戸惑い

2015/01/27



誰もいない教室で、初めてキスをした。
日も暮れて、薄暗い月明かりしかないその場所で、初めて恋人と呼んでいいらしい相手と口唇を合わせた。
そっと触れて、それだけで離れていったけれど、感触は間違いなく他人の口唇。

「……帰ろ、ギノ」

宜野座が好意を寄せている相手――狡噛慎也は、口唇を離したあとゆっくりとそう言った。宜野座は頷くしかなくて、無言で頭を垂れる。

――――キ、キス、……した。今、キス……した、のか、狡噛と……っ。

そっと握った手を引かれ、ゆっくりと足を踏み出す。今さらに状況を把握して、宜野座は普段白い顔を真っ赤に染めた。
ずっと恋という意味で好意を抱いていた相手と、つい先日恋人同士になれた。

なあ俺どうもギノが好きみたいなんだがと言われ、最初は信じることなんかできなかったけれど、そうすれば狡噛が淋しそうな顔をして、やっぱり気持ち悪いかと訊ねてきたのだ。
そんなわけはないと慌てて否定して、宜野座も自分の気持ちを告げた。

狡噛は嬉しそうに笑ったあと、気が抜けたのかそこにしゃがみ込んでしまったのを覚えている。
じゃあつきあおうと改めて言われた時、嬉しくて泣いてしまいそうだったことも覚えている。
叶うなんて思っていなかったから、どうすればいいのか戸惑ったことも覚えている。

いや、今もまさに戸惑っている。

こういう時どんな顔をしていたらいいのか分からない。
手を引いてくれる狡噛の顔を見るどころか、顔を上げていられない。
キスをした嬉しさよりもまだ、恥ずかしさの方が勝っている。
狡噛が気を悪くしないだろうかと思うのだが、どうしても顔が上げられない。いつもみたいに話せない。
どうしたらうまく恋人同士として接することができるのか。そんなのどのテキストにだって書いてやしない。
それでもどうにか頑張って顔を上げてみたら、狡噛の背中だけが映った。

――――怒っ、て、る、……んだろうか。どうしよう、なにも言ってくれないし……俺、どうしたら……。

せっかくキスができたのに、それをうまく表に出せないせいで、狡噛の機嫌を損ねてしまっている。宜野座は泣きたくなった。

「なあ、ギノ……あのさ」
「えっ?」

そのとき、狡噛の方から話しかけてくれて、慌てて声を返す。狡噛の声は、怒っているというより宜野座と同じく戸惑っているように感じられた。

「……もしかして、嫌だったか……?」

宜野座は、え、と思わず声を詰まらせる。キスのことを言っていると分かるけれど、どうして嫌だったのかなんて発想になるのだろうと、疑問符だけが押し寄せてきた。

「な、なんでそんな」
「ずっと俯いたままだし、何もしゃべってくれないし、まだこういうの嫌だったのかと思って……すまない」

宜野座は目を見開いた。狡噛も、どう接していいか分からなかったなんて。そんなこと思いもしなかった。なんでもそつなくこなす狡噛が、こんなことで戸惑うなんて。

「ち、違うんだ狡噛、俺こそすまない……あの、なんていうか……どうしたらいいか分からなかったんだ」
「え?」
「嬉しいのにものすごく恥ずかしくて、お前の顔見れなくて、何を言えばいいのかも分からないし、こんな態度とって怒らせたらどうしようって……」

今だって正直恥ずかしくてしょうがない、と宜野座は付け加える。

「……馬鹿だな、ギノ。怒るわけないだろ。むしろ俺が怒られるかと思ってたのに」
「怒るわけないだろ、こ、恋人、なんだから、キス……とか、し……したい、し……慣れたら、そのあと、とか」

これが宜野座の精一杯だ。恋人になれて嬉しい、キスができて幸せ。これからもずっと幸せでありたい。
ふたりで。

「ギノ、そんな可愛いこと言うと俺の理性吹き飛んじまうぞ」
「な、慣れたらって言っただろ!」
「分かってるよ、俺だって今そんなことしたら心臓が破裂しちまう」

だからそれまでいっぱいしよう、と狡噛は付け加える。宜野座はためらいがちにも頷いて、そっと目を閉じた。
そうして誰もいない廊下で、二度目のキスをした。