衝動

2005/12/25



 ほんの衝動だったと思う。
 ずっと一緒にいた。自分のコト以上に、アイツのことのほうが解かってるような気さえしてた。
 好きとかそんなこと、ガキの頃の方が素直に口に出せていた気がするけれど、所詮そんな言葉は意味もなくて。


 歳を重ねるごとに気持ちを表に出せなくなっていた。
 お互いの部屋に遊びに行くことも少なくなって、きっとその頃なんだろう。自分の感情が、なんと言うものであるかを、気づいたのも。
 意味のないものだと思って、そう思うようにして、距離を置いてきた。相手にはそれと気づかれないように、ことさらさりげなく。
 食堂で逢えば席を共にし、別段何を語るわけでもなく、好んだ食材を口に運ぶ。この間の任務はどうだったか、シンクロ率は上がったか、なんて、司令室に行けば容易に知れたし修練場でだって鉢合わせることもある。
 何かを話している必要は、もうなかった。
 プレートの上に乗った食物をたいらげて、立ち上がったところへ【任務か?】と訊ねられるくらいで。
 静かに頷いて、気をつけろよと続けられた言葉に微かに笑む。
 叫びだしたい感情を、どうにか抑えて。



 そんなやりとりが続いて、もう何年も経つ。
 実際、幼い頃と比べて本部にいられる時間は確実に減っていたし、疎遠になりかけても不思議はなかったんだ。
 自分の中にうずく感情なんて、きっと錯覚で、時間が解決してくれる。
 相手のために自分が何かしてやれることなんて、ただのひとつもないんだ。
 任務で酷い怪我を負ったときもそうだった。
 大切な人がいなくなったときもそうだった。
 自分はただ見ているだけで、泣き出したい衝動を抑えるのに、精一杯だったんだ。


 自分が傍にいても、なにもしてやれない。


 子供心にさえ、それは気づいていた。
 強くなろうと決めたのもきっとあの頃だった。もっと強くなればきっと、隣で笑うことくらいできるだろう。自分の感情を抑えて笑うくらい、できるようになるはずだ。


 …できなかった。


 何年経っても、どれだけ距離を置いても、どれだけ修練を積んでも、何でもないように笑うことはできなかった。
 なりふり構わず突撃を試みて、怪我を負ったその人を目の前に。
 【あの人】の残した蓮の花を哀しそうに眺めるその人を前に。
 自分は何も出来なかったんだ。


 だから、ほんの。
 ほんの衝動だったと思うんだ。
 その人の身体が固まったのが解かる。
「ラ、……ビ?」
 こんな近くで呼ばれるのを聞いたのは、一体どれだけぶりだろうか。困惑したその声を耳元で聞いて、ようやく我に返った。
「ごめん」
 抱きしめた腕をそっと外して、正面で笑って見せた。
「ごめんユウ。抱きしめて欲しい人は、オレじゃないんだよね」
 うまく笑えていたかどうかは、今でも解からない。




