コイスルセリフ1

2011/12/30


 まずい。
 まずいまずいまずい。これは非常にまずい。
 アルトは、目覚まし時計を両手で握りしめ、なんとか時間が三十分でも巻き戻ってくれないかと念じてみた。
 だがそうしても時間が元になど戻らないことは百も承知で、泣きたくなって目覚まし時計を投げ出した。
 さらに泣きたいことに、携帯端末を手に取ってみると、着信履歴が二回ほど。加えてメールが一通。
 アルトはすぐさま電話を発信した。相手など見なくても分かる。

「……ミシェル!」

 三コールののち、電話の向こうから聞こえた応答に、アルトは思わず叫んでいた。

「ミシェルごめん、寝坊してっ……今、あの、とにかくすまない」

 電話の向こうの大事な恋人へ、とにかく謝ることが先決だと心臓をどきどきさせながら震える声を吐く。
 待ち合わせの時刻は、一時間前。
 すでに一時間が経過しているのだ、怒っていないわけがない。これから急いで支度して全速力で向かっても三十分はかかってしまう。さらにミハエルのことだ、待ち合わせより早く着いているはずである。

「ごめん……すぐに行く……から」

 自分だったら怒って帰ってしまっているかもしれない。

「ミシェル……」

 許してもらえるだろうかと髪を梳いて拳を握る。彼はこの髪を梳くのが好きだったなと、なぜか思い出した。

『ぷ、はっ……ははは、やっぱ寝てたのか、眠り姫』
「ねっ……」

 怒られると思っていたのに、返ってきたのは笑い声。そして相変わらず姫と称する面白そうな声だった。

『よかった、もう少し待って来なかったらこっちから行こうと思ってたんだ。何かあったのかと思ったよ』
「あの、本当にごめん、すぐ行くから……待っててくれるか?」
『ああ、駅前の【ビックウエスト】で待ってるよ』

 あとでねハニー、と耳に優しいミハエルの声。アルトはようやく心臓の逸りを押さえ、息を吐く。携帯端末を放り、大急ぎで身支度を調えた。
 ジーンズと白いセーター、マフラーとコート。手袋は……しないでおこう。
 アルトは、バタバタとアパートを飛び出していった。冷たい風が頬を撫でていくけれど、そんなことは気にしていられない。
 早く逢いたい。早く顔が見たい。早くごめんとおはようと……愛してるを言いたい。
 高く結ったポニーテールが、ゆらゆらと揺れた。



 バスを待つより走った方が速いと、アルトは休日の街路の人の合間を抜けていく。すれ違う恋人同士、休日出勤のサラリーマン、バイトに向かう若者。あの人たちはどんな今日を過ごすのだろうと口許が緩んだ。
 自分は今日どんな風に過ごせるだろうと、さらに口許が緩む。寒いはずの街路で、心はぽかぽか暖まる。
 待ち合わせの場所につくと、アルトはちらりと店内に視線を流した。その一回だけで、ミハエルの居場所は知れる。彼はとても目立つのだ。良くも、悪くも。
 アルトは目を瞠った。
 カウンターに座っているミハエルの隣に、この寒いのにミニスカートで生足露出の美女がいる。しかも、なにやら楽しげに話しているではないか。
 つまり、たまたま席が隣になったということではないようだ。なにせ席はたんまり空いている。休日にこの状況はどうかと思うが、アルトにとってはそんなことはどうでもいい。
 開いた口が塞がらない。遅れてきたとはいえ、恋人との待ち合わせ場所で、他の女と楽しそうにしゃべっているなんて!

「ねぇ? この店出てどっか行こうよ」
「うーん、とっても魅力的なお誘いだけど、俺ツレを待ってるんだよね」
「うそぉ、もう一時間くらいいるじゃない、ちゃんと見てたんだから」

 アルトはツカツカと歩み寄り、二人の間に割って入る。女に向かって、馴れ馴れしく触るなと無言のオーラを放ってテーブルを叩いた。

「ミシェル、何してんだ」
「アルト、おはよう愛してるよ。思ってたより早かったな」
「……ん、おはよ、愛してる」
 そしてミハエルの方は責めてみたつもりだったのだが、どうやら通じなかったらしい。嬉しそうな笑顔を向けられてしまって、絆されてしまったと言った方がただしいだろうか。

