恋人の特権

2010/04/01


 またか、とアルトは自室に入るなり呆れてため息をついた。
「よ、おかえりアルト」
「ミシェル、お前のベッドは上だろうが」
 二段ベッドの下、つまりはアルトのベッドであるはずのそこに、ミハエルの姿。あろうことか当然のようにくつろいで、アルトの私物である航空雑誌まで読んでいる始末。
「まあいいじゃないか」
 どうせあっちあんまり使わないんだし、とミハエルは何でもないように返してくる。
 それは実際そうで、恋人であるこの男は、身体を繋げるにしろ繋げないにしろ、ほぼ毎日のようにアルトのベッドを使っている。
 ミハエルが自分のベッドを使うのは、本気でアルトに追い出された時か、アルトの体調が悪い時、起こすのが申し訳ないほどアルトが寝入ってしまっている時だけだった。
 そんな光景にももう慣れてしまったアルトは、首にかけたタオルを抜き取りながら、ベッドに腰掛けた。もう少しくらい遠慮ってものがあってもバチは当たらないのになと思いながら。
「アルト、また隊長にこってり絞られたんだろ」
「……別に」
 ミハエルはくすくすと笑いながらベッドの上に起き上がり、背中からアルトを抱きしめる。少し湿った肌が、シャワー上がりなのだと報せてくれる。
 勤務体系は同じはずで、何事もなければミハエルとアルトは同じ時間に部屋に戻ってこられるはず。それがアルトだけこんなに遅れた理由は、今日のシミュレーションの成績を思い出せばすぐに分かる。
「一回撃墜されただけで、あんなに怒らなくても……」
 やがて観念したように口を尖らせるアルトに、ミハエルは言ってやる。
「アルト、戦闘とシミュレーションは違うんだぞ。たった一回が、命取りになるんだ。シミュレーションを100%クリアしていても、実戦で撃墜されちまうことだって、あるんだからな」
 楽観視するんじゃない、と強く言い放つと、それも分かってる、とアルトは俯いてしまった。
 実のところ、別にオズマに怒られたことでしょげているわけではないのだ。いまだにミハエルに追いつけない自分の力が情けなくて悔しいだけ。
 キャリアが違うと言ってしまえばそうなのだけれど、ミハエルとはプライベートでも仕事でも、最高のパートナーになりたいのだ。シミュレーションもクリアできないようじゃ、ミハエルに追いつく云々どころではない。
「明日、また頑張ればいいじゃないか。な、アルト。ほらちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」
 ミハエルはアルトの手の中のタオルを引っ張って、頭に被せる。まだ水分は取りきれていなくて、このまま眠ってしまったら風邪を引いてしまうと、ゆっくりと優しく、髪を撫でた。
「……あれ、姫?」
「うん?」
「シャンプー変えた?」
 手櫛で梳いた髪をひと房すくって、すんと鼻を鳴らす。いつもとは違う香りが、鼻を通っていった。
「あ、分かるか?」
 アルトの声が色めく。確かに今日はいつもと違うものを使って、自分でもふうんこんな香りがするのかと思っていたところなのだ。
 それをちゃんと気づいてもらえて、嬉しかった。
「この間街で試供品もらったんだ。新製品らしくて、なんかアンケートも、あ、だ、だからって別に何でもないんだけどっ」
 それって女の子に間違われたんじゃないの、とミハエルは言わないでおいた。
 こんなに綺麗な髪をしておいて女の子じゃないなんて、詐欺みたいなものだと思うけれど、特に手入れをしているようではないのも不思議なものだ。
「これ、さくらかな……いい匂い…アルトにぴったりだな」
 すくった髪に、ちゅっと口づける。手櫛で絡みもないアルトの長い髪は、ミハエルのお気に入り。高く結われているのも、こうして解かれているのも好きだ。
 軽くドライヤーで熱を当てる。傷みやすくなるかなとも思うのだが、乾ききったあとのこのサラサラ感が、たまらなく好きだった。
 満足して、ミハエルは髪をひとふさ、つんと引っ張る。頭皮に伝わった刺激に、アルトは振り向かずに答える。
「なんだよ」
「なんでもない」
 そう言いつつ、ミハエルはまた、つん、つん、と引っ張った。
「だから、なんだよ」
「いやー、楽しいなあって思って」
「ふざけんなもー」
 寝る、とアルトは振り向いてミハエルの胸を押す。背中から倒れこんだミハエルを押しのけて、狭いベッドの壁際に寝転んだ。
「お前よくそうやって俺の髪触るけど、そんなに楽しいのか?」
「楽しいのもあるし、嬉しいのもある。アルトの髪こんな風に触れるのって、恋人の特権だろ」
 ミハエルも当然のようにその隣に寝転んで、また髪を撫でる。残る熱が、手のひらに心地よかった。
 さら、と流れた髪が、腕に当たる。少しくすぐったい気もするけれど、こんな状況で触れるのもやっぱり、恋人だからこそ、だ。
「なあアルト、俺この香り気に入ったからさ、今度からこれ使えよ」
 手ですくって、さらさらと落ちていく様を見ているのが楽しいのか、ミハエルはそれを繰り返してアルトに囁く。図々しくも、命令口調で、だ。
 アルトは目を細めてむくりと起き上がり、面倒そうに返す。
「じゃあお前が買ってこいよ。……使ってやるから」
 言葉の合間に、ミハエルの上からキスをする。彼の身体に降っていく髪を、止めようとは思わなかった。
「明日、一緒に買いに行こうか、桜姫」
「……姫って言うな」
 ミハエルは笑う。不満そうに頬を膨らませたアルトを抱き寄せて胸の下に抱くまで、時間はかからなかった。