ヴォイス

2007/03/18



 そわそわと鬱陶しく動き回るラビを一声で止めたのは、やはり神田だった。少しは落ち着けと。
「ユウ! どうだった、大丈夫さ!?」
 その声にハッと顔を上げて、結果を確認する。見た目にもまだ、変化は見られない。
「何ともない。そっちは」
「オ、オレも何ともなかったさ。ウイルス消えてるって」
 ホ、とお互いに安堵する。そんなふたりの後ろから、コムイが声をかけてきた。
「神田くんも何ともないみたいだね。僕としては、何があったか聞かせて欲しいんだけど。なんでラビがいきなり治ってるのかな?」
 直前に行っていた定期的な検査では、体内のウイルスに変化はなかったはず。だけど今行った検査では、ラビの身体からも神田の身体からもウイルスは検出されず、まるで何事もなかったかのように健康体となっていた。
 立ち話もなんだから、とコムイは二人を司令室へと招く。差し出されたコーヒーで喉を潤すと、さて本題に、と促された。
「レントゲン見ても綺麗なもんなんだよね。どうやって治したんだい?」
「うーん、どうって……言われても」
 ラビはちらりと神田を見やる。コーヒーが少し熱かったのか、ふぅーと冷ましている横顔が可愛いななんて思いながら。
「王子様のキス、かな?」
 あっけらかんと何でもないように呟かれた言葉に、神田は危うくコーヒーを零しそうになった。
「なっ、て、てめっ……なにを」
 顔を真っ赤にして、ラビを振り返る。やはり神田はツメが甘い。ここでそんな行動を取ったら、治したのは神田のキスだと認めるようなものなのに。それでもまあ、ここにいるのがコムイだということで、ラビもそんな発言をしたのだろうが。
「…………僕もキミたちの関係を言及するつもりはないけどね」
 それで状況を把握してしまったのか、コムイは考え込んだ。コムイに関係が知れてしまっていることはいささか不服ではあるが、こんなときは気楽でもある。
「で、王子様のキスで治ったようなんだけど。普通、感染しちゃう可能性の方が高いんだよね。けれど神田くんへの感染はなかった」
 神田は、感染することを覚悟でラビに触れた。そうしたにも関わらず、ウイルスは消え、事態は好転の一途。
「ラビ。キミのこれまでの検査結果を見ると、ウイルスの活動が弱まる時期があったみたいなんだ。ほんの少しの変化だし、周期も変則的なもののようだけどね」
 これは僕の推測だけど、とコムイは前置きし、コーヒーを啜った。
「ちょうど弱まったときに、唾液から神田くんの方に移動した可能性は高い。だけどそのウイルスは、神田くんの梵字の力に負けてしまったんじゃないかな」
 コムイの言葉にハッとして、神田もラビも、その文字がある位置に視線を移した。
 そうだ、神田の身体には梵字が刻まれている。神田の身体を常に正常に保ち、回復させる力を持った字が。
「すぐにウイルスが負けてしまったんだとしたら、大した回復力は使われなかったと思うけど。まあこれはあくまで僕の推測に過ぎない。実際はもっと別の原因かも知れないけどね」
 ドラマチックに【愛の力】としておくのもいいだろう、とコムイは笑う。あからさまな物言いに顔を赤らめ、問題がないならそれでいいと神田は立ち上がる。それを追うようにラビも席を立ち、まだカップに残るコーヒーを、部屋で飲もうと持ち上げた。
「念のため、明日も検査させてもらうからね、二人とも。今日はゆっくりして」
 何かあったらすぐに知らせるようにと付け加え、二人のエクソシストを見送り、新たなデータにしようとし、回復原因をどう記述しようか頭を悩ませた。




 部屋までの道のり、お互いが声を発することはなかった。何を話そうか、と相手を横目で盗み見るけれど、いつもと変わりない横顔に安堵して、幸福に浸る。
 特設された部屋に戻り、ドアを閉めた。そういえばこの部屋はどうするのだろう、と辺りを見回した。きっと物置か何かにされるんだろうと考えると、ここで過ごした時間を思って名残惜しい。
「明日には元の部屋に戻れるかな」
「片付けなきゃな」
 書庫から持ってきた書物をまとめようと、身体を折る神田。そのしなやかな肢体を眺めて、ラビは横からそっと抱きしめた。
「おい、こら。邪魔すんな」
「ユウ。ユウ。ユーウー」
 嬉しい。声が出る。大好きなひとの名前を呼べる。当たり前のようなことが、とても幸福だった。
「なんだ。そんなに呼ばなくても、……聞こえてる」
 小さく呆れたため息をつきながらも、抱いてくる腕を押しのけることもせず、神田は身を委ねる。この一ヶ月我慢してきた体温を、すぐ近くで感じることができて、心の底から安堵した。
「だってずっと呼びたかったんさ。呼ばせてよ」
 返事はなくていいから、と頬を摺り寄せる。ユウ、と口唇が動く。そこから発せられる音はお互いの耳に入り込み、身体中を駆け巡った。
「ユウ。大好き、愛してる」
 神田は自分の身体に巻きつくラビの腕を緩めさせ、向きを変える。正面からその端正な顔立ちを臨んだ。
「もっと、呼べよ。ラビ」
 長い赤の前髪を掻き分けて、優しそうに見つめてくる瞳を見返す。こんなに近くでこんなに優しい瞳を見るのは自分だけであればいいと思って、笑った。
「ユウ。ユウ……大好き、ユウ」
 そんな神田を心から愛しく思って耳元に囁くと、くすぐったそうに身を捩る。
「改めて認識したぜ、ラビ。俺お前の声すげー好きみてぇだ」
 口唇にひとつ、小さな口づけ。嬉しくなって微笑んだ。
「…片付け、明日でもいいよな」
「そうさね……明日ふたりで片付けるさ」
 鼻先を擦り合わせて視線を合わせる。お互いが同じことを思っていたことに笑って、ゆっくりと身体に腕を回した。
 そうしてベッドに倒れこんで、今まで触れられなかった体温を確認する。
 何度も、何度も名を呼び合って。



 声が出せる。名前を呼べる。
 声が聞こえる。名を呼んでもらえる。
 たったそれだけのことが、とても幸福に思えた────。