ヴォイス

2007/03/18



 まるで通い妻のようだ、と神田は息を吐いた。感染るといけないから、と夜はラビに部屋を追い出される。そして翌朝、食堂で出逢う。書庫から数冊の本を手にラビの部屋に行き、読書開始だ。
 ラビの選択は正しい、と思っても、やはりどこか寂しい。
 想いがあるだけで充分だ、と言い切ってしまうには、共にいる時間がありすぎる。
 気を遣ってなのか偶然なのか、コムイは神田に任務を頼んでこなかった。任務先でラビの異変を聴かされるのは御免被りたいから、それは確かにありがたいことではあったが。
「……なに見てんだ、さっきから」
 窓際に座って書物を読んでいた神田が、声を上げる。いつの間に移動したのか、ベッドに座り込んだラビからの視線を受けて。
 ラビは神田の声にハッとしてブンブンと首を横に振った。
 体温が欲しい、と思うことはある。だけどその行為を望むことは、神田への感染を誘うことに他ならない。
 こんなにも苦しい思いを神田にもさせるなんて、とんでもない事だ。神田を感染させたら、どれほど悔やむだろう。
 神田もそれを分かっているから、求めることはできない。相手が悩んで苦しんでしまうことが、手に取るように分かるから。
 相手が苦しむことを考えたら、こんな一時の情欲はなんでもない。
 神田は本を閉じ、立ち上がる。ラビの横にとすんと腰をかけ、肩にこめかみを当てた。
「……これで我慢しとけ」
 ラビが何を思っているのか知っていて、神田は自分に言い聞かせるようにも口にする。ラビは目を閉じて、口唇を噛んだ。
 僅かに伝わってくる神田の体温と、匂い。
 もうどれだけ、彼に触れていないんだろう。
「治ったら、な」
 声が出なくなって、一ヶ月近く。回復は、なし。
 ────いつになったら、治んの
 いつになったら、貴方に触れられるの。
「……っ!?」
 さらりと流れた神田の髪に触発されて、ラビの身体が揺らぐ。グッと神田の肩を押さえ、そのまま倒した。
「ラビ!」
 やめろ、という制止の言葉は出てこなかった。倒される瞬間に見た、ラビの表情が心臓に痛くて。
 ────なんでそんな顔してんだ
 泣きそうに歪んだ顔に手を伸ばす余裕もなく、そのまま覆い被さられる。喉に当たった濡れた感触に、トクンと心臓が鳴った。
 ラビ、と呼んで背中に腕を回す。
 欲しかった体温が、すぐ傍にある。このままそれに縋っても、誰にも咎められる謂れはない。
 普通の、状態だったら。
「……ラビ?」
 喉に一度口づけただけで、ラビは行為を進めてくる気配はない。神田は閉じていた目蓋を持ち上げた。
 そうして確認した恋人の顔は、さっきよりもっと、泣きそうな顔で。
 ラビはバッと身体を離し、ベッドを降りる。背を向けて一度も振り向かないまま、部屋を飛び出した。
「ラビ!!」
 神田は跳ね起きて、乱れた襟を正すこともせずにラビを追う。ラビもそれは気配で感じ取っていたけれど、逃げ出すことをやめられなかった。
 ────何やってるんさオレ……!
 いちばん巻き込みたくない人を、この苦しみに巻き込もうとしていた。今いちばんしてはいけないことを、一時の感情で行ってしまうところだったのだ。
 ────やっぱりユウの傍にはいられない……いちゃいけないんさ…ッ
「ラビ! 止まれ!」
 追ってくる神田の声も聞かずに、ラビは走る。本当に、なんてことをしたんだろう。あのまま進めていたら、取り返しがつかなくなるところだった。
 ────なんでこうなんの……っ
 自分はただあの人が好きで、傍にいたくて、愛したいだけなのに。その熱を確かめることも、名を呼ぶこともできないのに、なんで傍にいるんだろう。
「ラビ! 止まれと言っているだろう!!」
 嫌だ、とラビは思った。止まって、追いつかれてしまったら、言わなきゃいけなくなる。もうこんなことは終わりにしようと。
 傷つけてしまう。巻き込んでしまう。いちばんしてはいけないことなのに、心のどこかでそうすることを望んでいる自分にも、気づいていた。
 ────追わないで、ユウ
 このままでは、いつか彼を。
「走んな! ウイルスが体内で広がったらどうするんだ!」
 足の速さには自信があった。神田に追いつかれない自信もあった。だけどその言葉に心臓が引き止められて、速度が落ちる。それを見逃すはずのない神田がラビの手首を掴み、引き寄せて片腕を喉元に回した。
「頼むから、走ったりすんな」
 逃げられないと観念したのか、ラビは動こうとせず、神田はほうっと息を吐く。
「悪い、今のは俺が止めるべきだった」
 腕を外して、ラビの正面に回る。あんなことを望める状況ではないのに。
 治ったら、と言った自分の方こそ、ラビの熱を欲していた。求めることで、ウイルスの感染と、それによってラビが苦しむことも、分かっていながら。
「……ラビ、部屋に戻るか? それとも、散歩でも」
 天気がいいし外を散歩でもするかと言いかけて気づく。ラビが、一度もこちらを見ていないことに。ラビ、と呼んでも、意図的に視線を逸らし眉を寄せる。
 考えたくもない事が、頭を過ぎった。
「ラビ? ……まさか、別れようとか思ってんじゃねぇだろうな?」
 ビクリ、とラビの肩が揺れる。こんな時、ラビの考えそうなことが分からないほど浅い付き合いではない。悪い予感だけは、的中してしまうんだ。
 だけどそれを現実のものとさせるわけにはいかない。後戻りできないくらい、…愛しているんだ。
