背中の

2012/11/25




刑事課一係の部屋に脚を踏み入れると、すでに出勤した執行官がいた。入り口側から見て手前側のデスクに、六合塚弥生が待機している。

「縢は?」
「まだ来てませんよ」

宜野座伸元は視線だけでその存在を認識すると、六合塚からも視線だけの朝の挨拶が返ってくる。それは別段気に留めるようなことではないと、宜野座は今日の勤務に一人足りない人物の所在を訊ねた。

「そうか」

六合塚がさほど興味もなさそうに返してきたのに、宜野座は時計を見下ろして許諾をした。始業時間はもう少し先だ。遅刻というわけではないのだから、そこまで厳しくする必要はないだろう。

「ギノ」

宜野座は自分のデスクにカバンを置き端末のスリープを解除する。と、かけられる声があった。この部屋に存在する、もう一人の執行官だ。

「なんだ、狡噛」
「話がある。つきあえ」

狡噛慎也はそう言って親指で出入り口のドアを示す。彼も征陸同様夜勤明けのはずだが、待機していたのはそのせいだろうか。

「ここでは話せない内容なのか」
「ああ」

今は追っている事件はない。
とは言っても日々寄せられるエリアストレス上昇の出動要請はあり、気を抜ける状態ではない。もしや夜勤中に何かあったのかと、宜野座は目を細めて狡噛をまっすぐに見据えた。

「――分かった。六合塚、少し頼む」

狡噛の表情は深刻ではないながらも真剣なもので、やり過ごすわけにはいかないように思えた。
宜野座は今日の日勤者である六合塚に断りを入れて狡噛と共に出入り口へのドアへと向かう。六合塚は読んでいた雑誌から顔を上げて無言で頷いた。





「コーヒーでいいか? 無糖だったよなお前」

フロア内の休憩室には、権限認識付きの端末や流行の雑誌、誰が持ち込んだのかクッキーやキャンディなどという菓子(のように加工されたもの)が置いてある。解放式のそこにはドリンクマシンも充実していて、職員たちの良いリフレッシュスペースとなっている。
だが、狡噛はあえてその場所を避け、廊下に備え付けられたカップ式の自動販売機の前で立ち止まる。
リフレッシュスペースは他者もいるのが常であり、よほど聞かれては困る内容なのかと宜野座はわずかに眉を寄せた。

「……砂糖だけ入れてくれ」

そう答えた宜野座に少し驚いたように狡噛は瞬きながらも、分かったとボタンを押す。ほどなくしてピッピッピッという音が聞こえ出来上がりを知らされた。狡噛はそのカップを取り出し、宜野座に渡してやる。

「――好み、変わったのか」

狡噛の記憶では、いつでもブラックコーヒーを飲んでいたように思うのだが。

「そういうわけじゃない」
「ふん? まァ……いいがな」

狡噛はそう言って自分もブラックのコーヒーを買い求める。自販機に対して角を合わせるように置かれた長椅子の短辺に腰を下ろし、

「座ったらどうだ、ギノ」

立ったままの宜野座を見上げ、自分の後ろを顎で指した。立ったまま飲むのはいささか行儀が悪いと思ってか、話が長くなりそうだと思ってか、宜野座は少しためらってから足を踏み出し狡噛の後ろに腰を下ろす。

「何かあったのか? 狡噛」

湯気の立つコーヒーを口に含み、連れ出しておいて話を切り出そうとしない狡噛にじれて宜野座は自ら促した。

「何ってほどでもないが……ギノ、お前、ここ最近出ずっぱりだろ。ちゃんと寝てるのか?」

宜野座は目を見張る。振り向いた先には顔だけで振り返る狡噛の姿。

「俺ら執行官は交代で出てるから体を休めることもできるが、お前は違うだろ、ギノ」

刑事課には三係が存在し、それぞれに原則として執行官が四人と監視官が二人ずつ配属される。原則ということはイギュラーもあり、一係はまさにそれだった。
執行官は足りている。だが監視官は現在、宜野座伸元しかいなかった。
つまりは、交代するべき相手が存在していないということになる。
二四時間三六五日、犯罪計数の高い者が現れれば当然のこと、エリアストレスが上昇しただけでも執行官を伴い出動しなければならない。なぜなら、執行官は監視官が付き添っていないと自由に外界を歩けもしないのだから。

「それを言うために……連れ出したというのか」

宜野座の眉が寄り、深くしわを作る。事件や執行に対しての重大なことかと思ってついてきてみればそんな個人レベルの話しとは。

「いざって時に倒れられちゃ、こっちだって困るんだ」

狡噛は宜野座のそんな心の内を悟ったのか、個人レベルでは済まされない仮定を持ち出してくる。
お前が心配なんだと口にするより責務を掲げてやった方が効果的なことは、長いつきあいから知っていた。
もし宜野座に万が一のことがあっては、いざという時に執行官を使役する者がいなくなる。それは即ち、事件の深刻化を意味するのだ。

