きみを飾る花を

2015/12/21



 食堂での出来事だった。近くに座った名前も知らない男たちの会話が、耳に入り込んできたのだ。
 別に聞き耳を立てていたわけでもなく、彼らの声が異様に大きかったわけでもない。ただある単語を耳が認識してしまってから、気になってしまったのだ。

「え、それで今日この愛妻弁当なわけ? 奥さんかっわいい〜」
「だろ? 朝早く起きてたみたいでさあ、なんかバタバタしてんなぁとは思ったけど、これ作ってたんだって思うと本当にアイツと結婚してよかったって思うよ」

 朝も行ってらっしゃいのキスしてくれたし、と続ける彼の手元には、大きめの弁当箱。狡噛の位置からでも鮮やかな色合いのおかずが詰められているのが見えて、なるほどサーバーでなく手作りなのか、と分かるほどだった。
 サーバーで作ればカロリー計算はしてくれるしできたてだが、弁当には向かない。何しろ色合いが味気ないのだ。公安局には食堂もあるし、外に出ればランチのできる店が立ち並んでいる。特に弁当を持ってくる理由はない。
 だが彼は今日、弁当を持ってきている。妻が頑張って作ってくれたらしい料理だ。温かくはなくても、愛情がたっぷり詰まっていることだろう。

「ふぅん、愛してるって言うだけで、そんなに機嫌よくなるもんなんだー」
「プロポーズん時も、なんとなくって感じだったし、普段からそういうこと言ってやってなくてさあ。でも家事とか頑張ってくれてるから、たまにはって思って」

 彼らの会話に、狡噛はうどんに入っていたかまぼこを口に含んで考え込んだ。状況が飲み込めてくる。
 恐らく昨夜、彼は妻に愛していると告げたのだ。嬉しがった妻が、朝早く起きて夫のために弁当を作り、行ってらっしゃいのキスで送り出してくれた、と。
 普段からそういう言葉を発していない彼だからこそ、愛されているという言葉での実感は、彼の妻に衝撃をもたらしたに違いない。何にしろ、その言葉ひとつで夫婦の仲が深まったようなのだ。
 まずいな、と狡噛は思う。
 うどんが、ではなく、普段の自分自身の行動がだ。
 狡噛にも大切な相手がいる。婚姻はまだ結んでないが、それに近い間柄だと思っている、パートナーがいるのだ。同じ職場で働く同僚でもあり、まさに最良の生涯のパートナーである。学生時代からのつきあいで、あと数年もすれば10年の年月にさえなる。
 だからこそ甘えていたのかもしれない。
 愛していると言ってない。
 それでも相手の気持ちは分かっているつもりだし、自分の気持ちも分かってくれていると思う。そうでなければこんなに長い間一緒になんていられない。

「そんでさぁ〜、嫁さんも愛してるって言ってくれて超テンション上がったんだよ。嬉しいよな、やっぱり」

 そこでこの一言だ。
 嬉しい。その気持ちはよく分かる。
 自分もパートナーにそんなことを言われたら嬉しくてしょうがない。ということは相手も同じはずだ。
 態度で示しているつもりではあったが、言葉でもちゃんと伝えてみよう。狡噛がそう決意するのに、大した時間はかからなかった。

「狡噛、お前も今ご飯だったのか」

 その時、聞きなれた声が聞こえて顔を上げる。まさに言葉で伝えようとしているパートナー、宜野座伸元だ。狡噛の顔がふっと緩む。

「ああ、ギノも座れよ」

 声も普段より優しくなる。特に隠しているつもりはないが、こんな調子じゃ周りにはすでに気づかれているだろう。
 いつもと同じメニューを頼んだらしい宜野座が狡噛の右隣りに座り、行儀よくいただきますと手を合わせた。その仕草がかわいらしくて、口元が緩む。
 愛していると言ったら、彼はどんな反応をしてくれるだろう。
 想像するだけで楽しい。
 そこでハッとする。言葉だけで大丈夫だろうか? 何かプレゼントでも贈った方が効果的だろうか。そうだ彼は花が好きだから、仕事が終わったら花屋に寄っていこう、と狡噛は計画を立てる。
 どんな花が好きかは分からないが、花屋に見繕ってもらえばハズレはないはずだ。あとはケーキでも用意して、愛してると言うんだ。