「お腹空いてる? 何か食べに行こう」

 アルトの頬に、軽くキスをくれる。こんなところで、と諫めたくもあったが、ぽかんと口を開けたまま微動だにしない女に向かって牽制もしてやりたかった。

「ケーキ……美味しいとこがいい」

 甘えてみせたのも、仲の良い恋人関係を見せつけてやるため。
 ミハエルはそれに気がついているのか、すっと腰に腕を回して引き寄せてくれる。口唇へのキスは軽いものだったが、アルトはそれだけでも嬉しかった。

「じゃあ、ごめんね。俺のたったひとりの大事なひとなんだ。何時間でも待てるくらいにね」

 ミハエルは飲み終わったカップを片手に椅子を離れ、女に向かって言い放つ。その先は何も聞かずに、返却口へカップを戻し、出口絵と向かっていく。アルトはミハエルに寄り添い、その店を後にした。
 美男美女ねと注がれていた店内の視線になど、気づきもせずに。



「ミシェル、待たせて悪かった。本当にごめん」

 店を出て、どこかご飯とケーキが美味しいところを探そうと肩を寄せ合って歩く。

「いいよ、モーニングコールしてやれば良かったな。昨夜遅くまで起きてたのか?」

 う、とアルトは言葉を詰まらせた。実際そうだったからだ。別に、そうしようと思って夜更かしをしたわけではないのだが、結果的にそうなってしまった。

「……眠れなかったんだよ。なんか、緊張しちまって」
「緊張? なんで」
「だって、今日逢うの楽しみにしてたから……」

 久しぶりのデート。どこに行こう、何を着ていこう、逢ったら何を話そう。そんなことばかり考えて、眠れなかった。
 つきあっていくらも経っていないわけでもないのに。
 いつもは学校でみんなと一緒にいるか、SMSでみんなと一緒にいるかだ。プライベートな時間がないわけではないが、任務続きだとどうしても気が張ってしまう。
 今日はふたりで休みを取っての休日だ。何も気兼ねしないで一緒にいられる。
 そう考えたら嬉しくてしょうがなかったのだ。

「もう、可愛いなアルトは。こんなことなら、昨夜俺んとこ呼べばよかった。それで?」
「え?」

 ミハエルは歩みを緩め、アルトの手を取り指を絡める。その絡めた手を持ち上げて、ぎゅっと握りしめた。

「手袋をしてこなかった理由はこれだろう?」
「…………ミシェルはずるい、なんでも分かったような顔してっ」
「ははは。だって俺もおんなじ理由で手袋してこなかったからさ」

 冷えたアルトの指先に、ミハエルの口唇が触れる。カアッと上がった頬の熱は、しばらく下がりそうもない。

「ば、ばかっ……」
「指先冷たい。走ってきたのか」
「だ、だってお前のこと待たせてたし……本当に悪いと思ってるよ。あっ、そうだ今日の昼メシ俺がオゴるからさ」

 せめてもの償いだと、アルトはミハエルの腕を引いた。だがミハエルは、それを受け入れようとはしなかった。

「いいよアルト。メシは割り勘、映画とか行っても割り勘。じゃなきゃ駄目だ、帰るからな」
「えっ、そんなの駄目だ、今日は俺が悪かったんだから、何か」

 させてくれ、と言いかけた口唇が塞がれた。
 突然のキスに、アルトは反応を忘れる。

「そんな色気のない償いより、サービスしてほしいな」

 口唇のすぐ傍でおねだりの言葉。アルトはようやく事態を把握して、顔を真っ赤に染めた。

「馬鹿お前っ……こんなとこで!」

 ここはふたりっきりの個室ではない。街中の、他人がいる歩道だ。ミハエルとはキスもそれ以上もする間柄だが、他人にはあまり知られたくない。

「大丈夫、アルトは今日も可愛いから」
「そんなわけあるかっ」
「本当にお前は自分を分かっていないね。悪いと思ってるんだったら、してよ」

 ミハエルはとうとう歩みを止め、近くの店の壁にもたれてしまう。どうやら、【サービス】するまでここを動かないようだ。

「で、でも……なにをすれば」

 アルトはミハエルの真正面に立ち、困ったように眉を下げる。彼が望んでいることが分からなくて、首を傾げた。

「うーんと……じゃあね」

 ミハエルはアルトの腰に腕を回し抱き寄せて、囁く。

「キス十回分で」

 抗議をする前に塞がれた口唇は、ちゃっかり十回キスをしてから解放された。



提供:リライト様 恋する台詞より「うーんと……じゃあキス10回分で」