誰にも言えない

2009/09/29


恋する時間割

「ミシェル先生ー」

 後ろから名を呼ばれ、ミハエル・ブランは立ち止まって振り返った。
 廊下には自分の教室へ向かっていく生徒たちでいっぱいだったが、自分を目指してパタパタと駆けてきた生徒は一目で分かる。

「おう、どうした?」
「あのね、さっきの授業で分からないところがあったから、今のうちに訊いとこうと思って」

 追いかけてきたの、と少し頬を赤らめながら笑う女生徒のそれが、走ったせいでの赤らみではないことも。

「熱心だな。他の教科もそれくらい熱心なら、ワンランク上の学校も行けるかも知れないぞ? で、どこだって?」

 いつもこうして、授業の合間に訊ねられては、顔や動向くらい把握できる。
 受け持っている生徒にはやはり好かれたいが、あまり変な期待を持たせないようにしないとと思うくらいには、好意というものに敏感だった。

「あのね、ここなの、値の求め方が分からなくて」
「あっ、ずるい、先生私も分かんないとこある!」
「ミシェル先生、次あたしね!」

 そうして、一人寄ってくれば二人、三人と増えていくのにも、もう随分慣れてきた。
 授業中に訊いてくれよと思わないでもなかったが、これも生徒との大事なコミュニケーション。ミハエルは眼鏡を押し上げて、女生徒たちの指し示すテキストを順番に解説していった。

「そこは先週教えたぞ、応用出るから覚えとけって言ったはずだけど」

 ただ答えを示すのではなく、解く糸口を告げてやる。あとは生徒の仕事だ。
 ヒントを与えられた生徒はデータを弾き出して正しい回答を導き出し、正解だと褒められてやったあと飛び跳ねる。のぞき込んでいる他の少女たちも、ああそういうことなのねと納得したように頷き合っていた。

「そうだ、週明けに小テストやるからな。ちゃんと勉強しろよ」

 自分の疑問点を明快に示してくれた教師に、女生徒たちははぁーいと返事をする。
 まあテストというのはあまり嬉しくないけれど、良い点を取ったらきっと褒めてくれるはずだ。そんな淡い期待を抱きながら、ミハエルに礼を告げてパタパタと教室へ駆けていった。

「はーやれやれ、毎度毎度、可愛らしいね」

 肩を竦めて独り言を呟きながら教員室へ向かう。

 ――――まァ、あいつには敵わないけど。

 早くたまった仕事を片付けて、いつも通りにあそこへ行こう。
 今日はどんな顔をして迎えてくれるのか、最近はそればかりが楽しみになっていた。




 ミハエルは、足早に廊下を歩く。生徒には走るなよと言っている手前、自分が全力疾走するわけにもいかず、こんな時ばかりは注意する側から注意される側になりたいもんだと思うのだ。
 もうすぐ陽の暮れる図書室には、すでに誰もいない。この静かな空間が、ミハエルはとても好きだった。
 喧噪から解放されるということもあったが、何よりも嬉しいのは、

「またそれ読んでんの?」
「うわあっ!!」

 窓際のテーブルについて熱心に本を読みふける少年の後ろから声をかける。と、まるで幽霊にでもあったような声を出されてしまい、ミハエルの方こそが驚いてしまった。

「おっ、驚かすなミシェル!」

 少年は振り向いて、当然の抗議を投げつけた。
 そう、ミハエルが急いでここに来るのは、待っている人がいるから。天涯孤独の身であるミハエルに取っては、それが何よりも嬉しい。
 こんなやりとりも幸せだなあと思いつつ、少し目を細めて彼の額を指先でつつく。

「こーら、学校では“ミシェル先生”だろう、アルト」

 そう、彼は生徒で、ミハエルは教師だ。上下関係は当然あって、目上であるはず。
 彼は気がついてハッと息を呑むも、すぐに眉を寄せた。

「だったらそっちこそ、早乙女って呼べよっ」

 ミハエルだってアルトと呼んだ。お互い様じゃないかと視線だけで訴える。その仕種が妙に可愛らしくて、ミハエルは思わず笑ってしまった。
 それが彼――早乙女アルトには気にくわなかったらしく、責めるように名を呼ばれる。

「ミシェル!」
「ごめんごめん、じゃあ今日はもうルールなしで。ほら、帰ろうアルト。本戻しておいで」
「……ん」

 素直に謝ったら、どう返していいのか分からなかったらしく、アルトはふいとそっぽを向いてしまう。その照れくさそうな表情がまた、心臓をくすぐるのだと、彼は気づいていないのだろうか。

「遅くなっちまって悪かったな。まーた女の子たちに捕まっちゃって」

 生徒もほとんど下校した今、玄関までの道のりもふたりっきり。だけどもしかしたら誰か残っているかも知れないし、手もつなげない。
 ――つまりは、誰もいなければ手をつなぐような関係である。
 そういえばどちらが好きだの何だの言い出したのだっけと思う時もあるが、大切なのはそこではない。ミハエルがアルトを大好きで、アルトもミハエルを大好きだという事実があればそれでいい。

「ミシェルはいつもそういう言い方するけど、それって俺が妬くと思ってやってんのか?」
「え、いや、まあ……妬いてくんないの?」

 アルトが少し低い目線から見上げてくる。別にそういうつもりがないわけじゃないような気もするけどどうだろう、とミハエルが心の中で考えているうちに、アルトからのため息が聞こえてきた。

「お前いつだって女に囲まれてるじゃないか。そんなのいちいち妬いてたら、こっちの身がもたないんだよ」
「あー、まあそれは否定しないけど。浮気しないかなーとか、思わない?」

 浮気? とアルトが振り向く。
 さすがに動揺したのだろうかと思って立ち止まってやったら、ぷほっと小さく噴き出された。

「なに笑って……――」

 くんっとネクタイが引かれ、体が前のめったと思った時には、口唇が合わさっていた。

「浮気なんかする暇ないだろ、ミシェル」

 離れた口唇の小さな微笑みが、ミハエルに目を瞬かせる。こんなところで大胆だなと思うが、アルトからのキスは大歓迎。
 ミハエルも口の端を上げて、ちゅっと小さなキスを返した。

「そうだな、今日もウチ来いよアルト。朝まで抱いててやるからさ」

 浮気する暇ないくらい、と耳元に囁いて、ふたりでぴっとりくっつきながら家路をたどる。
 誰にも秘密の時間割は、そうやって続いていくのだ。