「なあギノ、今日さ、仕事終わったらお前んとこ行ってもいいか? ちょっと遅くなるかもしれないが」
「今日? ……別にいいが」

 予定は入れてないからなと、宜野座も快諾してくれる。まず第一関門は突破だ。狡噛はホッと息を吐いた。

「ご、ご飯は? 外で食べてくるのか?」

 宜野座の声が、なぜか上ずる。家に行くことはあっても、時間が遅ければご飯は別々だったりする。そんなに遅くならない予定ではあるから、狡噛は宜野座に、一緒に食べたいから待っていてほしいと告げた。

「分かった。来る前に連絡してくれ」
「ああ」

 狡噛の休憩時間が終わってしまって、名残惜しいが仕事に戻らなければいけない。じゃあ夜に、と声を掛け合って別れ、狡噛はドキドキする心臓を彼に感づかれなかっただろうかとひやひやしながら廊下を歩いた。



 それからの仕事は、そわそわしながらなんとか片づけた。
 先輩の監視官に大丈夫ですか狡噛くんと訊ねられたが、極私的なことであるため大丈夫ですと答えるしかなく、私情を挟まないようにしなければと反省しきり。
 運よく定時で上がることができ、帰りに宜野座の所属する一係を覗いてみたら、少し時間がかかりそうだ、とデスクに就いている彼から視線を送られた。
 視線で会話できるくらいの間柄というのが今はとても嬉しくてくすぐったい。狡噛はその視線に黙って頷くことで返し、公安局をあとにした。
 おかげで、ゆっくりプレゼントを選べるというものだ。

「そういえば、花屋なんて来たことないな……」

 検索してたどり着いた花屋は、そう広くはないものの色とりどりの花が並んでいて、新鮮な印象を与える。
 そもそも、検索しなければ場所も分からないあたり狡噛には普段馴染みのないものだ。いつも通っている道を少し外れたところに、こんな花屋があったなんて。
 写真や映像で見たことのある花がたくさん並んでいるが、やはり宜野座の好みが分からない。長く一緒にいても、知らないことがまだまだあるのだと、思い知らされる。

「いらっしゃいませ、贈り物ですか?」

 店の中できょろきょろしていると、店員が声をかけてきた。生身の店員が数人と、レジの接客ドローンが狡噛の視界に入っていたが、この規模では一般的な形態だろう。生身の人間なら、相談してみようと、狡噛は口を開いた。

「パートナーへプレゼントしたいんだが、好みが分からない」
「失礼ですが、女性ですか、男性ですか」
「男だ」

 かしこまりました、と店員はにこやかに応対してくれる。男と女では、やはり好むものが違うのだろうかと、これも狡噛には新鮮な発見だった。しかし、考えてみればそうかもしれないと納得してしまう。
 たとえば女性ならピンクのバラやカーネーションなどかわいらしいものも好きそうだが、男性が好むイメージがあまりない。
 俺だったらこっちかな、と名前も知らないオレンジの花を視界に映す。ディモルフォセカ、と値札に示してあったが、やはり馴染みのない名前だった。

「男性でしたら、こちらのひまわりですとか、カラーなんか人気ですよ。あとは、最近この花が」

 そういって店員はひとつの花を指す。紫がかったピンクが目に入ってきた。変わった形の力強い茎が見える。

「このデンドロビウムは蘭科のお花で、花言葉は思いやり、純粋、真心ですね。恋人への贈り物として、または自分自身へのご褒美としてお買い求めになる男性は多くいらっしゃいます」

