ハッピーエンドじゃないけれど

2013/02/22
18話バレあり



持ち出すものはセーフハウスの鍵とヘルメット、そして新しい煙草とジッポくらい。
狡噛慎也はたったそれだけを手に、廊下を歩く。迷いのない歩調は彼の未来を示しているようで、潔かった。
タ、タ、と靴の裏が床に擦れる。あまり音を立てたくはないが、この時間帯なら起き出すヤツもいないだろうと、前だけを見据えた。

ふと、視線の先にあるものを見つける。

どれだけかできていた予測が足を止めさせることはなかったけれど、面倒そうに壁に背をもたれポケットに手を突っ込んだ同僚の目の前まできたら、さすがに足が止まった。

「行くのか?」

彼は顔も上げずにそう訊ねてくる。狡噛は視線を向けずに、

「ああ」

そう、答えた。

「止めないのか、ギノ」

ヘルメットを右腕に抱え、狡噛はかつて相棒と呼んだ男を振り向く。宜野座もそこでやっと、顔を上げた。
疲れた顔をしていると感じ、そうさせているのは自分かと、狡噛は今さらながらに思う。

「今ここで止められるくらいなら、お前が潜在犯に落ちる時だって止められたはずだ」

お前は俺の忠告を聞いたためしなどない、と宜野座は付け加えて眼鏡を押し上げてくる。
そういえばそうだなと狡噛は笑い、この男と笑い合っていたあの頃が懐かしいとらしくなく感傷に浸った。

「狡噛、お前の逃亡は明日には知れる。俺をはじめ、お前と交流のあった者たちへの監視がつくだろう。だから恐らく、話せるのはこれが最後だ」
「そうか……面倒ばかりかけちまって、すまなかったな」
「ハッ……今さら。部下の逃走を二回も見逃したんじゃこれ以上の出世は望めんし、本当にお前らにはうんざりだ」

宜野座の表情がふっと曇る。
縢は大丈夫だろうかと。
狡噛はこれからどうするのだろうかと。

自分は、これから。

「ギノ、お前の立場を危うくした俺が言うことじゃないが、自分の身を守れよ」
「……征陸にも言われたな、それは。どうして潜在犯というヤツは、こう揃いも揃って身勝手なことばかり言うのか……俺には理解できん」

自分の立場が危うくなったことくらい、いくら宜野座でも理解している。
シビュラを疑うことなく生きてきた宜野座だが、それが揺らぎ始めたどころか、危険人物をこうして見逃してしまうのだから。

それでも、一度浮かんだ疑惑を簡単に消せるほど器用な人間ではない。

「狡噛、ちゃんと逃げきれよ。しくじったらどうなるかってことを確認させるために、あんな茶番まで演じてやったんだ」

そして、真っ向からぶつかっていけるほど器用な人間でもない。

狡噛が羨ましい、と感じてしまった。そんな風に生きる機会には、きっと自分は出逢えない。

「らしくないことさせちまったな。だが、俺はこれで進んでいける」
「常守監視官には、何も言わなくていいのか? いきなりいなくなったら……泣いたりしないだろうか」
「……どうだろうな、あいつは強いから」

狡噛は肩を竦め、口の端を上げる。
良くも悪くも、彼女は狡噛に近い。自分の気持ちを理解して、行動を理解して、それでも馬鹿だと悪態をつくだろう。

「俺は、約束を破ってばかりだった。それは後悔をしている」


こちら側にくるなと笑った、佐々山との約束も。
ずっと刑事でいてくださいと祈った、常守との約束も。
一緒に上に行こうと手を握った、宜野座との約束も。


「だが、ここで立ち止まるわけにはいかない」

つまらない意地だと言われても仕方がない。刑事としての信念でも、義務でもない。自分をここまで突き動かすものがなんという名の怪物なのか、狡噛自身にも分からなかった。

「……今さらお前に従順さを求めるのは無駄だと分かっているが、ひとつだけ言っておく、狡噛」
「うん?」
「無茶をするな」

ひどく真面目に、静かに放たれたその言葉に、狡噛は思わず笑ってしまった。無理な相談だなと。
宜野座もその反応は予測していたのだろうか、諫めることはしてこなかった。

「手を出せ、狡噛」
「お手か?」
「違う馬鹿。煙草、……まだお前のデスクに残ってたから」

宜野座はそう言って、開封されたソフトパッケージを狡噛の左手に乗せる。体に悪いから止めろというのにやっぱり聞きもしない男には、必要だろうと。

「ああ……わざわざ持ってきてくれたのか。良かったのに」
「あとこれ、マネーディスク…IDは俺のだから、日常的な額ならそう簡単に足がつくこともないだろう。何かのたしにはなるはずだ」
「ギノ」
「デバイス、無茶な外し方したのか?」

宜野座は血のにじむ左手首を指す。
そんな無駄な傷を作るくらいなら俺が外してやったのにと言いかけて、そんなことをしたら共犯と見なされてもっと立場が悪くなるなと思い直す。
狡噛も、そうさせたくなかったのだろう。
宜野座はポケットからハンカチを取り出し、手当のされていない左手首に巻き付ける。

「相変わらずこういうことは不器用だな、ギノ」
「うるさい、手当してやっただけでもありがたいと思え」

それは確かに包帯としてはいびつな形だったが、狡噛は笑った。

「ありがとう」
「お前からの礼など気色悪い」

宜野座は眼鏡を押し上げ、出口の方へと視線をやる。もう行けと。
それを察して、狡噛もああと体をそちらへと向ける。
宜野座は見送りなどしないとあえて背を向け、狡噛とすれ違った。


「一緒に行くか?」


すれ違って一歩踏み出したそこで、左手が絡まる。

宜野座は息を飲んで、


「誰が貴様なんかと」


心の底から拒んでやった。

「だろうな」

狡噛も、予測通りの答えに笑った。
それでも、監視官用デバイスのはまった左手と、ハンカチが巻き付けられた左手が重なって指が絡まる。
何を馬鹿げたことをと思いつつ、この手を絡めたまま逃げてしまえたらと二人で考えた。

「次に逢うのは地獄か」
「なんで俺も地獄なんだ」
「俺は上には行けねえだろうし、約束を破る方だ。お前が来い」
「それでまたお前に振り回されるのか。ごめんだな」

前を見据えたままの互いの口唇からは、冗談混じりの本音が漏れる。

「ギノ」

だけどさすがに、俯いて振り切らないと言えない言葉があった。


「愛してた」
「知ってる、だから俺も愛してた」


絡み合った指が、それを最後に離れる。


ずっとずっと想ってた。
気づいた時には愛してた。


こんな言葉じゃ足りないくらい愛してる。


お互い振り向くことなく、最初で最後の触れ合いを終えて足を踏み出す。


次に逢うのは、きっと――――。