必要な理由と必要のない手のひら

2012/11/29


「なあギノ」

隣を歩く男から名を呼ばれたが、宜野座は視線すらも向けないでなんだと返す。どうせくだらないことに決まっているのだ。

「お前の髪さ……切らないのか? 前の」
「切らん」

やっぱり何の得にもならない話題だったか、と宜野座はわずかに歩調を速めた。にもかかわらず男はーー狡噛はそれに合わせて足を踏み出すのだ。

「なんでだ? お前昔はそんなに長くなかっただろ。眼鏡だってしてなかったのに」

それを聞いてどうするんだと言ってやりたいが、相手にするのさえバカバカしい。宜野座は狡噛の問いには何も答えないで、刑事課一係の部屋への廊下をただひたすら歩く。
確かに視界をちらつく前髪は昔はこんなに長くなかったし、眼鏡だってかけていなかった。それを知っているほどには狡噛とのつきあいも長く、他者よりは気安い会話も交わしている。
が、何から何まで話しているわけでもない。いちばん近い存在と言ってしまってもいいいのだろうが、だからこそ言いたくないことはあるのだ。

「それ伸ばし始めた頃、なんかあったか?」
 
わずかに怪訝そうな声音になった狡噛に、宜野座は思わずつま先をカツッと床に当てて止めてしまった。そうしてから、しまったと感じる。やり過ごしていれば気づかれることもなかっただろうに。

「やっぱりそうなんだな、宜野。俺にも……言えないことか」
「――何を言ってる、別に何もない! あったところで、お前に話さなきゃならん理由はないだろう!」

ようやく狡噛を振り向いた宜野座は、そこに険しい表情をした元相棒を見つける。
心の内側を探るような責める視線は何よりも苦手とするもので、宜野座はいつも目を逸らしたいと思うのに、狡噛の意思の強さからか、毎回磁石のように引き合って逸らせない。

「理由が必要かよ」
「お前にすべてをさらすだけの理由はな。聞くが、なぜそんなくだらないことを知りたがるんだ。知ってどうにかなるものでもないだろう」

せめてもの抵抗にと、口の端を無理に上げて言ってやったが、声が震えてしまっている。狡噛には気づかれているはずだ。
その証拠に、狡噛の目がすっと細められた。

「狡噛っ?」

腕を掴まれ、強い力で引かれる。前のめる体について足を踏み出すしかなくて、宜野座は戸惑いを隠せない。
もうすぐ一係の部屋という地点であるのに、逸れた通路の壁に強い力で押しつけられて、ダンと体がぶつかる音がした。

「つっ……、おい狡噛、なんのつもりーー」
「邪魔なんだよ」
「なん……」

狡噛の手が、頬にかかる長い前髪をかき掴む。そのあとすぐに触れてきた口唇に、宜野座は息を止めた。

「キスするときに邪魔だって言ってんだ」
「バカを言うっ……んッ……」

バカなことを言うなと言いたかった口唇は塞がれて、すべてを閉じこめられる。押しやろうとした手は壁に押しつけられて、ご丁寧に指まで絡められた。

「んん……ふっ……ぅ」

口唇が濡れていく。湿った吐息が漏れていく。眼鏡のフレームが頬に当たってズレていく。

「っは……う、ん……ッ」

朝っぱらからきつく絡められる舌が熱くて、鼓動が速くなっていく。
それを悟られたくないと思ってか無意識にか、つながれた狡噛の手を握りしめてしまうのが腹立たしかった。

「っはぁ……、はあ、は……」

満足したのかようやく口唇を解放して、狡噛は体を離す。それでもつないだ手はそのまま、呼吸を整えようと必死に肩を上下させる宜野座を眺めていた。

「邪魔、だと……言ったな、貴様」

整わない呼吸の中、宜野座は狡噛を忌々しげに睨みつける。上気した頬が扇情的などということは、宜野座自身は理解していないのだろう。

「だったら、それが理由だ!」

宜野座はつながれた手を振りほどいて、理由を求めた狡噛に答えを投げつけてやった。
それが真実かどうかなんてどうでもいい。狡噛を拒む理由になれば、それで。

「ふん? まあそれでももう慣れたし、ーー燃えるけどな」

しかし狡噛はそれさえ物ともせず、最後にひとつ小さなキスを落として体を翻す。確かに慣れてしまうほどには口唇も、体も重ねていたけれど。

「すぐ来いよ、ギノ」

そう言い残して、狡噛は一係の部屋へと足を向ける。
宜野座は腸が煮えくり返るような怒りをどうにか押し留めようとして、歯を食いしばりガンッと拳を背にある壁に叩きつけた。

「……っくそ……!」

それが緊張の糸を切るトリガーになってしまったのか、足の力が抜けていく。宜野座はその場に崩れ、濡れた口唇をごしと拭った。

――――しっかりしろ、見透かされる……!

あの視線は泣きたくなるほど恐ろしい。だけど泣けてしまうほど素直な心ではいられない。
知られるわけにはいかないのだ、彼には。
前髪で、伊達の眼鏡で視界を覆うようになった理由など。
理由を知ったら彼は、何を置いてもその解決に踏み出そうとするだろう。支える、と頼んでもいない腕を差し出してくるのだろう。

「俺にはそんなもの、必要ない……っ」

馴れ合うのはまっぴらだと、宜野座は歯を食いしばって沸き上がってくる嗚咽を耐えた。