キスに宿る

2008/06/12



「来いよ、姫」

 ミハエルはそう言って手を伸ばす。その先には、悔しそうな顔をしたアルトがいた。
 どうしてこんなことになったのだろうかとアルトは口唇を噛む。
 ロッカールームのソファの上で、ミハエルは珍しくネクタイを緩めていた。
 普段こんな風に向き合うときは、アルトが自我をなくしてしまうまで服を乱しもしないのに。
「どうしたんだ?」
 アルトは口をつぐむ。ミハエルが怒っているのも、その理由も分かるけれど、アルトにだって言い分はあるのだ。


 ミハエルの機嫌が悪い原因は、明らかにあの、キスのこと。
 昨日、映画の撮影に協力した。あの時シェリルとランカ、なりゆきで二人とキスをした。


 初めてのキスではなかったし、回避できるものではなかったから仕方ないのだと、ミハエルには言い訳をしてみたが、彼の独占欲は、アルトが思っているよりずっと強かった。
 あの後、結局今日の放課後までずっと口をきいてくれなかったし、触れてもくれないで。


「ミシェル」


 責めるように呼ぶ。
 不意打ちでシェリルにキスされた後も撮影が終わった後も、キスなんか何でもないなんて言って、ミハエルの嫉妬を回避してみたつもりだったけど、どうやらそれは失敗に終わっていたらしい。
 放課後の練習が終わって、全員が帰った後、ついに我慢しきれずにミハエルを無理やり座らせた。正面から向き合えば、口をきいてくれると思って。
 だけど返ってきたのは、深いため息だった。
「俺、自惚れてたみたいだな」
 ため息の後に呟かれた言葉の意味が把握できずに、アルトは何がと訊き返す。
「お前とは何度もキスしてきたけど、……少しくらい特別に思ってくれてるんだと思ってたんだ」
 ミハエルがこんな殊勝な態度を取ることはあまりなく、戸惑ってしまう。何が彼を、そんなに弱気にさせているのだろう。
 それでも、特別に思っているなんて口に出せずに眉を寄せた。
「ミシェル」


「キスなんか大したことじゃないんだろ。俺とのキスも、セックスもさ」


 ミハエルが何を望んでいるのか、明確な答えを求めて名を呼んだら、とんでもない言葉が返ってきた。
 アルトは頬を真っ赤に染める。
「セッ……そんなこと言ってねぇだろバカミシェル!」
 確かに、ミハエルとは何度か身体を重ねてきた。恋人同士と言っていいのか、その手前といえばいいのか。
 そういえばまだ、気持ちを言葉にはしていなかった。
「じゃあ、来いよ。何でもないなんて言わせねぇ」
 そう言って笑うミハエルの指が、器用に組紐を解いて、髪に絡まる。その仕種は好きだが、いかんせん照れくさくて敵わない。
「覚悟しろよ? 手加減はしないからな」

 照れくさくて悔しくて、アルトは再び口唇を噛む。
「……お前なんか嫌いだ」
「聞こえないね」
「………………好きだって言ってやったんだよ、バーカ」
 ミハエルが目を瞠る。それが、アルトの仕返しだった。
「ザマァ見ろ、せいぜい自惚れとけ」
 してやられたというように、ミハエルは首を振った。ちょいちょいと指で呼ばれ、アルトは顔を近づける。嬉しそうに笑ったミハエルが、アルトの耳にお前が好きだと囁いた。
 ゆっくりと、口唇が重なる。アルトは促されるままにミハエルの膝に座り、縋るように首に腕を回した。
 後にはふたりの吐息だけが残る。


 シェリルやランカに嫉妬して、自己主張のようにネクタイを緩めたことを、さすがに子供っぽいことをしてしまっただろうかと、ミハエルはこっそり思った。