傷無-KIZU・NA-

2012/11/24



カツカツと踵を鳴らして廊下を歩く宜野座伸元の前方――視線の先に、見知った男が壁に背をもたれさせていた。
俯けていた顔を上げてこちらを向いてきたところを見るに、恐らく待っていたのだろう。宜野座はわずかに眉を寄せて目を細め、その男……狡噛慎也と視線を合わせた。

「何か――言いたげだな、狡噛」

宜野座は、我ながら馬鹿げたことを言ったものだと心の中で自嘲する。何もなくて、わざわざ待っているわけがないのだから。
だがその何かをおとなしく聞いてやるような義理は、もうない。お互いを相棒と呼んでいたあの頃ならまだしも、今は監視官と執行官、上司と部下、飼い主と猟犬……そんな風に対比するべき関係なのだ。
向けられる視線に一度は立ち止まってやったものの、それすら煩わしく思えて、視線を逸らし再度足を踏み出した。

「ギノ」

通り過ぎてやろうとしたにもかかわらず、それは狡噛の手によって止められる。掴まれた右腕にわずかな痛みを感じて、宜野座は苛立たしげに振り向いた。

「なんだ」
「怪我――したんだってな」

お前だけ、と付け加えてきたのは、狡噛なりの厭味だろうか。上がる口角からはそうとしか読み取れずに目を細める。

今回の事件の犯人が利用していた部屋に踏み込んだ途端、罠として仕掛けられた爆弾が作動したおかげで宜野座は確かに右手に怪我を負った。最前にいたはずの縢や六合塚は無傷だったというのにだ。
反射神経の問題なのか、彼らが犯罪心理を理解し得る潜在犯だからなのか、それは宜野座には分からない。だがきっと、あの現場にもし狡噛がいたなら、自分はきっとこんな怪我など負っていなかっただろうことは分かる。
狡噛と行動を共にしていた頃は、怪我らしい怪我など負った記憶がない。危険な目に遭ったことがないわけでもない。犯人の追跡や現場の検証で、それなりに危険はあった。だが決して、狡噛に守られていたわけでもないのだ。
現場での状況判断――直感というものは、どれだけ勉学に励もうが養えるものではなかった、それだけのこと。
言いようのない感情が胸の中にくすぶり続けている。他人に言わせれば、嫉妬だの羨望だの陳腐な言葉に替えられてしまうのだろう。

 ――――誰が、こんな男に。

自覚したくない。立場が違ってしまってもまだ尚自分の前を歩くような存在に、どんな感情も抱きたくはない。

「相変わらず……詰めが甘えんだよ」
「業務に支障はない、放せ」

共になどいられるかと、宜野座は狡噛の手を振りほどこうとした。しかし、さらに強められた指の力にそれは叶わず、抗議しようと睨みつけた視線の先に、不快そうに寄せられた眉を見る。

「傷、見せろ」

そう言い放つ狡噛の視線は、だが一瞬も包帯の巻かれた右手には落ちず、ただ宜野座を射抜くようにまっすぐ見つめていた。
傷、とは、包帯の下の右手の傷ということか――と宜野座はわざわざ確かめるように頭の中で整理して、次いで目を細める。

「お前に見せなきゃならない理由が分からん。見せた瞬間に治るというなら、いくらでもそうするが?」

ハ、と息を吐くように笑い、撥ねつけてやったというのに。

「ギノ、傷を見せろ」

狡噛はそう繰り返し、宜野座の口唇を引き結ばせた。
流れた冷たい沈黙を裏切るような、視線の絡み合い。何故と問うのも視線なら、見せろと強要するのもまた視線だった。
やがて宜野座は狡噛に右手の甲を向けてみせ、殊更ゆっくりと包帯をほどいていく。そうすることでやっと、狡噛は宜野座の右手を見据えた。

「……満足か?」
当てつけるようにも晒された患部を確かめて、狡噛はゆっくりとひとつ瞬く。宜野座はそれを合図にしたかのように、ため息を吐いて自らも傷の具合を確認した。
爆風で吹き飛んだ際に擦りつけてしまったのは確かに自分の失態だが、包帯が少し不便なだけで業務に支障はない。痛みもすぐに消えるだろう。いや、事件を追っていればそんな痛みなど気にしている余裕もないだろうか。

「この程度では痕も残ら――」

残らないだろうと言いかけた口唇が、そのまま止まる。
名残のように手首に垂れ下がっていた包帯を無造作に引き掴み、口許へ寄せた男のせいで。
冷えた手の甲に、触れる口唇の感触。宜野座は瞬くことさえ忘れて男を――狡噛を凝視した。

「狡、噛……?」

その男の名を呼んだほぼ同じ瞬間、関節部分に歯を立てられて顔を歪める。傷の痛みよりも強く感じた噛まれた痛みに、思わず息を呑んだ。

「お前に俺の知らない傷があるのは気に食わないからな」
「なっ……」

狡噛はそう言って宜野座の手を投げるように解放する。
そんな理由か、そもそも何故自分の傷をすべてお前に把握されなければいけないんだ、意味が分からない! と、そんな抗議が噴き出しそうだったのに、何から言っていいのか分からず結局どれをも言えなかった。

「ギノ、行くぞ。捜査方針立て直すんだろ」
「お前に……ッ、言われるまでもない!」

狡噛は何もなかったように分析室へと足を向けている。
それが腹立たしくて、宜野座は対抗するようにも踵で床を蹴り彼を追い越した。


痛み出した手の甲に包帯を巻き直し、鼓動を速めた心臓には、気がつかない振りをして。