてくる。戦闘中やベッドの中での男らしさとのギャップが激しくて、可愛くて愛しいなんて思ってしまうんだ。
 神田はぎしりとベッドに乗り上げ、ラビを誘う。
「ほら、来いよ」
 嬉しそうに笑って、ラビはいそいそとベッドに寝転がった。座った神田の膝に頭を乗せ、眠りやすいようにもそもそと体勢を直す。
 神田はラビの身体にブランケットをかけ、髪をなでる。
「とんだ甘ちゃんだな」
 だけどこんなに穏やかな気持ちになったことは、今までなかった。ラビに甘えて、包んでもらうばかりだった自分が、こんなに優しい気分になるなんて。
 心地よさそうに目をつむるラビに、少しでも穏やかな眠りが訪れるようにと祈った。
祈った、その奥で。
 ────このまま声が出なかったら、ブックマンになる必要ねえんだよな
 そうすれば、ラビはずっと教団にいられる。心を殺すこともなく、好きなものを好きと言って生きることができる。
 そう思って、眉を寄せた時。
 とんとんと腕を叩く手に気づく。ハッと思考を戻すと、ラビの嬉しそうな瞳が見上げてきていた。
「? なんだ?」
 口をパクパクと動かして、何かを伝えようとしている。だけど音にはならなくて、神田は首を傾げた。
「まどろっこしいな、紙に書けよ」
 自分はブックマンみたいに読唇術なんか使えないのだから、と続けるが、ラビは構わずに口唇を動かした。とん、と人差し指で自分の口唇を叩いて。
 口唇読んで、と。
 仕方なく口唇の動きを追ってみると、どうやら短い単語を繰り返しているようなのだが、読み取りきれない。
「ラビ、もう少しゆっくり喋れ」
 眉を寄せた神田に気づいて、ラビはスピードを緩めた。慣れない読唇術を一生懸命してくれている恋人を、心から愛しいと思って。
「ア、…イ? …ラー……、……!!」
 ゆっくりと動かされた口唇をようやく読み取れて、神田はカァッと顔を赤らめた。
 アイラブユー。
 たった、それだけの単語。
「バッ、馬鹿か、お前は、……もう!」
 へへーと嬉しそうに笑うラビ。照れくさくて、神田はラビの額を叩く。触れたそこは温かくて、こみ上げる罪悪感。
 ────俺、今なに考えてた?
 このままならブックマンにならずにすむと。そしてずっとここにいられると。
 ────俺は、なんてことを
 ブックマンになるのが、ラビの夢で生きる目的なのに。それが叶わないことを、一瞬でも望んでしまっただなんて。
 こんなふうになっても、ラビは前だけ見据えているのに。
「ラビ……悪い」
 溢れてきた涙を見られたくなくて目を覆う。それに驚いて起き上がったラビは、おろおろとうろたえながら神田を強く抱きしめた。
 ────ど、どうしよう。ユウがこんな風に泣くなんて珍しいさ
 長く関係を続けてはいても、彼が何を思って泣いているのか感じ取れなくて情けない。自分の声がいつまで経っても戻らないから悲しんでいるのか、それとも何もできないことに悔しさを感じているのか。
 もしかしたら、一緒にはいない方がいいのかも知れない。
 神田があの時【支えてるから】と言ってくれたことが、本当に嬉しかった。声が出なくなったことで終わってしまうような浅い関係は築いていないつもりだったから、安堵も手伝って。
 ────ユウは優しい……でもこれのせいで傷ついてんなら、距離を置いた方がいいかな
 声が出なくなって以来、神田は普段表に出さないような優しさで包んでくれている。それなのに、薄情にも自分の声は一向に戻ってこない。気持ちを言葉にすることがどんなに大切で嬉しいことか、自分も神田も知っている。
 ありがとう、愛してる。
 そんな簡単なことが、言いたくても言えない。聞きたくても聞けない。そんな状態でいつまでも過ごせるほど、自分たちは大人じゃなかった。
 ────けど離れたくねぇさ。ただでさえいっぱい制限があんのに……これ以上は
 いつまでも一緒にいられる関係じゃない。それもお互い知っていた。だからこそ一度は諦めて、それでもまた起き出した心を、温め続けた。
 でき得る限りで共にいようと、ふたりで決めた。傷ついても、傷つけても、想いを注いで。
 ────このまま声が出なかったら、ブックマンにならずにずっとユウの傍にいられるなんて思ったこと、ユウにバレたら怒られるかな
 自分がブックマンになりたがっていることは、神田も承知で、尊重してくれている。それを、一瞬でも裏切ったと知れたら。
 ────…ユウ、ごめん
 申し訳なくて、震える身体を強く抱きしめる。まるで懺悔の代わりとでも言うように。
 しばらくそうした後神田の震えが止まって、涙は止まったのかと背中をさする。ぎゅっと抱き返してくれて、愛しさに胸が詰まった。
 顔を上げて、寄せてきた口唇を、ラビは指の先でそっと押し戻す。困ったように向けたラビの苦笑いに、神田も気づいて顔を俯けた。
 こんなに愛しく思っているのに、キスもできない。
 身体を繋げるなんて以ての外。こうして抱きしめ合って、体温を確認するのが精一杯だ。
「……ラビ、眠るか? 俺はもう、大丈夫だから」
 それでも、恋することをやめられない。力になりたい。傍にいたい。その想いだけで充分なんだと知った。
 神田は身体を離し、逆にラビの身体を支える。ラビは少し笑って頷き、ベッドに身体を横たえた。頭を神田の膝に乗せ、毛布を引っ張る。おやすみなさいも言えなくて眉を寄せるけれど、髪を撫でてくれる神田の手に安心して、口許を緩めた。
 その笑顔は先ほど愛の言葉を告げた時と同じで、どうにも照れくさい。声が出ない状況でさえ、ラビは伝えてくれた。自分も何か、と思うが、逆に言葉が出てこない。
 それならば。
 神田はラビの額を指でとん、と叩き、見上げさせる。そして、今度は自分の口唇を指し示した。読め、と。
 ラビなら、その不自然な体勢からでも読み取れるだろう。
 神田は声を出さずに、ゆっくりと口唇を動かした。
 アイラブユー、と。
 その動きに目を瞠って、ラビは嬉しそうに微笑んだ。
 伝わる。大丈夫。声がなくても、生きていける。