 それでもラビは、ゆっくりと目を伏せる。このままでは遅かれ早かれ、神田を感染させてしまうだろう。それはラビにとってこの上ない苦痛で、ブックマンになれないことよりもそちらの方が大問題だった。
「おいふざけんじゃねーぞ! なんでお前はそうやって一人で背負い込もうとするんだ!」
 一人で生きていきたいわけじゃない。大好きだからこそ、今は傍にいるのがとても辛い。
 伝えようとしても声が出ない。
 書こうとしてもペンはあるが紙がない。
「ラビ……?」
 仕方なく、手のひらに書いて伝える。
 触れられないのも名を呼べないのも辛くて限界だ。だから別れようと、至極簡潔に。
 神田は並べられた文面に目を見開いて、ふるふると首を横に振った。
「いやだ…いやだからなラビ! こんなくだらねーことで別れてたまるか!!」
 感染して、声が出なくなってもいい。このままラビと離れることに比べたら、なんでもないことのように思えてしまう。
 くだらない、と口にした神田に、今度はラビが目を瞠った。
 くだらなくなんてない。もしかしたら、命にさえ関わってくるかも知れないのに。
 自分だって好きでこんなことを切り出しているわけではないんだ。
 できることならこのまま共にいたい。キスだってしたいし、身体だって繋げたい。
 だけどそんなことはできやしないと、ラビは首を横に振り続けた。
「ラビ、俺は絶対に認めねぇ! 消せよこんなもの!!」
「!!」
 手のひらに書かれた別れの文字を拭うように、神田は指を絡めてラビの身体を壁に押し付ける。少しの痛みに彼は顔をしかめたが、そんなことは気にしていられなかった。
「てめぇばっかりが苦しいようなツラしてんじゃねぇ……っ」
 爪の痕がつくくらい、強く手のひらを握る。泣き出す寸前の震えた声が、やけに自分の耳についた。
「俺だってなぁ! てめぇが好きだって……もうこの気持ちだけでとっくに限界だ!!」
 感情が溢れ出したその勢いで、口唇を覆う。
 心臓が、ドクンと鳴った。
 ────……っユウ、駄目だ…!!
 体液からの感染は確認されている。こんなことをしたら、かなりの高確率で神田も感染者。
 身を捩っても、さらに強い力で身体を押し付けられる。入り込んできた舌は貪るように口内を巡り、同じように濡れたそれと出逢う。
 呼吸さえ奪うくらいの勢いで、神田はラビに口づける。感染するかもしれないという事実も何もかも、全てを理解した上で。
 口唇を覆ったまま、神田は少しだけ目蓋を持ち上げる。そこには、きつく目を閉じた恋人の顔。
 僅かに震えた睫毛を瞳の奥に吸い込んで、どちらのものか分からない唾液を、飲み込んだ。
「……っ」
 ────駄目、だ
 ラビは渾身の力をこめて神田の身体を押しやる。その強い力に負けて、口唇が離れた。
「……ッめ、駄目だユウ! 感染るって!!」
「構うか、馬鹿!」
 やめてくれと懇願するようなラビの声が、神田の耳に届く。それでも距離を守るために割り込まれた腕を掴み、壁に押し付けた。
 ────お前が感染したんじゃねーよ。俺が…感染させたんだ
 再び、引き合う口唇。
 触れ合う、寸前。
「……え?」
「あ……?」
 ようやく脳が認識する。神田はゆっくりと身体を離して、確かめるようにラビを見つめた。解放された手で、ラビは喉元を押さえる。
「…ラビ? 今、お前、声っ……?」
 声を出したか、と最後まで言えずに詰まる。ラビは、口を開けて、ゆっくりと息を吸った。
「オレ、今、声……出た?」
 口唇が動くのと同時に、そこから音が発せられる。
「ユウ、オレの声、出てるさ? 聞こえる!?」
 神田からは、何も返答がない。もしかしたら自分の耳に聞こえているのは幻聴なのかと、ラビは不安を募らせる。
「ユウ、ねぇ、オレの」
「なんなんだよ!」
 グイ、と胸ぐらを掴まれ、壁に身体を押し付けられた。また何か傷つけることでもしてしまっただろうかと、俯いた神田の名を呼ぶ。
「ユウ」
「……なんなんだよ、ちくしょう…てめぇなんか……」
 ごめん、と言い終わる前に、抱きしめる腕に遮られた。縋るように、確かめるように。
「ラビ」
 ゆっくりと、優しい声が耳に入った。何も言えずに、ラビもまた、その身体を抱きしめる。
「…ユウ……」
 この声が届いているといい。そう思い、抱く腕に力を込めようとして、ハッと気づく。
「ユウ! 身体なんともないさ!?」
 バッと身体を離して、異変がないかと訊ねる。抱擁を途中で中断されて、不機嫌顔の神田。それには構わずに、彼の腕を引っ張った。
「ユウ検査! 検査してもらおう!」
「おい、ラビ!」
 自分の声は戻ったようだけど、神田の方にウイルスが移動してしまったのだとしたら。神田もまだ声に変化はないようだけれど、自分の場合は発熱のあとの症状だった。
 一気に血の気が引く。立場の逆転だけなんて、なんにもならない。
 逸る心臓をどうすることもできず、一目散に司令室までを駆けた。
「コムイ!!」
 血相を変えて駆け込んできたエクソシストに、コムイは驚いて目を瞠った。聞き慣れた声ではあったけども、久方ぶりに耳にする声だ。
「え、ラビ? 声?」
「コムイ、すぐユウの検査して!! 早く!!」
 ものすごい剣幕で、状況さえ聞けない状態だ。だがそこはさすがに室長。ラビの声が戻ったということと、神田に感染してしまった可能性があるらしいということを把握し、すぐに準備に取り掛かった。