「自己管理くらいしてる」
「そんな顔色しといてよく言うな。疲れてるから糖分採りたくなるんだろ、そのコーヒー」
「ただの気分だ、余計な世話はやめてもらおう」

苛立たしげにごくりとコーヒーを喉に流し込み視線を逸らす宜野座に、狡噛も顔を正面に向け直して対抗した。

「宜野。お前は俺の言うことなんか聞きやしねえんだろうが、あえて言う。少し――眠れよ」

宜野座に背を向けている状態では、彼が今どんな表情をしているのか分からない。だがきっと、忌々しげに歯を食いしばっているのだろうと推測できる。

「今さら相棒面するな、狡噛」

そしてその推測は実際当たっていて、絞り出すような声に狡噛は気づかれないように苦笑した。

「だったら、保護者か?」
「ふざけるな。俺の方がお前を飼っているんだぞ」

そうだな、と狡噛は肩を揺らす。宜野座は悪態のつもりだったのだが、素直に受け入れてしまった狡噛に毒気を抜かれて俯いた。

「新しい相棒、来ねえのか」
「……ああ、人事課からは何も聞いていないからな。それに」

しばらくはこのままだろう、とカップに残るコーヒーを飲み干して、常にはない砂糖の甘さに少しだけ目を伏せる。
そうして開いた口唇から漏れた言葉は、


「俺にはもう、相棒なんか必要ない――」


確かに、宜野座の本音であった。
狡噛は一瞬目を見張り、背に感じた重みに細く息を吐き出した。

ギノ……。

小さく呟いたつもりの言葉は、果たして音になっていただろうか。
背中に感じる彼の重みと、かすかに聞こえてくる寝息が、狡噛に拳を握らせる。
相棒なんか必要ない――そう言わせてしまったのは、確かに自分の咎だ。
かつて宜野座の相棒として監視官を務めていた自分だからこそ、彼の所業に言及できるのだと思っている。だけど互いの間にあった信頼と呼べた絆を断ち切った自分だからこそ、彼は拒むのだ。
だがそうしていても身を預けてくれる元相棒に、何を言ってやればいいのだろう。

「ギノ……」

彼の名を呼ぶ口唇が震える。応えてほしいわけではない、無意識に溢れる音。
項垂れて残るコーヒーを見るともなしに見下ろす狡噛に、陽気な声がかかった。

「あれ、コウちゃん? おはよう。今日はもう明けてんじゃ……」

狡噛はハッと顔を上げて、今出勤してリフレッシュルームのドリンクを持ってきたらしい縢を視界に認めた。人差し指を口唇の前に立ててみせ、空いた手は背にあるものを隠すように上げた。

「こいつ、少し寝かしといてくれ」
「あー……、うん、そだね。お疲れコウちゃん」

狡噛の隠したがったものの存在を悟って、縢はひらひらと手を振ってくる。無防備に眠る姿など見られたくないだろうというのは、縢の、そして狡噛なりの気遣いだった。
「悪い」
「いいって、分かってるよ」

じゃあまたねと縢は何もなかったように踵を返す。宜野座が働き詰めなのは縢だって知っていたし、それを狡噛が気にしているのも感じ取っていた。
途中でやっぱり気になって振り向いたら、背にもたれ掛かって眠る宜野座と、それを何でもないように支えながらカップのコーヒーを飲んでいる狡噛が見えた。





「二分三七秒遅刻」
縢が一係の部屋に足を踏み入れると、六合塚が読んでいた雑誌で額をはたいてくる。確かに出勤時間がすぎているあたり文句は言えないが、

「いーいじゃねえかよ少しくらいっ、俺の時計はジャストなんだよ」

言い訳と言う名のコミュニケーションくらいは許してもらおう。彼女に通用するかどうかはまた別次元だが。

「あ、そうだ。ギノさん寝ちゃったから、しばらく戻ってこねーよ」

すべったギャグをやり過ごすためと業務報告を混じらせた縢に、六合塚はぱらりとページをめくって、確認するように訊ねた。

「狡噛?」
「そ。あのギノさん寝かしつけられるとか、コウちゃんほんとにすごいよねえ」

俺は絶対無理だわ〜と笑いながら椅子に腰をかける縢に、狡噛しか無理なんじゃない? と六合塚は口にする。そもそも自分たちが寝ろなどと言っても聞くどころかただのノイズくらいにしか思わないのだろう。

「元相棒なんでしょ、扱い方はいちばん分かってると思うけど」
「ねえ、コウちゃんが執行官になったのって、迷宮入りになった例の事件追っかけるためだけじゃなくて、もしかしたらさ」

縢はゲーム端末を両手で器用に操作しながら、独り言のように呟いた。

「……なに」
「――いーや、なんでもない」

分かっていながらも促すような六合塚に苦笑して、縢はゲームに意識を移していく。



 そのあとたっぷり一時間、宜野座が一係の部屋に戻ってくることはなかった。