 そいつの体温を間近に感じたのはどれくらいぶりだっただろう。数えるのは得意じゃなくて、記憶にさえ残っていない。
 ただ、今よりずっと幼かったことだけは、確かで。
 久しぶりにふたりで食堂に行った。任務から帰ってきたら、ちょうど同じタイミングで帰還したらしい戦友がいた。申し訳程度の報告を済ませ、腹が減ったと喚くコイツの隣を、昔みたいに歩いてた……いや、昔みたいに、じゃない。いつからかできてしまった距離は、縮まらないままそこにあった。
 昔は気楽で良かった。一緒にいても気まずくはなかったし、共に眠っても苦しくなんかなかった。
 どうしてあの頃のままでいられないのかと、気づいた心を恨んだりもした。
 良いことであるはずがないんだ。一人の人間に依存して、執着することがどういうことなのか、わかっているつもりだった。
 事実、【あの人】に情けねぇくらい依存して、執着して、未練たらしく探し続けている。
 大切な人だった。何かに置き換えることなんてできない。【冷酷無比】【冷血人間】と言われている俺に、そんな人間がいるのかと笑い飛ばされそうだが、そんなものどうでもいい。
 笑わずに、できる範囲で手伝う、と手を握ってくれたヤツも、いたから。
 食堂から部屋に戻って、愕然とした俺に、多分自分自身よりコイツの方が先に気づいていたんだと思う。
 だから俺の両目を、片手で覆ってきたんだろう?
 ひとつ落ちた蓮の花びらを、これ以上目に留めることのないように。
 流れてきた雫は、落ちた花びらのせいなのか、久方ぶりに感じた体温のせいなのか。
 次の瞬間視界が変わっていた。
 ぐいと強い力に引かれ、90度ほど方向を変えた視線が、宙を泳ぐ。
 自分の身体を締め付けているのはどうやらコイツの腕で、鼻や頬をくすぐる感触は、綺麗なオレンジの髪だと気づく。
 力強い腕だ、と思ったのが先か、体温の記憶を手繰り寄せようとしたのが先か。
「ラ、……ビ?」
 抱きしめられているのだと解かっても、この男の心の中までは、解からなかった。
 がっしりと巻きついていた腕が離れていく。
 それでも俺は、動けないでいた。
「ごめん」
 何が起こっているのかわからずに、ただ目の前で自嘲気味に笑う戦友を見ていた。
「ごめんユウ。抱きしめて欲しい人は、オレじゃないんだよね」
 何を言われているのかわからずに、背を向ける親友を眺めていた。
 ただ、惚けたように。
「ユウ、オレ。…そろそろ限界かも知れんさ」
 目の前でパタリとドアが閉まっていく。何が、と訊く暇も、…いやそれどころか、そこにすら頭が回っていなかった。
 何を言っているんだ、あの男は。
 何をしているんだ、あの男は。
 たった今抱きしめられた身体を自分で抱え込んで、男の消えていった扉に向かって、嘘みたいに笑った。





 バカだ、と思った。
 自分でもわかってた。
 あんな状態のユウを一人で放っておくわけにはいかなかったけど、自分を抑えている自信が、もうなかった。
 大丈夫。ほんの衝動さ。
 わかってんじゃん最初から。
 ユウが求めてるのはオレじゃなくて、【あの人】。
 抱きしめて欲しいのは、オレじゃなくて【あの人】。
 こんな気持ちはもうたくさんだ。
 大丈夫。ほんの小さな衝動さ。





「ラビを見かけなかったか?」
 息を切らした声が耳に入って、振り向いた。話しかけられたことなんて一度もなかった。
 いやもちろん、彼の目には自分という存在など入っていないも同然で、顔すらも覚えられないんだろう。ちょうどここにいた、それだけなんだろうから。
「いえ、自分は見かけてないですよ」
 少し後ろを振り返って、同僚にも聞いてやる。皆そろって、首を横に振るだけだったけれども。
「そうか…」
 無線は使ってみたんですかと問いかけても、繋がらねぇからこうして探してんだと怒声が返ってきた。繋がらない、ということはよほど距離が離れているか、意図的に電源を切っているかだ。そしてどうやら、後者らしい。
「あ、あそこじゃないっスか? 最近入り浸ってるみたいデスけど」
 仲間のひとりが呟いた。8番街外れの【宿屋】、と。
 【彼】が目を瞠ったのがわかった。だって8番街って言えば、ちょっとした艶町。教団の連中も結構通ってる娼館だ。
「あーオレも聞いたことある。結構カワイイ女のコ揃ってるんだって?」
「そうそう、そこ。骨抜きにでもされちまったんじゃないスかね」
 次々に出てくる噂話を止めはしなかったけれど、【彼】の周りの温度が下がったのはわかった。振り向いたら、夢から醒めたような顔をして、立っていた。
「カンダさん?」
 思わず喉を突いて出た声に、ハッと顔を上げ、
「…邪魔をした」
 そう、団服を翻していく。
 あの人しか見えていない彼を、心配して声をかけてやる義理などなかった。