 花言葉、という言葉に狡噛は目を瞬いた。そういうものが存在するとは知らなかった。きっと宜野座ならもっと詳しいのだろう。
 華やかで、それでも豪華すぎることもなく、狡噛はその花を中心にアレンジしてもらうことにした。気に入ってくれるといいなと思いながら、大人しめにラッピングされた花束を受け取る。
 次はケーキか、と近くのケーキ屋に向かい、これまたあまり入ったことがないため、前の客らが買い求める様子をゆっくりと眺めてから無難なイチゴのショートケーキを二つ購入した。
 花束と、ケーキの箱。普段持つことのない荷物を抱えるというだけで、心がざわつく。
 これに加えてあとひとつ、大事な言葉を今日は言うのだ。
 買うものを迷った分遅くなってしまった気がするが、宜野座はもう帰宅しているだろうか。携帯端末で今から行くと連絡を入れれば、分かったとだけ簡潔に返ってくる。
 狡噛はドキドキと鳴る心臓を押さえようとして、手がふさがっていてできないことに気づいて苦笑した。
 まあいい良くない鼓動ではないのだからと逸る心臓を放って、宜野座のマンションへと急ぐ。
 インターフォンを押す時は、本当に緊張した。初めて彼の家に来た時よりずっと緊張しているような気さえする。
 ロックが解除され、宜野座がドアを開けてくれる。合鍵で入らないのは、親しき仲の礼儀というヤツだ。

「ギノ、遅くなってすまない」
「い、いや、別に」

 たぶん隠しきれないだろうが、狡噛は花束とケーキの箱を背中で隠す。宜野座の様子がおかしいのは、それを不振がったせいだろうと、思った。

「あのさ、ギノ」

 決心が鈍らないうちに言ってしまおうと口を開いたが、視線の先に、険しい顔をした宜野座を見つけて声が詰まる。何かあったのだろうかと心配になってしまうほど、普段の彼と違っていた。

「狡噛、あの……俺」

 絞り出すような声は震えてさえいるようで、これは愛の告白どころではないと狡噛は眉を顰める。まず彼の話を聞いてからだと、促そうとしたその時。

「俺、あの、あ、…………愛して、る」

 目を瞠った。小さな、本当に小さな声で放たれたそれは、狡噛が宜野座に言おうとしていた言葉だ。なぜ彼の口から先に飛び出してしまっているのか。計画がどこかから漏れていたのだろうか? いやそんなはずはない、今日の今日で、心の中で考えていただけのはずだ。悟られる要素はどこにもない。
 でも、確かに、宜野座の口から愛してると、聞こえた。
 初めての言葉だ。宜野座の様子を見るに、精いっぱい頑張って言ってくれたのだろうと分かる。分かるから、もう一度聞きたかった。

「ギノ、もう一度言ってくれ」
「な……っ、馬鹿、誰がこんな恥ずかしいことっ」
「だってそれ、眉間にしわ寄せて言うようなことじゃないだろう。ギノは、俺のことを想うの、つらいのか?」

 ハ、と宜野座はそろえた指先で眉間に触れる。その仕草が可愛らしくて、狡噛は笑ってしまった。頑張ったのにおもしろくない、と宜野座はふてくされて視線を背けるが、つらいわけない、と呟いてくれた。

「じゃあ、もう一度。頼むよギノ。俺のことどう思ってる?」

 狡噛は優しい声でねだる。その顔が嬉しそうで、負けたのは宜野座の方だった。

「あ、い、……愛してる」

 それでもやっぱり恥ずかしそうにほほを染めて、先ほどよりは大きな声で、告げる。
 狡噛はその瞬間、宜野座を抱きしめた。

「うわっ、おいなんだ狡噛!」
「嬉しい、すごく嬉しい、ギノ。俺もお前を愛してる」

 花束とケーキの箱を持ったまま、告げようと思っていたその言葉で包んで、抱きしめた。

「えっ……」

 耳元で聞こえた言葉に、宜野座は目を瞠る。思いもよらない愛の告白に、顔を真っ赤に染めた。

「な、なん……なんで」
「愛してるって、俺も今日お前に言いたかったんだ。まさかギノに先を越されるとは思っていなかったがな」

 ぎゅう、と力を込めて抱きしめてから、狡噛は体を離す。できたその距離の間に、バサリと花束を差し出した。

「え、え、……え?」

 突然の言葉と、突然の花束。おまけにケーキ。宜野座は混乱して、うまく言葉を紡げないようだった。追い打ちをかけるつもりではなかったが、狡噛はその仕草が可愛く思えて、また愛してると言ってしまった。

