逢いたかった

2010/03/23


 ミハエルは携帯電話の時計で時刻を確認し、打ちひしがれた。約束の時間から、もう二十分も経っている。
 なぜよりによって、この日この路線この時間なんだ!と心の中で叫ぶけれど、それで現状が変わるわけもない。せめてあと少し先に起こってくれていたら良かったのに、とため息をつく。
 するとそれは近くにいたOLにも感染してしまい、車両内にため息がいくつか漏れた。
 待ち合わせの場所まで行く電車が、他線の車両故障によるトラブルで立ち往生していた。復旧の目処は今のところ、立っていないらしい。
 それでもなんとか振替輸送で別の電車に乗り込むことはできたのだが、混んでいるせいか時間調整のためか、この電車も進みは遅かった。
 はあーとミハエルはまた深くため息をつく。
 待ち合わせ場所にはもう愛しいひとが待っているはずで、いや、どうだろう。こんなに待たせてしまっていては、怒って帰ってしまっているかも知れない。
 久しぶりに仕事も早く終わるし、外で食事でもしないか、と恋人であるアルトが誘ってくれたというのに。
 家に帰ればいつでも一緒にいられるのだけれど、外で楽しくデート、というのも捨てがたい。更に言えば、普段は滅多にないアルトからの誘いだったというのにだ。
 連絡をしようにもこれは地下鉄、携帯電話のアンテナは、無情にも圏外を表示していた。
 ――――ああ、神様、と、ホトケ、様? だっけ? どうかアルトが帰っていませんように
 祈りながら、ミハエルは泣きたくなりそうな気持ちを、アルトに逢えたあとの楽しみでどうにか引き止めた。



 連絡が来ない、とアルトは俯く。
 先ほどから何度かコールもしているしメールも送っているのに、待ち合わせの相手からは何も連絡が来ない。
 仕事が長引いているのかなと、同じ部署の友人にこっそり聞いてみたけれど、もうすでにデスクにはいなかったらしい。
 ということは会社は出ているはずで、寄り道さえしなければもう、着いていてもいいはずなのだ。
 またどこかの女に呼び止められて、自分との約束を忘れているのではないだろうな、と思わないでもない。
 恋人であるミハエル・ブランは、同じ部署どころか他の部署、果ては取引先の女性たちにまで人気があるのは知っている。
 それは確かに鼻が高いが、その分心配も増える。
 ミハエルの気持ちを疑う気はないけれど、寄ってくる女性たちを邪険に扱わないミハエルを責めるつもりもないけれど、自分だけ見て、自分だけに触れて、自分だけに笑いかけて、と言ってしまいたい。
 同性同士の秘密の恋だから、彼が傍にいてくれないと途端に不安になってしまう。
 連絡もくれないなんてどうしたのだろう、と再び携帯電話を見下ろすけれど、やっぱりメールも着信もなかった。
 もしかして今日の誘いは迷惑だったのかなと、眉を下げる。
 いつもはミハエルが声をかけてくれて、映画に行ったりテーマパークへ行ったり、ただぶらぶらと散歩したりするのだけれど、たまには自分から声をかけてみようと思ったのだ。
 仕事が定時に終わりそう、とメールが入った時に、じゃあ自分もそうできるようにしようと、いつもより頑張って仕事を片付けたなんてことは、あんまり知られたくないけれど。
 食事をして買い物でもして、一緒に帰ろうと思っていたのに。彼の方は乗り気ではなかったのだろうか。
 どんな顔で彼を待って、どんな顔で彼を迎えればいいのか、もう分からない。自分は今、どんな顔をしているだろう?
 周りを見れば忙しなく歩くサラリーマンや、おしゃべりをしながら家路につく学生たち、仲良く腕を組んで歩く恋人たちがいる。
 自分だけこんなところで、ひとりぽつんと佇んでいるのは、寂しくてしょうがなかった。
「なにか……あったのかな……」
 デスクを抜けたあと、ここに来られないような何かが。携帯電話が壊れてしまっていたり、まさか疲労で倒れてしまっていたりしないだろうな、とだんだん悪い方向へと思考がいってしまう。
 もしかして約束を守るために、多かった仕事を無理に片付けて、疲れてしまっているのではないか。
 ――――ミシェル……なんで……来ないんだ…
 不安で、不安で、しょうがない。
 こんなとき、すぐに抱きしめて大丈夫だよと言ってほしいのに。
 あとどれくらい待てば、彼の顔が拝めるのだろうか。
 それとももう、家に帰って彼の帰りを待っていたほうがいいのか。
 約束した時間からは、もう四十分が経過している。来られないのならメールのひとつも欲しいところだけど、それができない状態にあるのだろうか?
 泣きたくなったアルトに追い討ちをかけるように、冷たい雨が降ってきた。
 ひどくならないうちに帰ろうか、と思う。ミハエルにはメールを入れて、家で温かいご飯でも作って待っていよう、と濡れた頬を拭った。


