この先の幸福

2016/05/04 11:27



 はらりはらりと、紅色の花弁が落ちてくる。それを見上げて、わぁ……と感嘆の声を上げた。

「すごい……すごいな晋助、視界が紅で染まっていくぞ」

 夜に紛れそうな紺の着物を身にまとい、ズラ子は風でなびいてしまう髪を押さえる。見上げた桜はもう葉に変わり始めていて、そのせいか満開の頃のように花見をする者たちはいなかった。おかげで貸し切り状態だ。

「ここももう散っちまうな」

 こちらもまた夜に紛れてしまいそうな黒をまとう晋助が、同じく桜を見上げながら呟く。そうだな、と残念そうな声が返ってきたけれど、

「でも、晋助と見られて良かった。満開の頃は忙しかったからな、お互いに」
「あァ……そうだったなぁ」

 時間を作ろうと思えば作れたかもしれないが、こんな風に二人きりで見られたのだから、むしろ良かったのだろう。
 散りかけた紅色でも、相手が大切な人なら、美しく色づく。

「綺麗だな……」

 ズラ子が、落ちてくる花弁に手を伸ばす。その横顔の方が綺麗だがなと口には出さずにおいて、晋助はくわえていた煙管を外しふうっと煙を吐いた。

「なァ知ってるかいズラ子。そうやって落ちてくる花弁を受け止めることができたら、幸福が訪れるんだとよ」
「え、そうなのか? この花弁を?」

 ズラ子は晋助を振り向き、半信半疑で訊ね返す。視線だけで答える晋助に花弁を見上げ直し、ひとひら、手に取ろうとした。

 だが風で揺らいだ花弁はふわりと浮き上がり、ズラ子の手には来てくれない。

「あ……、……んー、難しいな」

 では違う花弁をと思うのだが、これがなかなかに難しい。軽い故に、ほんの少しの空気の抵抗でも流れが変わってしまうのだ。
 なるほど、こんなに難しいのならば取れた暁には本当に幸福が訪れてもおかしくない。

「くそ、取れん」
「くくっ、まぁせいぜい頑張んな」

 取れないとなると途端に悔しくなってしまう。今年はもう花見に来られそうにないから、機会は今日しかないだろうに。それなのに意地悪な花弁は、ズラ子の指をすり抜けていってしまう。

「……もういい」

 しばらく奮闘していたズラ子だが、ひとひらも取れやせず、もしかしたら自分には幸福など訪れてくれないのではと俯いてしまった。

「だ、だいたいそんなもの迷信だ、幸福とは自分の手で―」
「ズラ子」

 悔し紛れに呟くズラ子に、晋助が手を伸ばす。そっと前髪に触れてきた晋助に首を傾げたら、すいと何かをつまんだ指先を差し出された。

「お前さん、ちゃんと受け止めてるじゃねーか」
「えっ……」

 晋助の指につままれたそれは、紅色の花弁。どうやら前髪についていたらしく、ズラ子の顔がぱあっと華やいだ。

「その綺麗な髪に引きつけられたンだろ」

 晋助はその花弁をズラ子の手のひらに落とし、嬉しそうに口許を緩めるのを満足げに眺める。迷信だと言ったそれでも嬉しそうに笑うズラ子が見られて良かったと、晋助も口許を緩めた。

 ――――まァ、お前さんは俺が幸福にしてやるけどな。

 花弁などに頼らずとも、とまだ口にできない言葉を胸に掲げる。
 堂々と言えるのはいつだろうなと苦笑いをしたら、それを見とがめたズラ子がくるりと振り向いてきた。

「晋助は、いいのか? 花弁、取らなくても。俺が取ってやろうか? あ、でも自分で取らないと駄目なのか……」

 ひとひらの幸福を手に入れたズラ子が、上機嫌で晋助の分の幸福も、と手を伸ばしかけ、気づいて止める。晋助はその手を絡め取り、

「俺ぁいいんだよ」
「でも」
「ここに、極上の薄紅があるじゃねーかい」

 ズラ子をそのまま抱き寄せて、口唇の薄紅を奪い取る。
 ちゅ、と音を立てて離れていった晋助の口唇に、口づけられたのだと認識してズラ子はボッと頬を赤らめた。そっちの紅もいいなあと笑う晋助の腕に自分の手を添えて、

「……これで晋助も幸福になれるだろうか?」

 ズラ子は自分から口唇を重ねてみたりした。