「あ、おいギノ」

 あまりに多くのことが起こりすぎて、宜野座の体から力が抜けていく。ぺたんと座り込んでしまったのは、緊張がほどけたせいもあったのだろう。ありったけの勇気を出して告げた言葉に、倍以上で返ってきたのだ、無理もない。

「すごい破壊力だな、確かに」

 狡噛は花束とケーキをソファに置き、宜野座を持ち上げてその隣に座らせる。言葉一つがこんなに絶大な威力を持っているなんて思わなかった。

「ギノ、どうして急に? すごく嬉しい」

 狡噛はソファに座らせた宜野座の前にひざまずき、膝の上に腕を乗せて顔を覗き込む。宜野座はまだ夢心地なのか、真っ赤な顔で震えていた。歓喜で震えたいのは狡噛も同じだったが、嬉しいという気持ちをちゃんと伝えたいと、いつもと同じつもりの声音で訊いた。

「あ、の……、今日、食堂で……そういう話を聞いてしまって……」

 やがてぽつぽつと話し始める宜野座に、目を見開く。食堂のということは、狡噛が聞き耳を立ててしまったあのグループだろう。確かに宜野座も食堂にいて、席をともにした。彼らの会話は終わりかけだったから、まさか宜野座が聞いていたとは思わなかったのだ。

「俺、そういう言葉を言えてないし、でもお前を想ってるのは絶対だし、言ってみたほうがいいのかって……狡噛が、喜んでくれるかと……思って、たのに、ずるい」
「え?」
「ずるい、こんなの。花束とか、ケーキとか、なんで俺の方が嬉しくなるようにしてるんだ、この、馬鹿」

 理不尽な八つ当たりだ、とは思うが、それ以上に宜野座が愛しい。嬉しいという気持ちを、全身で表してくれる彼を、心の底から愛しく思った。

「俺も同じだよギノ。アイツらの会話聞いてて、何も言ってなかったなって思って、ギノをびっくりさせたかった。どんな顔するかなって思ってた。先を越されたのは予想外だったが、予想以上の反応をもらえて、嬉しい」

 伸びあがって、こつりと額を合わせる。至近距離で視線が重なって、瞬きさえも惜しい。

「……キスをしても?」
「……ん」

 そっと重なる口唇は、いつもより温かかった。

「花束と、ケーキ、ありがとう……」
「ああ、うん、俺は花の種類とか分からないからな、勧められたもの買ってきたんだが、気に入ってくれると嬉しい」
「飾らせてもらう……あの、狡噛、ご飯……作った、から」
「俺の好きなのばっかりだな。ありがとうギノ、一緒に食べよう」

 まだ恥ずかしそうにしている宜野座の頬にキスをして、食卓につく。愛してるの一言で、こんなに幸福になれるなんて思っていなかった。
 二人はその夜、いつもより激しくて、濃密な触れ合いを楽しんだ。




「久しぶりだな、狡噛」
「元気そうでなによりだ」

 宜野座の指先が、一輪の花をつまんでいた。その茎は狡噛の耳に挟まれて、案外に似合うなと宜野座に笑わせる。

「お前、ロンの墓に花置いてっただろう」
「バレたか」
「バレるに決まってる、馬鹿」

 呆れつつも、宜野座は幸福そうに笑う。狡噛も照れくさそうに笑う。
 まさかこんな時まで続くとは思っていなかった、あの頃からのやり取りに。
 花を贈る時は、あの言葉も一緒についてくる。音にはならなくても、二人の間では分かるものだ。


 愛してる――そのたったひとつの愛の言葉が、きみを飾る花と一緒に。