「アルト!」

 ちょうどその時、聞き慣れた愛しいひとの声を耳にして、ハッと顔を上げる。
 視線をやった先には、人の合間を縫ってこちらに駆けてくる、ミハエルの姿。
「あ……」
 ホッとした。
 来てくれた、と思ってホッとしたが、遅れた理由を聞くまでは絶対に許してやらない、と眉を挙げ口唇を引き結んだ。
「アルト、良かった、いてくれて、ごめん、あの、すげえ遅れちまって」
「……遅い!」
 息を切らしているミハエルが正面にまで来て、疲労のためか身体を折る。
 アルトはできるだけ怒っている風を装い口にした。声は震えていなかっただろうか?
「なにしてたんだよこんな時間まで! 散々待ったんだぞ!?」
 メールも返さないし電話もしてこないし!とアルトは不満を付け加えて、やっと呼吸を落ち着けたミハエルが身体を起こす様を見ていた。正当な不満だ、と胸を張り、少し濡れてしまった肩を手で払う。
「電車がね、止まっちゃって。たぶんまだ原因の路線は復旧してないんじゃないかな」
「えっ……」
 ミハエルは苦笑とともにそう返して、非を詫びた。
 アルトはそれを聞いて、なんだ不可抗力じゃないかと思う。だってミハエルのせいではない。電車が止まってしまうなんて予測はできないし、それでも急いで来てくれたようなのに。
「携帯は圏外だし、電車の進みは遅いしで、こんな時間になっちまって……ごめんなアルト、随分待っただろ」
 雨まで降ってきちまって、とミハエルはアルトの髪についた雫を払う。
 ハンカチはどこにしまったかな、と探るが、それは自分の雫を拭うためではないらしい。
「アルト?」
「すげえ待ったけど! べ、別に俺は心配なんかしてねえからなっ? 何かあったのかとか、食事の誘いに乗り気じゃなかったのかとか、そんなこと、全然……っ」
 素直に胸に飛び込んでやれない。心配してた、無事かどうか不安だった、不満だったかなと落ち込みもした、なんてとても言えない。
 それでもミハエルは笑って許してくれるだろう。
「お、遅れたバツとして、ケーキ奢れっ、馬鹿ミシェル!」
「はいはい、イチゴショートか? それともチョコレートケーキか?」
 食事の前にデザートの話なんて、本当にアルトらしい、とミハエルはやっぱり笑った。ミハエルにしてみれば、それくらいで許してもらえるのなら安いものだ。
「……ミルクレープも欲しい…」
「ハハッ、了解お姫様。じゃ、行こうか」
 どこかで傘を買おうか?とミハエルは言うけれど、目的の店はすぐそこだ、このまま行ったところでそんなに問題はないだろう。
 ふたりは、傘の花が咲く路を、こっそり手を繋いで足早に歩いた。
 そして今夜も、甘い夜を過ごすのだ。不安になった分、いつもより長い長い時間をかけて。



提供:リライト様 待ち続ける人へ五の題より「どんな顔で迎えようか」