 最近多いね?と鈴の音のような声が耳に入る。
 自覚はしていた。以前より訪れる回数は多くなったし、日も空けなくなった。
「そりゃ、シェリーに逢いたいから」
「調子のいいことばっか言って、この兎ちゃん」
 軽く額を弾かれる。彼女が自分を子供扱いしていることなんて、最初ッからわかってたけど。
「…シェリー、オレ。……オレ、おかしいかなぁ?」
 彼女の吸うタバコの臭いにも、鼻が慣れてきた。
「そうね、おかしいわね」
 緩くウェーブのかかったブロンドが目の前で揺れる。
「お客の生活に口突っ込んじゃいけないんだけどさ、本来。そんな、泣きそうなカオしてアタシのとこ来ないでよ」
 ため息混じりに呟かれて、思わず苦笑した。彼女は何人もの人間の人生を、こうやって慰めてきたのだろう。ただ世界の歴史を記録して、AKUMAを破壊してるオレとは全然違うさ。
「好きなコが……いるんさ…」
 だけどその人は、その人にはちゃんと大切な人がいて、その人のために生きてる。
 ちゃんと遠くで見守ろうって決めてた。この気持ちに気づいてからもう何年も、その気持ちを殺して生きてきたのに。
「ちっちゃい時から一緒でさ? そのコのこと何でもわかってるような気さえしてた」
 実際は何もわかっていなくて。
 どれだけ【あの人】が大切で、どれほど【あの人】が愛しくて、どんな思いで【あの人】を探しているのか。
 いちばん近くで見ていたはずだ。あの蓮の花に少しの変化でもあろうものなら、気づかれないように震えていたじゃないか。そのたびになんでもないような顔して手ぇ引っ張って、【大丈夫】ってふたりで空を見上げてた。
「………」
 何してるんさ、オレ。
 アイツ、泣いてたのに。
 声殺して、泣いてたのに。





「ちょ、ちょっとちょっとおニイさん! お初見さんかい?」
 店に入った途端、ざわめかれた。……物珍しそうな視線がいささかうざったい、が。そんなことを気にしている余裕はさすがにない。
「人を探している」
 店主らしい女に訊ねてみる。まさかこんなところを、一部屋一部屋確かめていくわけにはいかないだろう。これがいちばん手っ取り早い。
「なんだいおニィさん、女かい?」
 さすがにこんな場所だ、痴情のもつれと勘違いもされやすい。
「…仲間を。黒の教団からなんだが、無線が通じないので探しに来ている」
 教団の名前を出すのはできるだけ避けたかったが、団服を着ているのだ、すぐに知れてしまうだろう。だったらこちらから切り出してやった方が楽だ。こんなところにまで黒の教団の権力は伸びているのかと思うほど、店主の顔色が変わった。
「もしかして、兎ちゃん?」
 後ろから高い女の声がして、振り返る。正直言って目のやり場には少々困った。だがさすがに見場はいい方なのだろう。
「兎?」
「おんなじ様な服着てるから、そうなのかと思って」
 同じような、ということは恐らく間違いないだろう。ここでは兎と名乗っているのか、アイツらしい。
 どこにいる?と訊ねて、2階のいちばん奥、と答えてくれた女に礼を告げ、階段を足早に上がった。


 逢って、何をしたかったわけでもない。
 ただ、あの抱擁と、言葉の意味を知りたかっただけなんだ。
 どうして急にあんなことをしたのか。
 なぜ突然にあんなことを言い出したのか。


 一応ノックはしようと思っていた。ここが、何をする場所なのかくらいはわかっているし、それくらいわきまえているつもりだったけど。

「シェリー」

 ヤツが女を呼ぶ声を聞いた途端、何かが切れた。

 ガンッ!!

 気づけば目の前のドアを蹴破っていて。


 突然に開かれたドアを勢いよく振り返って、そして勢いよく目を見開いた。
「え、…ユウ!?」
 なんでこんなところにいるんさ、と眩暈さえしてしまう。女を買いに来たとは到底思えない。…思いたく、ない、だ。
「無線、切ってんじゃねーよバカ兎!!」
 ひゅ、と何かが風を切ってくる。思わず受け止めてしまったのは、反射神経のせいだろうか。
 エクソシストをして、それはやはり身につけなければいけないモノで。
「…ってー…ユウ、壊れるさ。いくら教団の開発だからって、そんな力で投げたら」
 手に収まったユウのゴーレムをゆっくりと解放し、ベッドの上で体勢を変えた。半裸状態で、シェリーの腕は絡まっていたけれど、コトに及んでいなくて本当に良かったと思った。そんな所、ユウには見せられんさ。
「あ、もしかして本部から呼び出し?」
 何も言わないまま突っ立ったユウの、表情を見るのが怖い。
 カオを見たら、叫びだしてしまいそうだ。せっかく何年も留め置いてきた、不浄を。
「タイミング悪いなぁ……せっかくシェリーと逢えたのに」
「行きなさい、兎ちゃん」
 軽く頬にキスをして、シャツを羽織る。ふわりと踊る巻き毛を弄んで、彼女に礼を言った。
「ありがとうさシェリー。また来る」
 ボタンを留めて、団服を肩に羽織る。不意に口唇に触れた温かな感触が、彼女の口唇だと知ったとき、ユウが踵を返して部屋を出て行ったのがわかる。
「ユウ!」
 慌て立ち上がって、ユウを追って部屋を飛び出した。



「あン、シェリー、兎ちゃん帰っちゃったのぉ? 終わったらこっちに指名入れてもらおうと思ってたのに。まぁいいわ、次に取っておこう」
 慌しさに気づいたのか、同僚が顔を覗かせる。少し乱れた巻き毛をかき上げ、タバコをふかした。
「バカね」
 泣きそうだった二人の顔がチラついたけれども、そんなことはもう、首を突っ込むべきではない。別れ際のキスが最後の意地悪だったこと、果たしてどれだけ気づかせられただろう。
「もう、二度と来ないわよ、あのコ」





「ユウ、ユウちゃん待って。足速いさ」
 目の前が真っ白だった。こんなところ、来なければ良かった。
「ねぇ、ユウ。ダイジョブ?」
 口唇への口づけは、軽くできるもんじゃない。少なくとも、自分のいた国ではそうだった。性を売る商売なのだと頭ではわかっていたが、酷く気持ちが冷めた。
「ユウってば。こっち、道が」
「…っ俺に触るな!!」
 掴まれた腕を振り解いて、気づく。行きしな、通ってきた道ではないことに。
 …どうしたって言うんだ。俺は。わかっていたことじゃないか、もう。
 コイツが俺との距離を置き始めたのは、どうしたって伝わってしまうし、俺としても有難かったんだ。この縮まらない距離は。
「ユウ」
「あの女を抱いた腕で、俺に触れるな」
 なぜ昔のままではいられないんだろう。
 そのうちに冷めると思っていたんだ。近すぎた錯覚だと。手を伸ばした先にお互いしかいなかったから、間違えているんだと。
 その気持ちを大事にしろと言った【あの人】も、もう俺の傍にいない。
「なぜ……あんなことをした」
 距離を置き始めたのは、お前が最初じゃなかったか。
 お前が距離を置いてくれたから、それに甘んじた俺がバカなのか。
「…ユウ…?」
「悪い、少し気が昂った。…お前に抱きしめられたのは、本当に久しぶりだったからな…」
「ユウ、ごめん、だって…ユウが泣いてんの見たら」
 わかっている。お前はそうやって、他人を放っておけない人間だと知っている。
 一瞬でも期待した、俺が愚かなだけだ。
「ユウにはあの人しかいないって、わかってんのに。どうしても、オレ」
「ラビ、落ち着いてくれ。俺は大丈夫だ。…少し昔に戻ったみたいで、感情が整理できなかった」
 ラビの体温は、あの人がいたころと同じで、なにも変わりなくて、心臓が、思わず震えた。
 錯覚だと思おうとしていた感情が、芽吹く。抑えなければと思う反面、口に出してしまいたいと、何度も思った。
「ガラにもなく感傷的になった。あの頃に、戻れるわけがないのに」
「…戻れないよ……戻れるわけないさ…っ!!」
 わかっている。だからお前の口から聞かせないでくれ。
 せめて、余韻に浸る、間くらい。
「…………ユウ…?」
 せめて今くらい、拒絶はしないでおいてくれ。




 何が起こったのかと思った。
 首に、背に回される温かな細い腕。
 視界の横にちらつく、漆黒の絹糸。
「…………ユウ…?」
 抱きしめられている、と実感したのは、ユウのその腕が、強くなったから。
 体温は変わりなくて、ずっと昔、笑いあってた頃のものと変わりなくて、心臓がドクンドクンと跳ねた。
「…悪い」
 す、と体温が離れてく。


「お前が抱きしめて欲しいヤツは、俺じゃないのにな」


 オレの身体を押しやって、俯くユウ。何を言われているのかと思った。搾り出したような声が、ユウに感情を我慢させていることを報せる。
「早くあの女のとこに戻ってやれ」
 ひとりで帰る、とユウは背を向けてしまう。
 身体が動かない。距離がまた離れてしまう。
「……っ…」
 神様。かみさま。…神様…!!
「…っユウ…! 待って、オレ…っ」



 世界中の、あなたを愛するひとへ。
「オレ、ユウのこと…っ────」



 抱きしめるのは、オレでもいいですか────